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第一章:春の終わりに 線路沿いの細い道を歩くのが、遥の日課だった。朝も、放課後も、決まってこの道を通る。季節が春から夏へと移ろうとするこの頃、空気はぬるくて、少しだけ埃っぽい。
フェンス越しに覗くと、錆びたレールがまっすぐに町の外れへ伸びていた。誰も歩いていないホームが見える。今日も何も起きない——そんな、平凡で、けれどどこか切実な景色。
陽翔のことを考えていた。
隣のクラスで、特に仲が良いわけではなかったけれど、なぜか目で追ってしまう存在。どこか「孤独そう」だった。教室の中にいるのに、誰とも繋がっていないような気がして、それが遥にはひどく気にかかった。
彼とは、中学の頃、一度だけ話したことがあった。たまたま図書館で手に取った文庫本の話。たったそれだけの会話だったのに、遥の記憶には強く残っていた。
その日の放課後、遥は駅のホームで陽翔を見つけた。
制服のまま、無表情で線路を見下ろしていた。イヤフォンを耳に差していて、こちらには気づいていない。遥は声をかけようとして、できなかった。彼の背中には、何か決定的な「終わり」の気配があって、言葉が凍った。
電車が来る。
警報機が鳴り始める。
その瞬間、陽翔が小さく体を前に傾けた気がした——
でも、その次の瞬間、彼の姿はもうなかった。
電車が駅を通過していく。風が強く吹き抜ける。遥はしばらくその場から動けなかった。
誰も叫んでいなかった。誰も気づいていなかった。陽翔は、最初からそこにいなかったのかもしれない。遥の脳裏には、何もない線路だけが残った。
その夜、遥は眠れなかった。
夢の中で、陽翔がこちらをじっと見つめていた。電車の音が遠くで鳴っていた。
そして、夢の彼は言った。
——「君は、見ていたね?」
第二章:跳ぶ
陽翔がいなくなった翌日、学校は何事もなかったかのように始まった。ホームルーム、授業、昼休み——昨日と同じ光景が流れていく。遥はその流れに乗ることができなかった。
誰も、彼のことを話題にしなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように。
だが遥には、あの光景が鮮明に焼きついていた。ホームの端に立つ陽翔、風に揺れる制服の裾、無音の世界。まるで映像をループ再生するように、何度も脳裏に蘇ってきた。
「昨日、陽翔くん、見なかった?」
昼休み、美雨にそう尋ねてみた。教室の片隅、二人きりの会話。
「……誰?」
一瞬の沈黙のあと、美雨が首を傾げた。
その反応が、遥をひどく冷ややかな世界へ突き落とした。
「陽翔、だよ。同じ学年で、隣のクラスの……」
「そんな人いたっけ。知らない」
美雨はそれ以上何も言わず、スマホに目を落とした。
遥の鼓動が速くなる。言葉が、息が、うまくつながらない。「知らない」というその言葉が、頭の奥で何度も反響していた。
その日の放課後、遥はひとりで駅へ向かった。
電車の時間は記憶していた。昨日と同じ時刻。昨日と同じ場所。ホームの端。そこに立つと、世界が再生されるような感覚があった。
そして、彼はいた。
陽翔が、昨日と同じ場所に、同じ姿で立っていた。
「……!」
遥が息を呑むと、彼はこちらを振り向いた。
だが、彼の顔には何の感情もなかった。虚ろな目で遥を見て、ただぽつりと口を開いた。
「昨日、止めてくれなかったね」
遥の足がすくむ。これは現実じゃない、幻覚だ、と頭では理解している。けれど体が凍ったように動かない。
「僕が死んだって、誰も覚えてないんだ。君以外、誰も」
電車の音が、遠くから聞こえてきた。
それは昨日とまったく同じ、鉄と鉄のきしむような、鋭くて冷たい音だった。
陽翔はもう一歩、線路へとにじり出る。
「……一緒に来てくれればよかったのに」
その言葉とともに、彼の姿はふっと消えた。
残されたのは、空っぽのホームと、鳴り止まない電車の音だけだった。
第3章:歪な友情
遥は、最近の自分が「おかしい」とはっきり自覚していた。
夜になると陽翔が現れる。昼間も、ふとした瞬間に幻が横切る。教室の窓の外、階段の踊り場、トイレの鏡の中——どこにでも彼の影がいる。
でも、それを誰かに言えば、間違いなく「病気」だと断じられる。だから言わない。ただ黙って、自分の中に沈めるしかない。
そんな中、美雨との関係にも違和感が生まれはじめていた。
「最近さ、なんか元気ないよね。……陽翔のこと、まだ気にしてるの?」
昼休み、美雨が問いかけてきた。彼女の声は、どこか探るようで、優しさとは少し違う温度を持っていた。
「美雨は……陽翔のこと、本当に知らないの?」
「うん。だって、話したこともないし」
遥はその言葉を飲み込む。けれど、心のどこかで引っかかっていた。
なぜか、陽翔が最後に見せた表情が、美雨の目と似ていた気がしてならない。
——嫉妬。
その言葉が、遥の中で静かに浮かび上がった。
その日、放課後の帰り道。遥は偶然、美雨が誰かと口論しているのを見た。
駅の裏手、人気のない道。相手は見覚えのある男子生徒。陽翔と同じクラスの、無口な少年だった。
「だから言ったじゃん、誰にも話すなって……」
「……お前が無理やり」
「は? 陽翔があんたを相手にするわけないでしょ」
その名前に、遥の足が止まる。
美雨は、陽翔と面識があった。
嘘をついている。なぜ?
