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ずーっと向こうまで澄み渡る青藍の空が、心地良く目に沁みた。
馬を引きつつ、わたしは片手で市女笠の縁をつまんで目元に影をつくる。そして少し視線を落として、眩しさをかわした。
目を向けた雑草だらけの獣道にはわたしと晴明さまの影が濃く浮かんでいて、馬上から背中に感じるその温かい存在に心が弾んだ。なんとなく、鼻先で都で流行の唄なんか歌ってしまう。
「夜火」
うしろからのお声に、胸が一つ高鳴る。
「疲れたか。この辺りで少し休もう」
「平気ですよ。鬼女はこのくらいじゃへばりませんから。気にしないでください」
「そうか。しかし呻いていた」
「鼻歌です。分かってるくせに」
「ん。やっとこっちを向いたな」
晴明さまは常歩の私馬、紫雲に揺られ、空色に似た瞳を涼やかに細めた。
「でもその市女笠が邪魔だね。こんなところ誰も通りはしないから脱ぎなさいよ。薄衣が邪魔で顔も髪も見えない」
「ダメですよー。もしツノを見られたら大騒ぎになります」
「大騒ぎになるほど人がいないと言っているんだよ」
「とにかくダメです。お側にいられなくなったらどうするんですか」
「そうかい、残念。濡れ烏みたいに艶々なお前の長い髪が揺れるのを、うしろから眺めるのが好きなんだけどなあ」
「……いまだけですよ」
わたしは歩きながら市女笠を脱ぎ、胸の辺りで抱えた。晴明さまを見るには顔色に自信がないので、前を見たまま。
――まったく……。
退屈したらいつもこう。からかってこっちの反応を楽しんでいるのは分かっているけど、残念ながらわたしはそれもまた嬉しいのだ。
あーあ。
わたしは肩でため息をつき、ようやく森を抜けて出てきた草原を見回す。道が山端を臨み拓けると、いよいよ目的地が近付いた印。
――この先に穢悪がいる。
そしてその戦いが待つ。呑み込む息が喉を鳴らした。
怖いわけじゃない。そんなはずはない。
穢悪との戦いはわたしが生きる理そのもので、晴明さまのためにお役目を果たせる場所。こうしてお天道さまの下を歩けるようにしてくださった、この方の……。
「お」
言い聞かせるように覚悟を固めていると、晴明さまが紫雲を止めた。
「なあなあ、向こうに小さく見えるあれではないかあ。御沙汰にあった廃村」
言われて気付き先を見る。確かに晴明さまが指さす向こうに、茅葺屋根のあばら家が数戸、景色に馴染んでひっそりと建っていた。
地面を掘り下げて屋根をかぶせただけの粗末な家々。人の気配は感じない。忘れられた集落だろう。だけど……。
「……晴明さまの仰る通りです。いますよ、穢悪」
「ここからよく見えるな」
「鬼女ですから」
わたしは額に手を立て、んー、と前に目を注ぐ。
小さく見えるあばら家の周り。鬼火のように青白い玉が数匹、ゆらゆらと水に映る光みたいに宙を舞っている。赤ん坊くらいの大きさで、玉の表面に窪む三つの斑点は、心なしか恨みがましい人の顔にも見えた。
「……どれも小さな玉形で、手前の荒れ家に三匹、隣に、……六匹……? 真ん中の大きな木の陰にも二匹おります」
「合わせて何体だ」
「う。…………」
「指を折っているようでは、まだまだだねえ。もう齢も十六を過ぎるんでしょう? 坤鬼舎に戻ったら亜鐘に習って、算勘を養いなさい」
「両手に余る数はお手上げです……」
「まったく。お前の見落としがなければ、穢悪は合計で十一体。二人で行ってさっさと片付けようか」
晴明さまは下馬して太刀を腰に佩くと、祓いに備えるように首を鳴らした。白磁のようなすべすべの白い肌に、烏帽子から見える御髪が艶めく。
「じゃあ、行ってくるからね。いい子にしてて」
紫雲に声をかけて、わたしは彼を木に繋ぐ。甘えるように首を擦り付けてくるその鹿毛を一撫でしてから、わたしは壺折にしていた袿を脱ぎ、手ごろな枝を衣架にした。晴明さまから賜ったものだから、丁寧に。
そうして白衣の小袖に緋の切り袴になると、
「いつでも大丈夫です!」
言葉と共に大きく息を吐き出し、キッと前を見据えた。晴明さまが祈祷を込めた金砕棒――木を六角に削り、角を立てた武器――をぎゅっと握って。穢悪には呪を帯びた攻撃しか効かないから。
「いい顔だね、夜火。鬼女に金棒」
微笑む晴明さまに覗き込まれる。間近に迫る紺碧の眼。思わず目を逸らす。
「……からかわないでくださいよ、もう」
「なにを恥ずかしがるんだ。お前は祓いに臨むときが一番いい顔をするよ。野犬のようだったあの頃とは見違えるな」
「……やですよ……。これから調伏なのに……」
「そうだった」
晴明さまは可笑しそうに手をわたしの頭に載せる。柔らかい仕草。つい手に魅入ると今度は太刀の柄を持ち、神妙な声をそのくちびるからもらした。
「さ、気付かれる前に急襲しよう。日が暮れるまでには、坤鬼舎に戻る」
「分かりましたっ」
「無理は絶対にしてはいけないよ。ほんの少しでも危ないと感じたら退くように」
「はい!」
返事を合図に晴明さまは地面を蹴り、わたしも隣に続いた。
体の力なら鬼女である自分が上。だからこそ……。
「露払いをお任せください」
「おい、一人で行くな」
「平気ですっ」
わたしは大きな歩幅を意識して飛ぶように駆け、晴明さまの先を行く。髪と小袖がなびき、風がうるさく耳を叩いた。
分かっている。言葉を真に受けてなんかいない。わたしなんか未だにお手も付けられていない、ただの鬼女。晴明さまはお優しいから、発奮を促すために言葉をかけてくれただけ。
でも胸に痛いほど兆すわたしのこの思いは、誰がなんと言おうと本物なのだ。
晴明さまにかかる火の粉を少しでも減らすためにも!
