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「萌夏ちゃん、薬は?」
「え?」
いつものように朝食を終え部屋に戻ろうとしたところで、お母様に声をかけられた。
「貧血の薬」
ああ、そうだった。
平石家に居候をはじめて3ヶ月。
平石家の力なのか、世間が飽きたのか、遥と萌夏に対する報道もかなり収まってきた。
当然萌夏の腕の傷もすっかり治ったものの、以前からあった貧血と事件で1週間も意識を失ったことへの経過観察のために定期受診を続けている。
実は、その受診予約が昨日だった。
「もしかして、行かなかったの?」
「あぁ、えぇっと・・・」
昨日は行くのを忘れていた。とは言えず、困った。
「午後から俺が連れて行くよ。母さん、予約の電話だけしておいて」
キッチンに入ってきた遥が当たり前のように萌夏の隣に座る。
「えぇ、いいよ。自分で、」
「ダメ」
だって、遥は忙しいのに・・・
本当は文句を言いたいけれど、そんな事すればお父様とお母様と遥と3人がかりで説教されるのは目に見えていて言い返せなっかった。
***
「血液検査の数値はまあまあですね。貧血も病的な物って言うより体質のようだから、無理せず気長に付き合ってください」
「はい」
平石家のホームドクターは都心から少し離れたところにある一軒家のクリニック。
少し前に代替わりしたばかりの30代の若い先生が診察してくれる。
「でも、何かおかしい時にはすぐに来てください」
「はい」
亡くなった母さんが同じような体質だったって聞いたから、きっと遺伝だろう。
「お世話になりました」
「お大事に」
受付で会計を済ませ遥とともに病院を出る。
「遥、ありがとう。私は一人で帰るから、仕事に戻って」
きっと無理をして時間を作ってくれたはずだろうから。
「ぅーん、せっかくだからちょっとお茶して帰ろうか?」
え、珍しい。
「時間、いいの?」
「ああ」
***
遥の運転で連れてこられたのは郊外のカフェ。
店のドアを開けた瞬間パンの香ばしい香りがして、ガラス越しのオープンキッチンからは次々にパンを仕込むスタッフの姿が見える。
壁沿いに設置された什器には美味しそうなパンが並び、トレーを持ちながらパンを選ぶ人で賑わっている。
萌夏が依然バイトをしていたベーカリーもこんな感じだった。
って、並んでいるパンがいくつか同じだ。
「ここって・・・」
「ウイングの郊外型店舗1号店」
「へえー」
だから、雰囲気が似ていると思った。
でも店内はかなり広いし、テーブルも4人掛けのものやベンチシートが多かったり、
「あ、キッズスペースがある」
「この辺は家族連れが多いからね」
「ふーん。あー、ウッドデッキ」
思わず萌夏の声が大きくなった。
カフェスペースの先にあるガラス戸を開けると、大きなウッドデッキへとつながっている。
「すごい、外でも食べられるのね」
「いいだろ?」
「うん、すごく素敵」
こんなところでお茶をしたら気持ちいいだろうし、小さな子だって楽しいに決まっている。
「とりあえず、何か飲もうか?」
「うん」
***
「どうぞ」
「ありがとう」
ベーカリーコーナーからいくつかのパンを選んで、2人分のコーヒーを注文してくれた遥。
「ここって平石建設が手掛けている店なのね?」
バイトしているときは気にもしていなかったけれど、最近になって遥がメインでかかわっている事業なんだと知った。
「萌夏が働いていたのはウイングの1号店でね、俺がまだ学生で社外役員だった頃にはじめて手がけた仕事なんだ」
「ふーん」
思い入れのある店舗だからこそ、あの時視察もかねて店に来ていたんだ。
「あの日、あの店に行かなければ、萌夏にも出会わなかったんだな」
「そうだね」
運命と言えばそれまでだけれど、すべての始まりだった。
「また、働きたい?」
え?
