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「ここ居心地はどうですか? ちょっと台が小さかったかしら」
窓際に置かれた、白い包みの結び目に触れると結は囁やいた。
オフィスの窓からは街が一望できる。ここに眠る人が高所恐怖症でないといいのだが。
一週間前にロビーに置かれていた骨壺。
いつ迎えが来るのかはわからないが、財布や傘といったものと一緒に保管庫に置くのが忍びなくて、結は自分のオフィスで預かることにした。
「もう少し辛抱してくださいね」
結は一人でいるとき、話かけるようになっていた。なんとなく、勝手な想像だが、ここに眠って人は女性で結からみれば祖母くらいの歳の人に思えて、ある晩に苦しい胸の内を打ち明けてしまった。
「私婚約しているんです。でも婚約者でない人を、想ってはいけない人のことが頭から離れなくて。あの人がどんな姿でいようと、あの人のことを愛しているのだと思うのです」
俯いて結は深く息を吐いた。愛しているなんて言葉を口にしたのは、生まれて初めてかもしれない。
この想いは、本当に愛なのだろうか。
翠の生い立ちを聞いて、同情しているだけなのだろうか。
どちらにせよ、日に何度も翠のことを考え、翠のことを想うことで結の日々は進んでいく。
夜空には大きな満月が浮かび、その月明りはとても神々しい。
そんな長い夜があった。
オフィスに鳴り響いた電話の音に、結ははっと顔をあげた。春日凛太郎が現れて以来電話が鳴ると、結の体内を緊張という異物がハイスピードで駆け巡る。鼓動が速くなり額にうっすらと汗が滲んで、身体が硬直して受話器に手が伸ばせない。
そんな結にやや怪訝な視線を向けながら、工藤が受話器を取る。この日も皺一つないスーツを着こなし、胸のポケットに差している万年筆がきらりと光った。
「代表、例の落し物の持ち主が現れました」
新しく吸い込んだ空気が鼓動を落ち着けてくれた。結は頷いて立ち上がった。
白い包みを胸の前で抱えて、あの日と同じ会議室に向かう間、打ち明け話をしたあの夜のことを思い出して、ちょっぴり恥ずかしく思いながら結は心の中で囁いた。
「ありがとうございました」
会議室で待っていたのは、二人の初老の男性だった。一人は白髪で、もう一人は坊主頭だった。
「お待たせしました。当ホテル代表の小塚です」
二人の男性は同時に顔をあげた。結の腕の中にある物を見て、白髪の男性は突然上着の袖で口元を覆った。だが、我慢しきれずに泣き崩れた。もう一人がその肩に手を置おいてから立ち上がり、深々と頭を下げた。
「大変ご迷惑をおかけしました」
低くよく通る心地いい声だ。
「どうぞお座りください」
二人の向かいに結は工藤と並んで座った。
「私は、片田舎で功徳寺という寺の住職をしている者で、こちらの宮田とは幼馴染みです」
「あのお寺ですか」
思わず工藤が聞いた。
「ここから電車で小一時間ほどいったところにあるんですよね。駅の名前は確か夕陽ヶ丘」
「駅員もいないような小さな駅です」
「ホームのすぐそこが海でしたよね。その海に沈む夕陽がとても綺麗だとか」
住職は静かな笑みを浮かべた。
隣で背中を丸めて俯いている宮田に視線を向けると、住職は落ち着いた声で話し出した。
「宮田から話を聞いたときは驚きました。どうしてこんなことをする前に、私に相談してくれなかったのかとこいつを叱りました。このご遺骨は、こいつの妻の景子さんです。本当にご迷惑をおかけしました」
住職はもう一度深く頭を下げた。
景子さんという名前だった。
勝手な想像だが当たっていた。結からすれば祖母くらいの歳の人だとわかり、両親どちらの祖父母とも縁がなかった結にとって、あの夜はおばあちゃんに話を聞いてもらっていたのだと思うと胸が温かくなった。
「私には妻の墓を造ってやるだけの金は、もうありません」
景子は数年前に病を患い、入退院を繰り返して、その費用と数人の友人しか呼べない小さな葬儀を出したら、手元にはまとまったお金は残らなかったという。
「自分でも情けなくて嫌になります。思い浮かぶのは後悔ばかりで…」
そんな自分が腹立たしくて殴ってやりたい思いなのだろう。
握り締めた拳で宮田は膝を叩いた。
「どうしてうちのホテルに来てくれたのですか?」
結が聞くと、宮田はゆっくり顔をあげて初めて結を見てくれた。
「こちらのホテルに、妻はずっと行きたがっていました。ある年の妻の誕生日にやっと一泊することができて、プレゼントもケーキも用意してやれなかったけれど、部屋から見える夜景がとても綺麗だと妻は喜んでいました」
景子は高所恐怖症でもなかった。
「私もこちらで過ごした時間はとても楽しかった。妻とももう一度行こうと言っていましたが、叶えてあげられなかった。せめてもう一度ここへ連れてきてあげたかった」
強く握っていた拳を開いて、伸ばした指は太くて指の節に刻まれた深い皺が、これまで懸命に働き生きてきた勲章のように見えた。その指を震わせながら景子の骨壺に触れると、宮田の目から涙が溢れた。
「どうしてこのようなことをしてしまったのか。自分でも正直わかりません。ただ冷たい土の中に入れたくなくて、あと少し、もう少しだけ温かな場所にいさせてあげたかった。そう思ったとき、こちらのホテルのことを思い出してしまって。本当にご迷惑をおかけしました」
声を震わせて、頭を下げた宮田の四角い顎の先から涙の雫が次々と落ちた。震える宮田の肩を住職が大きな掌で包んだ。
景子の骨壺を胸に大事に抱えて、ホテルを後にする宮田と住職を結と工藤は門のところで見送った。宮田がふいに足を止めて顔を向けた視線の先にはバラ園が見えていた。
時折吹く風にバラの花が揺れている。
景子もこのバラ園を見てくれたのだろうか。
再び歩き出した彼らの後ろ姿を見つめながら、工藤が言った。
「この歳になると、時々考えてしまうのです。妻に先立たれたらどうしようって」
「工藤さん…」
「できることなら私が先に逝きたいと思ってしまう。見送られる方がいい。見送るのはつらい」
工藤の声が聞こえるだけで、その姿が見えるだけでどんなに安心できるだろうか。そう感じているホテルの従業員は大勢いるだろう。けれどいつか彼もここを去るときがくる。
この世は無常だ。
儚く(はかなく)変化していく。
結は誰を見送り、誰に見送られるのだろうか。
コメント
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拝読しました。骨壺に自分の秘めた想いを打ち明ける結さんの孤独と、それをただ受け止めてくれた「おばあちゃん」の存在がとても温かかったです。宮田さんの「冷たい土の中に入れたくなくて」という言葉に胸が詰まりました。最後の「ありがとうございました」で、少しだけ結さんも救われたんだなと感じられて、切なくて優しい余韻が残るお話でした。