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然し乍らとにかく前に進むしかなかった。黒いギンガムチェックのサンダルの紐が踵かかとで靴擦れを起こした。皮膚が禿げる感覚と痛み、生温い感触は血が滲んでいる証拠だ。
(は、早く、早く!)
けれど靴擦れごときで怯んでいる暇は無かった。胡桃の樹の下の秘密を知った私の行く末は決まっている。一分一秒でも早く峠下の交番に駆け込んで保護して貰わなければ、私は楡にれの樹の下に埋められて小石の城壁で囲まれてしまうのだ。
(何時、今、何時!)
額に汗が滲んだ。携帯電話を開くと22:15と表示されたが峠下の明かりはまだまだ遠い。携帯電話の明かりに浮かび上がった私の表情は恐怖に青ざめた。
(ーーーあ)
タクシーのハイビームライトが曲がりくねった道をこちらに向かい進んで来る。この先に民家があるとは思えない。例えあったとしても何万円も掛けてタクシーで帰宅するだろうか。
(ーーーまさか、惣一郎)
私は携帯電話の電源を切って明かりを消し、祈るような気持ちでその場所に小さく蹲うずくまった。黒いワンピースはその姿を多少は隠してくれる筈だ。
(お願い、お願い、お願い、お願い!)
タクシーは私の横を通り過ぎ安堵のため息を吐いたのも束の間、それは絶望に変わった。後部座席の扉が開いて外に出て来たのは惣一郎だった。
(あ、あ、あ!)
惣一郎は私に声を掛けようと手を差し出したがそれはブラリと垂れた。なにか閃いたものがあったのだろう、後部座席の扉が閉まる音がしてタクシーはコテージ方面に向かって走り去った。
確認をしに行ったのだ
惣一郎は胡桃の樹の秘密が暴かれていないかを確認する為にコテージに戻ったのだ。
「あ、あぁ、ああ!」
私は声を大にして走った。すると惣一郎をコテージまで送り届けたタクシーが折り返して戻って来た。慌てて手を挙げるとタクシーは急ブレーキを踏んで目の前で止まった。訝しげな表情のタクシードライバーが後部座席の扉を開け、私は座席シートへと飛び込んだ。生温かい、惣一郎の体温が残っていた。気味悪さに隣へと移動した。
「お客さん、何処まで行きましょうか」
「ろ、6,500円だと何処まで行けますか!」
携帯ポイントは6,500円しか残っていなかった。
「夜間料金なので海岸沿いまでしか行けませんよ」
「と、峠下までは行けませんか」
「ちょっと無理ですね」
「じゃ、じゃあ行ける所までお願いします!」
一刻も早くコテージから遠い場所に移動しなければならなかった。惣一郎のブルーバードに追い付かれる前に私は何処かに隠れなければならなかった。
私は後部座席のリアウインドウから何度も何度も背後を振り返った。切り立った崖、波飛沫が上がる断崖絶壁、漆黒の緩やかなカーブに白いガードレールが浮かび上がった。
(来る、惣一郎が来る!)
あのイエローオーカーのブルーバードが時速70、いや90kmの速さで私を捕まえに来る。
(早く!早く!早くここから!)
惣一郎の車では入る事が出来ない何処かに身を潜めなければならない。
(早くーーー!)
ダッシュボードの料金メーターは2,000円、2,800円と運賃を刻み、タクシーは確かに前進しているが車窓を流れる景色はスローモーションの様に写り私の不安を煽った。
(遅い、遅い)
運転席を覗き込むとメーターパネルは時速60km、このままでは確実に追い付かれてしまう。
「うっ、運転手さん!もう少し速く走れませんか!」
「はい?」
「スピードは出せませんか!」
「あぁ、タコグラフ運行記録計が付いてるから駄目なんですよぅ」
「タコグラフ?」
「速度を測る機械でね、違反すると上司からどやされるんですよ」
「そうなんですか」
「ごめんなさいねぇ」
「はい」
緩やかなカーブの坂道はようやく海岸沿いの直線道路へと続き、タクシーのハイビームが覆い被さる松林や巨大な岩石を照らしオレンジのライトが点々と並ぶ薄暗いトンネルを潜りぬけた。
(ーーーーもう、もう駄目だ)
朽ち果てた海の家の陰が見え、静かな波間には満月がぽっかりと浮かんでいた。そしてその時、料金メーターが6,300円を超えた。こんな場所で降ろされたらもう何処にも隠れる所が無い。
(私、死ぬのかな)
ピッ
タクシードラーバーの指先が料金メーターのボタンを押し、運賃料金は6,300円で止まった。
「お客さん、なんかあるんだろう」
「ーーーえ」
「こんな場所であんたみたいな女の子を降ろしちゃ後味が悪りぃ。もう少し先にコンビニがあるからそこで精算してくれ。6,300円で良いから」
「あ、ありがとうございます!」
喜んだのも束の間、白いハイビームが夜の闇を切り裂いた。