テラーノベル
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ピピピピ、ピピピピ。「……あ」
耳障りなアラーム音が、意識の膜を無理やり引き剥がしてくる。
瞼を開けると、いつもと変わらない白い天井。
昨日と同じ、何も変わらない朝がそこにある。
横を見れば、無垢な寝顔の凛。そしてその奥には、きちんと畳まれたままの夫の布団。
一日の始まりを告げるノイズに、私はスマホの液晶画面を乱暴に連打する。自分で設定したくせに、もう何度も鳴らすなと言いたくて。
まるで、自分自身に怒鳴っているみたいに。
「はぁ……」
呼吸は深くならず、頭は鉛のように重たい。瞼は紙のようにバリバリに張り付き、体全体が湿った土に埋もれているような錯覚を起こす。
それでも、私は立ち上がらなきゃいけない。
昨夜、結局私は逃げることができなかった。
夕飯を作り、片付けをして、ようやく落ち着いた凛にご飯を食べさせ、お風呂に入れて、寝かしつけた。
そこに感情なんてない。ただやるべきことを、感情のスイッチを切ったままこなしただけ。
母親だから。
その言葉がすべてを封じてしまう。考える隙を与えてくれない。そんな義務感のみで。
もう何も考えたくない。布団に包まり目を閉じるも、冴えた頭は私に休息など許してくれない。
思考はいつまでも回転し続けるコマのように止まらず、眠ることもできずに、閉ざされたカーテンからは絶望の光が差し込んできた。
こんなにも憂心があっても、眠ることが出来なくても。時は止まるはずもなく、世界はだだ回り続ける。
朝は来る。朝日が登る。だから私は凛を起こし、朝食を作り、着替えさせ、保育園の準備をして、自分の仕事へと向かわなければならない。
どんなに心が壊れかけていても、生活をしなければならない。生きていかなくてはいけない。
止まってくれない世界に、心だけが取り残されたままでも。
『おはようございます』
『おはようございます。凛ちゃんも、おはよう。急に寒くなりましたね?』
いつも通り凛を幼児用バギーに乗せて保育園まで歩き、バギー置き場より抱き抱える。
いつも、これぐらい大人しかったら良いのにな。
不意に過った感情を抑えて保育室まで向かい、何ごともないように他の保護者に挨拶をする。
大丈夫。園はトラブル回避の為に何かあっても、相手の名前は言わない対応をする。昨日は熱くなってしまったけど、それはこちらを守ってくれているからなんだ。
だから私もいつも通りに。保護者とはほどほどの距離を取り、空っぽな会話をし、その場に合わせて笑う。
自分の仕事も、夫の仕事も、会社名も、収入も、どこに住んでいるかを問われても濁し、決して話さない。反感を買わないことを徹底する。
それが、保育園のママ友関係を良好にする秘訣だろう。
上の子が既に通園している母親達はグループが出来ていて、入園式の日は質問責めにあった。のらりくらりと誤魔化していたら、案の定一歳児クラスの保護者達と馴染めず孤立。そこに話しかけてくれたのは。
『おはよう』
『あ、おはよう』
背後から聞こえた声に身構えることなく、軽く返答出来る人。先程までと違い、保育園内で軽い口調で話せるたった一人の人。
この人の前では取り繕うことも、沈黙も気にせず、側に居られる。何故なら。
『気にしなくて良いよ。保育園は保護者の仲良しクラブじゃないんだから』
そう呟き、グループで話している人達を尻目に去って行った。
後に迎えが一緒になった時に上の子を連れていて、あのグループと同じ年齢だけど誰とも群れず、一人行動らしい。根掘り葉掘り聞かれて、私同様にはぐらかしていたら馴染めなくなったって。
でもそれで良い、下手なこと話して僻まれるぐらいならね。そう眉を下げた藍田さんと笑い合い、私達はママ友になった。
だから私は藍田さんの下の名前も、勤め先も、家庭状況も、連絡先も知らない。
明日から寒くなるよ。
オムツ忘れたの? 少しぐらいあげるよ。
今日も疲れたね。
野菜なら、駅前が安いよ。
そんな気軽な日常会話がしたいだけ。
だけどそんなささやかな願いは、また音を立てて崩れていく。
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