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穢悪とは怨の集合体。
怨恨、妬み、嫉み……。人から放たれた怨は現し世を漂い、やがて一つ、二つ、三つと巡り合って身を合わせ繰り返す。
大和の国は広大でそうそう彼らは出会わない。
――けど、でも空間に煙が、熱が、冷気が溜まりやすい場所があるように、自然にも穢悪が吹き溜まる場所が存在するらしい。
特に都から見た鬼門と、裏鬼門とされる方角がそう。
都から発せられ、長い年月をかけて力を蓄えた穢悪は、ものによって天変地異を巻き起こす力を持つ。
そこまで穢悪が育たない内に討つのが、陰陽寮の兵仗として働く陰陽仗。
特に晴明さまは齢二十にして坤鬼舎を構え、わたしたち鬼女を私兵、式神として使役。坤鬼舎は裏鬼門鎮護の砦の一つとして存在感を示している。
※
刀禁呪、というらしい。
晴明さまが太刀を振るうとき諳んじたあの呪詛だ。前に聞いて覚えている。
「詳しくは?」
「……忘れちゃいました」
屈み込むわたしは晴明さまに背を向けながら、髪で動きを縛った穢悪を金砕棒で粉砕した。この頭のもの覚えの悪さは、鬼女の中で一等である。
「刀禁呪は、陰陽師が邪なものを刀で退けるための真言だ。しかしお前が覚える必要もないかな。呪文自体に意味がないしね」
「そうなんですか?」
わたしは立ち上がって晴明さまに視線を移した。竹筒で水を飲んでいる。
「ああいうのも、呪の一種だからね。言葉で呪に役割を教えてやってるだけだよ。他の方法でそれができるなら、なにもあの密呪でなくてもいい」
「わたしの『縛』って言葉もそうですか? 晴明さまが、力を使うときは必ず口に出すようにって」
「そうそう」
正解。だけど晴明さまの表情は曇る。
「文言で呪に力の役目を教える。真言や言葉や儀式に意味を持たせて、呪を練り上げるのは自分自身だよ。でもお前は行いの持つ意味を侮ったろ」
「う……」
「近頃は坤鬼舎の周りで、怨が濃くなってきているからねえ。今日は低位の穢悪だったけど、相手によっては本当に命取りになる」
「肝に銘じておきます」
「肝に銘じる……。そうだなあ、呪詛の役割はまあ、そういうのだ」
「よかった」
「夜火の笑顔を見ると不安になる」
晴明さまは端正な顔をしかめ、それから笑った。
「片付いたなら、帰ろうか。今夜は坤鬼舎に泊まる」
※
坤鬼舎は都から未申の方角に建つ、ささやかな晴明さまの別業だ。
貴族さまの別宅が多い桂より、もっともっと奥。
人里からは距離を置き、森の開けた場所に位置している。
元はお社の類だったみたい。
忘れられ、廃絶していたところを晴明さまが建て直した。元がくっつけて付け足したような造りなのに、修繕するときにさらに切り貼り修繕しためちゃくちゃな建物。だけど、根が適当なわたしはけっこう気に入っているのだ。
空が茜色に染まる夕暮れ。
坤鬼舎へ続く森の小路の入り口には、ひっそりと建つ小屋がある。
紫雲を引きながら近付くと、そこからのそっと出てきたのは指貫に水干姿、家司を任せられているモリだった。長く生えた白い眉毛の上に二本のツノ。
鬼といえばほぼ女らしいけど、モリは珍しく男鬼。彼は居ずまいを正すと草の上に跪き、わたしと晴明さまを出迎えた。
「毎度のことですが」
モリは白い眉毛に隠れた目で、馬上の晴明さまを見上げる。
「信じておりましても、主と夜火の女君がお戻りするまでは不安にございます。ようお帰りくだされました」
「朝ぶりでしょうが」
晴明さまが苦笑いで答えた。
「主がお祓いにお出かけになりましたとき、いつも僕は座禅を組み、魂だけは御身と旅を共にしております。長い長い一日でございました。老骨には堪えます」
「いつまで経っても大げさな男だねえ。舎に変わりはない?」
「それが」
「それが?」
低い声で促されるとモリは跪いたまま、小路の奥にある坤鬼舎を目で示した。
「先ほど穢悪が」
