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やがて、今度の旅行の話になる。
「なんか緊張しちゃってるんですよね、今から。
気まずい感じの旅行になっちゃったりしませんかね?」
「あんた意外と大胆ね。
それ、月子の見合い相手なんでしょう?
なに私に相談してんのよ」
いや、結局してないじゃないですか、見合い……と思ったとき、虹子が言った。
「あんた、月子に似て可愛いんだから。
ちょっと甘えたら、男はイチコロよ」
「そんなもんですかね?」
「旅行中、少しくらい揉めたとしても、素直に自分の気持ちを言えばいいのよ。
マイナスな気持ちじゃなくて、その人を好きだって気持ちをね」
湯呑みを手にしたたま、遠い目をする虹子に訊いてみた。
「お義母さんは、いつもそんな風にできてたんですか?」
すると、虹子はこちらを振り向き、ちょっと喧嘩腰に言ってくる。
「できなかったから、あなたがこの世にいるんじゃないの!」
笑ってはいけないのだろうが、ちょっと笑ってしまった。
ふくれてそう言う虹子が少女のように可愛いらしく見えて。
お義母さんからしたら、うちの親の方が略奪者なんだろうなと思う。
ほんのちょっとの行き違いから素直になれず揉めている間に、お父さんの心はお母さんに移ってしまった。
「ともかく、絶対、他の女が付け入る隙を与えないことね。
喧嘩しても、五分以内に仲直りしなさいよっ」
まるで、唯由の母が、虹子と父が喧嘩した五分以内に現れて奪っていったかのような口調で虹子は言う。
「ありがとうございます」
唯由が帰り際、玄関先で頭を下げると、珍しく見送ってくれた虹子が眉をひそめ言ってきた。
「なんで、あなたがありがとうなのよ。
美味しかったわ、中華粥。
……あなたが出ていったあと、どんなすごい料理人に作らせても、朝晩のご飯、美味しいと思えなかったわ」
何故かしらね、という虹子に唯由は苦笑する。
「たぶん……その料理人の方々のお食事、口では美味しいと思ってらしたんだと思いますよ」
「じゃあ、何故よ?」
と言う虹子に、唯由はちょっと笑って言った。
「きっともう、私の味がお義母さんにとっての家庭の味になっていたからです。
……さっきのお話、中華粥を作った労力以上の価値がありました」
ありがとうございました、と夜中に作らせて悪かったと多少は思っているらしい虹子に頭を下げる。
頭の上から虹子の声がした。
「まあ、旅行、頑張って。
ここから出てあなたが幸せになってくれたら、私たちがここにいることに少しは言い訳が立つから」
顔を上げ、唯由は言った。
「……ここはもうお義母さんたちのおうちですよ。
三条たちを大切にしてやってください。
彼らもまた、この屋敷の大事な住人たちです」
虹子の後ろに控える三条たちが涙していた。
それを見た虹子が腰に手をやり、三条たちに文句を言い出す。
「その唯由への崇拝具合が気に入らないのよ」
辞めさせるわよっ、と虹子は叫んだが、三条は微笑む。
「あなたは我々をもう辞めさせはしませんよ」
「何故よっ」
「……奥様、なにもできませんから」
「……まあそうね」
と冷静な大人の会話はそこで終わった。
唯由は手に入れたカメラを手に、テクテク夜道を歩く。
スマホのカメラではないカメラで、この旅行のすべてを残しておきたいと思ったのはほんとうだ。
だが、カメラをその辺で買わずに実家まで取りに帰ったのは。
きっと、旅行前にもう一度、生まれ育った家を見てみたかったから。
母も住んでいない。
父もほぼいない。
でも、やっぱり、あそこが私のおうちだったから。
迷いはしたけど、今日、行ってみてよかった。
そう唯由は思っていた。
ちょっと甘えてみせたら男はイチコロなんていう、自分には実現不可能なアドバイスより、もっと嬉しい言葉をもらえたからだ。
「あなたが出ていったあと、どんなすごい料理人に作らせても、朝晩のご飯、美味しいと思えなかったわ」
ふふ、と唯由は笑う。
ありがとうございます、お義母さん。
お義母さんに、もう私の味が家庭の味になってるんだろうとか言っちゃったけど。
……雪村さんにとっても、私の味が家庭の味になってくれたりすると嬉しいんだけど。
ともかく、他の女が付け入る隙を与えないことよっ、という虹子の言葉を思い出し、唯由は、よしっ、朝、私から雪村さんに、おはようございます、とか送ってみよう、と決意する。