「いくよ!」
間近に迫ると穢悪たちはやっとこっちに気付き、慌てて敵意を向けてきた。
だけど咄嗟には戦う構えに至れない。わたしは道の脇に転がる腰ほどの岩を足場に大きく跳躍。宙に浮かぶ一瞬で穢悪たちを鳥瞰する。
ひい、ふう、みい、よお、むう……。
あれ? 『よお』の次は『いい』だっけ? まあいいか。穢悪の数はやっぱり両手の指が全部と少し。みんな低位だ。額のツノが疼く。
力量差を本能で悟り、わたしは穢悪たちのいる真ん中へ衝撃を足に受けて着地。
舞い上がる乾いた砂ぼこりに紛れ、穢悪たちが口のように体を大きく開けて襲ってくる。青白い見た目なのに、穢悪の体内は夜よりも暗い闇で染められていた。
「食べても美味しくないよ」
わたしは迫る穢悪たちを睨めつけた。
意識を集中する。ツノの辺りが仄かに温かくなり、耳がキンと詰まった。心地が熱を帯びて、体が浮くようになにかが高まっていく、この感じ。
「――縛!」
言葉を発し、体内の呪を呼び覚ます。
緋に色付いた髪には気が宿り、逆さに伸びる稲光みたいに一瞬で丈を伸ばす。逆立ち蛇のようにうねる髪は、まるで燃えるようだ。
「大人しくしてちょうだいね!」
跳んだときに穢悪の在る場所は捉えている。わたしは爆散する髪を蛇のように地に這わせて穢悪を掴み、幾重にも縛って動きを封じた。
あとはもう、潰していくだけ。
「ごめんね」
屈み込むと金砕棒を振り上げ、わたしは雁字搦めの穢悪に向かって振り下ろす。それは手になにかを潰す感触を残したあと、一撃で穢悪を蒸発させた。
恨みはない。でも都を脅かす邪なものだから。
頭に居着く罪の意識を、言い訳で片付ける。
さ、次の穢悪を。わたしは仕切り直すように立ち上がる。でも、そのとき。
「退け、夜火!」
晴明さまの声に振り向く。と、同時に目の前に広がる大きな闇。
――穢悪の、口……!
どこかに隠れていた? 他の穢悪より大きい。
恐怖がざっと背を舐める。だけど!
「吾は此れ天帝使者――」
暗闇のすぐ裏から、よく通る声が聞こえた。ああ、今日こそわたしがお役に立ちたかったのに……。
「――吾今刀下、急々如天帝、太上老君、律令!」
語尾が跳ね上がると、
「穢悪ごときが私の妻に! 手を出すな!」
凄みを帯びた声と共に、目の前の暗闇に絹糸のような細い線が走る。
真横に。スッと。
一瞬の出来事だったけど、わたしにはひどくゆっくりに映った。
穢悪は引かれた線を境に上下でずれて、すぐに黒い霧となって蒸発した。その向こうには、太刀を振り抜いた晴明さまがいた。
「晴明さま……?」
「クソが……!」
彼の吐き捨てるような視線は、霧散した穢悪にまだ向いている。だけど彼はわたしに目を向けるなり、
「ケガはないか、夜火っ!」
珍しく焦りを含んだ口調で、わたしの名を呼んだ。そして彼はこの手を強く握って、こちらをぬっと覗き込む。
「えっと、あの」
「どうして先行した! なにかあったらどうする!」
「……お許しください」
「ケガは?」
「……ありません……」
消えてしまいそうな声で答えると、
「よかった……」
晴明さまは掴んでいた手を放し、大きく息を吐き出した。
わたしは解放された手首をさすると、喉を鳴らして息を吞み込む。晴明さまに握られていた手首は、特別に熱く感じられた。
――でも……
時折見せる、晴明さまのあの顔、あの声。
晴明さまのそれを目にすると、なんだか取り残されたように寂しくなる。普段はあれだけ優しいのに、いろんなものに壁をつくる人だから……。
「あの……。ありがとうございました。いつも、いつも面倒をかけてしまって……」
「気を付けなさいよ。でも」
晴明さまは表情から緊張を緩めて、今度はわたしが大好きな、花の咲くようなあのいつもの微笑みを見せてくれた。
「お前が無事なら、他はどうでもいいよ」