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アリスは拒む言葉を絞り出すより早く、北斗に支えられて半ば、持ち上げられるように引きずられて通路を進んだ
どこに連れられているかまったくわからないし、それどころではなかった
今すぐこの着物を脱がないと呼吸困難になりそうだ
昔から着物は好きではなかったもう二度と着くない
北斗は素早くアリスをエレベーターに乗せ、三階のエンジ色の重厚な二重で覆われたカーテンを広げ、アリスの背中を押した
アリスは薄暗い中へほとんど押し込まれるように入った
そこは分厚い絨毯が敷かれた、先ほどいた桟敷席10席分よりも遥かに広いボックス席だった
空気は清浄機が稼働しているので澄んでいるがふんわりとたばこの残り香に包まれていた
北斗に両肘を支えられ丁寧に座らされた肘掛椅子は、毛足の長いベルベット生地で、アリスが座ると心地よく腰が沈んだ
「・・・顔色が悪いな・・・具合が悪いのか?いつからだ?」
心配そうに彼が顔をのぞきこむ
「お・・・帯がきつくて・・・ 」
今やアリスはハァハァと浅く呼吸をしている
着崩れるのを嫌がる着付け師が、力任せに締め付けているのだ。これを直すのは一から帯をほどかなければ、でもこんな場所でそんなことは出来ない
「帯?・・・帯がきついのか? 」
北斗が眉に皺を寄せて聞く
ハァ・・ハァ・・・
「く・・・苦しい・・・ 」
アリスは下を向いて息をあらがせた、前かがみになりたいのに、帯が助骨にめりこんでいるので、上手く座っていられない
「失礼 」
その時北斗が背中のアリスの帯の飾り部分に3本指を入れた。そして2~3度力任せにぐいっぐいっと外側に引っ張った
「あっ・・あっ!」
苦しいっ!息が出来ない!
そう思った途端に肺に空気がいっぱい入り込んで来た
北斗の引っ張った指の分帯と胴体の間に隙間が出来たからだ
なんとも言えない解放感と、呼吸が出来る心地よさがよみがえった
さらに北斗がもうニ回ほど指三本を差し込んで、ぐるりと全体的に内から外へ引っ張ってくれた
さらに隙間が出来た、ウソのようにアリスは呼吸が楽になった
「これでどうだ?」
アリスは何度も深呼吸した、今帯はアリスが呼吸が出来る十分な隙間がある
暫くしてやっと一息ついてなんとかしゃべれるようになった
「あ・・・ありがとうございます・・・本当に・・・とっても楽になりました・・・ええ・・もう・・・ウソのように 」
「俺の母がよく着物を着ている時、帯が苦しいと俺に帯の中に腕を入れて、引っ張ってくれと言ってたんだ 」
北斗が依然として低い声で言った
「そうなんですの?お母様が? 」
それを聞いて今自分の座っている席にハッと気が付いた
「ここは?・・・お連れ様のお席で休ませて頂いて・・・いらっしゃったらお詫びを申し上げないと 」
「ここは俺一人だから気にすることはない」
こんな特等席にこの人一人?
アリスがキョロキョロと改めてあたりをじっくり見てみると、ここは舞台を眼下の真正面に臨むボックス席であることが分かった。思わず目を見開く
そうここは・・・・
国宝級の観客が座る国賓席だ、とてもつもない貴重人物が極秘で観覧する所だ。アリスの位くらいの人物でもなかなかここのボックス席には入れない
これほどの特等席に彼はたった一人で観覧しているの?