※
「現れてすぐに祓われたようです。と、モリは言っていたよ」
色が褪せ、煤が目立つ坤鬼舎。
モリからの報告を聞いたわたしはほとんど反射的に駆け出し、市女笠も脱ぎ捨てて小路から鳥居を走り抜けた。
もしかしたら手強い穢悪かもしれない。姉さまたちに加勢しないと。
その一心だったけど到着したらもう穢悪はいない。白衣の小袖に緋袴の亜鐘姉さまが、一人で斎庭のあと片付けをしているだけだった。
「よかった……」
わたしはいつもの早とちりが恥ずかしく、消えてしまいそうな声で答えて蹲る。
「すまんなあ、夜火。お前の黒髪が揺れる様を、うしろから愛でたくてな。つい言うのが遅れた」
「話し方がわざとらしいです」
蹲ったまま拗ねて見せると、
「心配してくれたのよねえ。優しい子」
亜鐘姉さまがわたしと同じ目線に屈み、背をぽんぽんと優しく叩いてくれた。
気が強い鬼女が集う坤鬼舎にあって、亜鐘姉さまの穏やかな性格は心の拠り所だ。小さく愛らしい一本ヅノを額に生やし、なにかと慌ただしいわたしの面倒を見てくれる。
亜鐘姉さまはこの良くない頭をよしよしと撫でると立ち上がり、
「お務めごくろうさまでございました。舎は霞姉さまが、どこも涼しく準備されております。どうぞお寛ぎください」
と、晴明さまへ向けて丁寧に腰を折った。
いつものように凛として、整った所作だった。
「ん。今日は陸燈だったね」
「北の対屋でお待ちです。お供致します」
「一人でいい。夜火を労ってやって」
晴明さまは振り返り、砂利道を踏みしめる。わたしと亜鐘姉さまは横に並んで、その背中が見えなくなるまで頭を下げた。
「ねえ、亜鐘姉さま」
わたしは頭を上げ、晴明さまのいなくなった斎庭に目を置き話しかけた。
「現れた穢悪って、どんなやつでした? 誰もケガしてないですか?」
「ええ、平気よ」
亜鐘姉さまは口に手を当て、フフッと笑う。
坤鬼舎は穢悪が集まりやすい都の裏鬼門に建立されているので、出現は珍しくはない。かつてこの古刹が廃絶してしまった仔細も、そこに関係あると思う。
「大きさはこれくらいだったかなあ。丸いのが四体」
「え、けっこう大きい」
わたしは亜鐘姉さまの、目いっぱい広げた腕を見て言った。
「でも陸燈姉さまが来てくださったから、すぐに済んだわ。小袿姿でひょいと祓って、退屈そうに生あくびをして帰って行っちゃって。なにかのついでに祓ったような感じだったんだから」
「お強いですねえ。陸燈姉さま」
わたしは晴明さまが向かった方を見て、敬仰を込めた嘆息をもらした。
陸燈姉さまは北にある対屋に住まう、晴明さまの正妻だ。貴族の出自で正式な名前も持っている、ちょっと生まれが違う人である。
坤鬼舎の中でわたしたちは晴明さまの妾だけど、役割的には晴明さまや陸燈姉さまのお世話をする女房、召人という色の方が強い。
「さ、夜火。お腹が空いたでしょう? 夕餉をこしらえて、早く北の対屋まで運びましょう。命恋姉さまが捕ってきた鮎があるわよ」
「やったあ!」
舌なめずりをすると、亜鐘姉さまは手にした組紐で着物の袖を縛った。
わたしは夕餉を思うと嬉しくなって、トントントンと軽やかに主殿への短い階段を上る。そしてもう一度、晴明さまが向かった先を目で追った。
「今日こそ、お子が宿るといいですねえ。晴明さまと陸燈姉さまのお子、すっごい可愛いだろうなあ」
「そうねえ。わたしもそろそろ身持ちや産褥を学ばないと。鬼女が産んでも産の忌はあるのかしら。晴明さまはお気にしなさそうだけど……。モリがなにか知ってるかもしれないわねえ」
「わたしは習字より、そっちを先に習いたいなあ」
言ったら、亜鐘姉さまは困ったように笑った。
その笑顔は単純にわたしの言葉に呆れただけかと思ったけど、でもまた別の意味があったことに、この愚か者はあとになって知ってしまうのだ。
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