平石の家に住むようになって、萌夏は平石建設での仕事を辞めた。
まだ報道もうるさくて仕事に出られる状況になかったのが一番の理由だけれど、まずは大学に戻って勉強を優先しなさいとのお父様とお母様の意向でそう決めた。
自分で決めた以上、そのことを後悔するつもりはない。
復学すると決めた萌夏に、お父様は何も言わず残りの学費をすべて支払ってしまった。
もちろん「奨学金を借りて自分で支払います」と言ったけれど、「今はうちの子だから」と聞いてはもらえなかった。
そんな諸事情があり、「アルバイトがしたい」なんて言い出せないでいた萌夏。
遥はそのことに気が付いていたらしい。
「夜遅い時間はダメだし、学業に影響が出るのはもってのほか、飲み屋や居酒屋も嫌だけれど、カフェならいいぞ。ここなら俺も顔が利くし。どう?」
「え、いいの?」
「父さんには俺が話してやるよ」
「本当?」
「ああ」
「ヤッター」
萌夏は遥に抱きついた。
「おい、こら」
子供のように喜ぶ萌夏に、遥が少しだけ苦い顔。
「ありがとう、遥」
「どういたしまして」
***
「なあ萌夏」
「ん?」
「うちでの暮らしは窮屈じゃないか?」
「そんなことないよ」
お父様にもお母様にもよくしてもらっているし、感謝の気持ちはあっても窮屈だなんて思わない。
「ずっと、側にいてくれるんだよな?」
口には出さなくても、萌夏は遥が好きだし、遥も同じ気持ちでいるんだろうと思っている。
でも、改めて聞かれると、
「どうしたの、遥。何かあった?」
逆に不安になるじゃない。
「何もないけど・・・」
「嘘」
遥らしくないもの。
「じゃあ、聞くけれどさあ」
飲みかけだったコーヒーを一口流し込んで、遥は萌夏を見た。
「何?」
「もし、俺が海外勤務になったら、萌夏はどうする?」
「えぇー、そんな話があるの?」
「いや、だから、もしもだって」
でも、いつかはそんなこともあるのよね。
遥は平石財閥を継ぐ人。
色んな経験が必要だろうし、海外勤務だって当たり前。
「遥はどうしたいの?」
「え?」
あら、遥が固まった。
***
遥はシャイでまじめ。
おしゃべりではないから、時々気持ちが伝わらないときもある。
もどかしいなって思ったこともないわけではない。
でも萌夏は、遥の気持ちを知っている。
それは平石の家に居候を始めてすぐのころ、晶から電話をもらった。
「ねえ、遥さんがこっちに来ているらしいわよ」
え?
「どういうこと?」
その日遥からは、「仕事で外出するから今夜は帰れないかもしれない」としか聞いていなかった。
今までだって遅くなるから会社に泊まるとか、明日が早いからホテルをとるとか、帰れないときだってあった。
その日もきっとそういうことなんだろうくらいに思っていた。
「遥さんが萌夏の実家へ行ったらしいわ」
「何をしに?」
今は絶縁状態の萌夏の実家に、遥が用事があるとは思えない。
「自分の素性を名乗ったうえで、『萌夏さんと一緒に暮らしています。将来は一緒になりたいと思っています』って頭を下げたそうよ」
「そんなあ・・・」
まじめな遥らしいと言えばそれまで。でも、いい加減な気持ちでできることではない。
それだけ、遥も真剣に考えてくれているってことだろう。
「うちの父さんがたまたまお寺にいて出くわしたらしくて、今時珍しい若者だって絶賛だったわ」
「そう」
こんな話を聞けば、うれしいに決まっている。
萌夏だって遥のことが好きなんだから。
「大事にしなさいよ」
「うん、わかってる」
この時萌夏は、この先どんなことがあっても遥についていこうと心に決めた。
だから、迷う気持ちはない。
***
「私は、ずっと遥の側にいるわ。遥がいるからこそ平石のお家にお世話になっているんだもの」
「本当に?」
「ええ」
「再来年、俺はHIRAISIに戻ることになると思う。そのころには萌夏も就職の頃だろ?」
「そうだね」
休学したからみんなより遅れるけれど、就職はしたい。
「そうしたら、二人で一緒に住もう。今度は同居ではなくて、夫婦として」
「遥」
「父さんたちにも認めてもらって、萌夏のお父さんの墓前にも報告して一緒になろう」
きっとこれはプロポーズ。
大財閥の御曹司にしてはムードがなさすぎだけれど、これもまた遥らしい。
「萌夏、右手を貸して」
「う、うん」
差し出した右手をそっと握り、ポケットから小さな箱を出した遥。
え、それって・・・
小さくてかわいいシルバーのリング。
萌夏の薬指に付けた後、自分の右手にもリングをはめる。
「これ、魔除けだから。萌夏に悪い虫がつかないように、絶対に外さないこと」
「うん。遥もね」
フフフ。
ククク。
2人して笑ってしまった。
この先、どんな運命が待っているのかなんて誰にも分らない。
きっと、幸せと不幸の連続だろうと思う。
色んなものを抱えた平凡ではない王子様に恋をしてしまった以上、全て受け入れて前を向くしかないだろう。
これが私の人生。
絶対にあきらめない。
「遥、大好き」
「俺も」
チュッ。
小さなリップ音で唇を重ねた。
ーー fin ーー