その夜、遥は夢を見た。
夢の中で、美雨と陽翔が向かい合っていた。美雨の目は真っ黒で、底知れない怒りが渦巻いていた。
陽翔はただ黙って立ち尽くしていた。その背後に、遥の姿があった。
夢の中の美雨が言う。
——「あんたばっかり、陽翔に見られてた。ずっと前から、私が隣にいたのに」
遥が目を覚ましたのは、夜中の三時。
胸が苦しくて、手が震えていた。
幻覚の陽翔は、また隣にいた。制服姿で、何も言わずに窓の外を見ていた。
遥はその背中に問う。
「ねえ、陽翔……私、美雨に、殺されるのかな?」
けれど彼は、答えなかった。
第四章:夢か現か
「現実」とは何だろう、と遥は最近よく考えるようになった。
教室で、誰かの声が聞こえなくなることがある。誰かが話しかけているのに、まるで映像だけが流れていて、音声が失われたような感覚。まばたきをするたびに、景色がずれていく。
陽翔が死んだあの日から、遥の世界は確実に壊れ始めていた。
自分はまだ地続きの現実を歩いているのか、それとも——もうすでに、誰もいない線路の上を、ただひとりで歩いているのか。
ある日、保健室に呼ばれた。
担任が「最近、様子がおかしい」と言ったらしい。顔色が悪く、授業中に突然ぼんやりすることが増えていた。遥は否定しなかった。否定する元気すらなかった。
ベッドに横になると、すぐに夢が始まった。
そこは、あの日の駅だった。陽翔が飛び降りたホーム。電車は止まっていない。ただ線路だけが、どこまでも続いていた。
遥は、陽翔の背中を見つけた。彼は線路の上を歩いていた。制服のまま、リュックを背負い、無言で、まるで旅人のように。
遥は追いかけた。
「待って、陽翔! どうして、どうして私にだけ見えるの?」
彼は立ち止まり、振り返った。その目には、深い悲しみがあった。
「君もこっち側に来ると思ったから」
「……それって、死ねってこと?」
「違うよ。君も、僕と同じで、こっち側の人間だったってこと」
彼の言葉の意味はわからなかった。けれど、それは遥の心の奥にしっくりと沈んだ。
夢から覚めると、美雨がいた。
保健室のカーテンの隙間から、遥を見下ろしていた。制服の襟元が乱れていて、目元には涙の跡のような影。
「ねえ、遥。……どうして、陽翔のことばっかり見るの?」
その言葉に、遥の胸がざわめいた。
「私だって、隣にいたのに。ずっと、あの人のこと……」
遥は起き上がれなかった。重力が何倍にも増したようで、体が鉛のように沈んでいた。
「私のことなんか、見なかったくせに。最後まで、遥の方ばっかり……」
美雨の指が、遥の首元に触れた。冷たく、細く、怨念のような重さを含んで。
その瞬間、遥はまた夢に落ちた。
——いや、夢ではなかった。幻覚か。あるいは、現実。
目の前に陽翔がいた。笑っていた。けれどその笑顔は、どこか壊れかけたガラスのようだった。
「僕のこと、思い出してくれてありがとう。でも、そろそろ決めてよ。君がどっちにいるか」
遥は口を開こうとしたが、言葉が出なかった。
遠くで、電車の警報音が鳴っていた。
それが合図だったかのように、陽翔の姿は音と共に崩れ落ちた。
次に目を開けたとき、遥は保健室のベッドの上で、泣いていた。
誰にも理由がわからない涙を、ただ静かに流し続けていた。
第五章:線路のむこうがわ
遥は、自分の記憶が少しずつ削れていく感覚を抱えていた。
誰と何を話したか。どこにいたか。いつからこうなったのか。曖昧な霧のなかで、ただ「陽翔が消えた日」だけが、異様なほど鮮明だった。
それだけが、真実のように。
学校の誰も陽翔を覚えていない。美雨ですら、ついこの前まで知らないふりをしていた。だけど、遥は知っている。
陽翔は、ここにいた。生きていた。笑って、黙って、苦しんで——そして、飛び降りた。
美雨が遥の部屋に来たのは、雨の夜だった。
親は不在だった。濡れた髪をタオルで拭きながら、美雨は静かに言った。