なんて送ろうかな。
おはようございます。
いいお天気ですね。
おはようございます。
いよいよ、旅行ですね。
おはようございます……。
いろいろ思い巡らしながら、唯由は家に帰り、眠った。
朝、蓮太郎は唯由からのメッセージが来ているのを見て、嬉しくなる。
「おはようございます」
おはよう、蓮形寺。
なんて返信しようかな、とちょっとウキウキしながら、蓮太郎はスクロールする。
「朝起きたら、冷蔵庫に爪切りが入ってました。
誰が入れたんでしょうね」
打ち返す文章は迷うまでもなく決まった。
「お前だろう」
そんなやりとりをしながら交流が深まっているうちに、ついに、旅行当日の朝が来た。
素敵な笑顔で準備万端、迎えるはずだった朝。
唯由はぼんやり冷蔵庫の前にしゃがんでいた。
また爪切りが入っていたからではない。
昨日、仕事がハードで疲れていたうえに、緊張して夜眠れなかったのだ。
ああ、きっと最悪な顔だ。
あんなに楽しみにしてたのに。
唯由は重い荷物をガラガラ引いて、しょんぼりバスに乗って駅に向かった。
改札の前に格好いい人がいると思ったら、蓮太郎だった。
……普段とちょっと雰囲気違うから、雪村さんと思わずに見たら、めちゃイケメンでしたよ。
なんて、本人に言ったら、普段はどうなんだと殴られそうだなと思う。
ああ、こんな人の横に、こんなしょぼくれた私が立つとか、絶対、周囲の女の人たちに、なんであんな女がって言われるな~と思いながら、唯由は蓮太郎に向かい、小さく手を振った。
ビックリするような可愛い女がいると思った。
重そうに荷物を引きずり現れたその女性はいかにもこれからリゾートに行きますという軽やかな感じのワンピースをまとっていた。
お前だと気づかずに見たら、なんて可愛いんだと思ってしまったと本人に言うのはどうだろうな?
褒めているようで褒めてないような、とさすがの蓮太郎も気づく。
まあ、そんなことより、早く荷物を持ってやらないと。
他の男が手を貸してしまうかもしれんっ。
蓮太郎は唯由の許に近づき、さっとそのキャリーバッグの取っ手をつかんだ。
「おはよう」
「おはようございますっ。
あっ、持ってくださらなくて結構ですよっ。
これ、ガラガラなんで重くないですからっ」
と唯由は言うが、
「いや、持とう」
と蓮太郎は押し切る。
唯由が自分のものである、と周囲に見せるためにも、ここは自分が持たなければっ、と思っていた。
その頃、そんな二人を窺う人物が駅の大きな柱の陰にいた。
蓮太郎様っ、そこで唯由様の荷物を持つのですっ。
持った。
よかった。
頭も顔も性格も悪くないが、女性の扱いがアレレレな蓮太郎様とは思えないっ。
このご成長、すべては唯由様のおかげですっ、と柱の陰で涙ぐんでいるのは大王直哉、その人だった。
なんか持ってもらって申し訳ないな~と思いながら、唯由はキャリーバッグを引っ張ってくれる蓮太郎の横を歩いていた。
「一泊だよな?
なんでこんなにいっぱい荷物があるんだ?」
「あ、えっと。
移動中とか夜やろうかと思って、ゲームとかトランプとか持ってきたんです」
「学生か」
と蓮太郎に言われたが、
いやいや、話が途切れて緊張しないようにですよ、と唯由は思っていた。
「ゲームって、まさか、叩いて殴って、じゃんけんぽんじゃないだろうな」
唯由は、ははは、と笑って言う。
「やだな~。
叩いてかぶって、じゃんけんぽんですよ~」
「……いや、お前が言ったんだよな」
そうでしたっけね? と思いながら唯由は淡いイエローのキャリバーグを見て言った。
「ハリセンは入ってないですよ。
まあ、ハリセンも兜も現地で作れますけど。
あれ、盛り上がりますよね~」
「そういう盛り上がりは男女の旅行には不必要だと思うが……」
「そうなんですかね?
楽しいのはいいことだと思いますが。
楽しい記憶が多い方が、きっと、この旅行、いい思い出になりますよ」
と笑うと、蓮太郎はちょっと照れたように、
「……そうだな」
と言う。
人の行き交う新幹線の改札口を見ながら唯由は言った。
「そういえば、叩いてかぶって、じゃんけんぽん。
月子が好きなんですよね~」
「いや……たぶん、好きじゃないと思うぞ」
キャリーバッグを手に短い階段を上がりながら、何故か蓮太郎はそう言ってきた。