眼下には観客席と舞台をまるで天から見下ろしているように隅々まで一望でき
くつろげる家具調度、明かりが絞られたガス灯・・・
象眼細工が施された艶やかなテーブルがありきわめて豪華な設えしつらえだ
けれどもここには自分とこの人以外には誰もいない
そして隣に座っている彼、は歌舞伎など見ておらず、注目は体ごとアリスに向けられている
それはアリスも同じだった
観劇の騒々しさと音楽が遥か眼下に聞こえ・・・
まるで世界に二人っきりのような錯覚を起こす
アリスは彼と前に会ったことがあるような、不思議な感覚を抱きつつ、なんとか正気を保って手紙を取り出した
「こ・・・こんなことを書いて渡すなんて、いったいどういうおつもりですか? 」
北斗は手紙に目を向けようともしなかった。彼も今のアリスと同じ感覚を抱いているような気がした
「そこに書いてある通りだ 」
アリスは手紙を握りしめて必死に考えを整理しようとした
ほんの数10センチ隣に座っている成宮北斗の圧倒的な存在に、椅子からころげ落ちないように、じっとこらえているのが難しかった
さっきよりは呼吸するのが楽だが、こんどは別の違う意味で呼吸が苦しい。この人の近くはなんだか酸素が薄い
「そうは言われましても・・・私は鬼龍院さんと婚約して三か月になります。これまで彼の知人、友人からは彼が問題があるようなお話は伺ったことはないわ」
「鬼龍院は性癖を隠している」
「それなのにあなたには隠してないと言うんですか?なんのために?なぜそのような情報を手に入れられるの?」
目の前にいる彼は背後から照らされた緩いオレンジ色のガス灯に照らされて、顔が半分陰になっている
「アイツは俺に馬を高く売りたいために俺の気を引きたがっている。現にSMクラブにも何回も誘われているし、俺の弟達にも性病のことを話している。間違いない、君は結婚初夜で鬼龍院から梅毒を移される」
じっとアリスのつま先から顔まで眺め、まっすぐな瞳でアリスを観察して言った
「それとももう手後れかな? 」
カッと頬が赤くなった。なんて無礼な人なの?
ごくりと唾を呑み、心臓をのどから押し下げて悪態にあたらない言葉を探した
アリスはこの無礼者と距離が近すぎると思いつつも、なぜかこの席を離れる気が起こらないのが不思議だった
「・・・こんな・・・手紙をあなたはいつも持ち歩いているんですか?」
北斗はアリスとの目線をすっとそらした、まるでいつまでも見つめ合うのが、彼には耐えられないとでもいうように
「・・・恩師のお孫さんに実際に会って、救う価値のある女性なら渡そうと思って夕べ書いた」
「褒めてくださっているのかしら?」
思わず皮肉が出た
「鬼龍院は救いようのない色欲者で、君の財産しか見ていない 」
ズキンとアリスの心が痛んだ
それはまさにアリス自らの心の中に常に自問自答していた事だし、分かり切っていることだ
しかし敢てそれをハッキリ他人に言われるのは、身を切られるような痛みだった
なので女子大学を卒業した頃から、次々に押し寄せる求婚者達には十分気を付けて見てきたつもりだ
「・・・・私はそれほど愚かではないわ。自分の最大の魅力が、伊藤家の財力であるのも充分承知しています 」
屈辱でみぞおちが焼かれる気分だった
「むしろ自分の魅力が財力しかないのも・・・」
とても小さな声だったので、彼に聞かれたかどうか自信がなかった
アリスは小さくため息をついた。どうしてこんなことになってしまっているのだろう
「俺ならいつでも君を娶る」
北斗がだし抜けに言った。アリスは目をぱちくりした
「なんですって? 」
「君を娶ると言ったんだ、君の資産にはまったく興味ないが」
アリスが今聞いた言葉を信じられないとばかりに顔をしかめた
「でしたらどうして私に求婚なさるの?」
再び北斗がアリスを見つめて言った
「俺と君ならうまくいく 」
「どうしてわかるの?私達ほんの1時間前に会ったばかりよ?」
好奇心から尋ねた
「わかるんだ」
アリスはあっけに取られて、笑うべきか怒るべきかわからなくなった
「・・・こ・・・・こういうことをよくなさるの?若い女性に婚約者の性癖をバラして、自分と結婚するべきだと口説いてまわっているとか?」
「君が初めてだ」
北斗は唇の端をわずかに上げてアリスを見た
「もっと正確に言うと君を見るまで誰とも結婚する気はなかった」
「なら・・・どうして私と結婚する気になったの?」
「君が美しいから」
アリスは鬼龍院がこの人を「変人」だと、言っていたことを思い出した。たしか幼い頃に父親に虐待されていたとか・・・
かわいそうに・・・・彼はその名残りで自分の言っていることがわからないんだわ
その証拠にアリスはお世辞こそあれ、人並みの容姿だし自分のことを美しいなど、一度も思ったことはない