「遥。あなた、私のこと疑ってるでしょ」
「……うん」
素直に認めると、美雨は少しだけ笑った。
「陽翔と、私……話したこと、あるよ。ほんの少しだけ。でも、彼はあなたのことばかり見てた」
遥は言葉を返せなかった。
「だから私は、消えてほしいって思った。陽翔の目から、あなたがいなくなればいいって」
それは、嫉妬だった。執着だった。依存だった。
「でもね、遥。私、本当は、あの日——」
そこで、美雨の言葉が途切れた。
遥の視界がぐにゃりと歪んだ。世界が、また変わる。
気がつけば、線路沿いにいた。
制服のまま、誰もいない深夜の駅。ライトの色が滲んでいる。空は真っ黒で、星ひとつない。
そこに、陽翔が立っていた。今度は笑っていなかった。泣いてもいなかった。ただ、何かを「待っている」ような目で、遥を見ていた。
「君も来たんだね。ここは、あの世でも現実でもない。……白昼夢の続き」
「私は……死んでないよ」
「でも、生きてもいない」
遥はふと、自分の手を見る。色がない。冷たい。感覚が遠い。
「ねえ、遥。美雨がね、あの日、君の名前を呼んでたんだ」
「……どういうこと?」
「駅のホームで。飛び降りたのは、僕じゃなかった」
心臓が、ひどく痛んだ。
遥の記憶に、別の映像が流れ込んでくる。
電車が迫るホーム。叫ぶ声。飛び込んだ影。
その影は、長い髪だった。
美雨。
「嘘……そんな……私が、見たのは……」
「全部、君が見たいように見たんだよ。罪悪感が、記憶をねじ曲げるんだ」
遥の世界が崩れていく。白昼夢の正体。それは、現実から逃れるための幻だった。
遥は、線路の上に立った。もう、陽翔も、美雨もいなかった。ただ自分だけが、取り残された世界にいた。
遠くで、警報が鳴る。
電車が近づいてくる。
遥は目を閉じた。
——これが、終わりなのかもしれない。
しかし次の瞬間、誰かの手が、遥の腕をつかんだ。
「まだ、戻れるよ」
その声は、美雨のものだった。
遥は、目を開けた。
視界が、光に包まれていく。
次に目覚めたとき、遥は病室にいた。
点滴。真っ白な天井。心臓の鼓動の音。
美雨の姿はなかった。陽翔も、いなかった。
でも、遥は確かに「戻ってきた」と思った。
白昼夢のむこうがわから、ようやく。
最終章:目をあけて
春が来ていた。
病院の窓から、風に揺れる桜が見えた。遥はベッドに座りながら、それをぼんやりと見つめていた。
目覚めてから数日が経っていた。医師の話によれば、遥は駅のホームで倒れていたらしい。線路に降りようとして、意識を失っていたところを保護された、と。
飛び込んだわけではなかった。ただ、ぎりぎりの場所で、何かを見ていた。
「白昼夢のなかの現実」を。
陽翔のことを覚えているのは、やはり遥だけだった。
クラスメイトも、教師も、家族も、誰一人としてその名を知らなかった。けれど、遥の中では確かに彼がいた。あの日々は、幻覚ではないと今でも信じている。
美雨も、もう学校にはいなかった。
「転校した」とだけ知らされた。遥はそれ以上、誰にも何も聞かなかった。
ただ一つ、美雨の痕跡を見つけた。
枕元の引き出しの中に、小さな紙片が差し込まれていた。
手書きの文字で、こう書かれていた。
——「あのとき、私が落ちたの。あなたが見たのは、きっと、私の最後の願い」
その筆跡は、たしかに美雨のものだった。
遥は病室のベランダに出た。風が髪をなびかせる。桜の花びらが、ひとひら舞い込んできた。
遠くで電車の音が聞こえる。
その音に、遥の胸は少しだけ痛んだ。けれど同時に、何かが静かに溶けていくような、そんな安堵があった。
過去は、消えない。でも、向き合うことはできる。
遥は小さく息を吸って、空を見上げた。
——「もう一度、生きてみるよ。陽翔、美雨。私が、私を取り戻すために」
電車の音が、遠ざかっていく。
遥のなかの白昼夢は、ゆっくりと幕を下ろしていった。
完