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「ママー!」 保育室の扉を開けた途端、その声が飛び込んできた。
どこか湿った空気が肌に張りつく。
遠くから誰かが泣いている。それは一歳児クラスでは珍しくもない日常の音で、それほど気に留めなかった。
まさか、自分の子が関係しているなんて。
しゃがみ込んでいるお母さんの膝元に顔をうずめているのは、いつもニコニコしていてクラスのしっかり者である沙耶香ちゃん。
運動会の親子体操の時。他の子たちは親に抱きついて泣く中、一人だけ堂々と手足を動かしていた、あの子。
「強いね、えらいね」と先生にもよく褒められていた。優しくて、泣いている子がいれば気にかけてくれるような子だった。
そんな子が、泣いている。
あの小さな肩を震わせ、声を上げて、泣いている。
私の中で、安堵に似た感情が生まれ落ちていく。
あの子でも泣くんだ。
……歪んでいる。
そう自覚した心を悟られないように、緩んだ口元を締める。
さも深刻な自分を演じ、でもジロジロと凝視せず、無関係を決め込む。
しかしその泣き顔がこちらに向いた時、私はただの傍観者では居られなくなった。
全てを知っているその目から、私達は逃れることが出来なかった。
「やだー! ママー!」
泣き声は悲鳴へと変わり、より私達を責め立ててくる。
だけど私は、ただ一点を眺めていた。沙耶香ちゃんの頬に貼られた白いガーゼ。テープでしっかりと固定された四角い布。
ああ、噛まれたんだ。
噛んだのは、──うちの子だ。
聞いていたはずだった。先生から説明されていた。「お友達の『頬』を噛んでしまいました」と。
でも、「噛んだ」という言葉が頭の中をぐるぐると回るだけで、思考停止してしまったのかもしれない。
肝心な言葉が、私の身勝手な自己保身により遮断してしまったのかもしれない。
『……今日は連れて帰ります……』
沙耶香ちゃんのお母さんが、泣き喚くその子を抱きかかえながら立ち上がる。私に目をやると短くため息を吐き、声を落とすようにそう言った。
ああ、だめだ。
喉まで出かかった「すみません」の一言が、唇を超えてくれない。
声にならない。
『……あ、あの……』
かろうじて出た声に、母親の目が鋭くなる。
その視線に射抜かれて、言葉が凍った。
お母さんは黙って、背を向ける。そして、泣きじゃくる娘を抱いて部屋を出ていった。
私はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。
部屋にはまだ他の保護者たちが残っていた。でも誰も、こちらに目を合わせようとしなかった。
いつも気さくな藍田さんも、ただ俯いてしまった。
距離が、空気が、まるで壁のように感じられた。
そんな中、先生が声をかけてくれた。
「大丈夫です、子供同士ではよくあることですから」
優しい声だった。
でも分かっていた。
子供達は態度に出す。
あの子はうちの子を見て、怯えていた。
自分の子が、人を傷付けたことばかりで。
誰がやったか分からないから大丈夫だと、自己保身に走って。
このまま先生に対応を任せて、逃げるつもりだったんでしょう?
私は、何も分かっていなかった。
「噛んでしまった」という事実の重さも、相手の子がどれだけ怖かったかも、親がどう思うかも──全部。