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【肆と診療所】
七ノ巻〚遊郭〛
*
「まあ、内心落ち着いてはいられないよね」
管太郎は茶をすする。
あの説教部屋でくつろぐ四天王は、先程の唯と朝との出来事について話していた。
「そうだよね……。私達より先に診療所に入ったのに、先に立場が上になるなんて……。嫌だよね」
唯はずっとこうやってしょぼくれている。
気を利かせたのか何なのか、伊崎は唯の頭に手刀を叩き込んだ。
「んなの気にする必要あるかよ。あいつが医者の才能ねぇだけだろ」
「ちょっと伊崎」
「わってるよ管太郎。けど、本当のことだろ。あいつ保健班の副管理人だろ。その保健班が最近衰えてんだ。実力がねぇのは確かだろ」
静まる部屋。
伊崎の言っていることは事実だ。
神無月朝は保健班の副管理人をやっているのだが、その保健班の質が落ちている。
診療所内の食べ物の管理や、腐食物の処理、診療所内の消毒などなど。
診療をする身には大切な、体調管理というものを徹底させる班である。
その班が衰えているということは、もちろん体調不良者も出てくる。
そうなれば、患者を見れる医者も減り、診療所の信頼が薄れていく。
この『当り所の診療所』が求めるモットーは、『早く確実なる診療と治療』である。
そのモットーを崩しかねないこの現時点の保健班。
四天王はいい目で見てはいない。
「まあ、気にしてもしょうがない。今俺達がすべきことは、遊郭へ行く準備だよね。って言い方すると、なんかちょっとアレだけど」
そんな管太郎に頷く葉色。
「うん、その通りだね」
唯はうつむいたまま眉を下げて微笑んだ。
*
朝日が昇り始める頃、霜月と四天王は診療所な玄関口に立っていた。
重い荷物を両手に持ち、ふてくされて機嫌の悪い四天王。
霜月は葉色の薬箱をひとつ持ち、笑った。
「では武次郎さん、行ってきますね」
「ああ行って来い。ちゃんと治して来いよ」
「くみちょーは遊郭に行かなくていいんですかー?嫁さんもらいに」
「唯、帰ってきたらまずげんこつやるよ」
クフフと笑う管太郎。
と、横を見れば、いつも通りの伊崎。
「今日はてっか、いらないんだ」
「あ?ああ……。前のは、江戸城だったから」
「ん?……まぁ、何かあったら言ってね」
「ん」
不思議の多い人だ、と管太郎は改めて思う。
(まあ、探るのもなんだか嫌なんだし、自分から言ってくれるまで待とうかな)
同じことを唯も葉色も考えているため、自分から伊崎が吐かない限りは誰も追求しない。
(てっか被っているよりは、ましだしね)
そんなことを思いながら、診療所の門を潜った。
*
淡く光る提灯。
派手な色の着物。
甚だしく濃い化粧。
むせ返るように甘い香の匂い。
霜月と伊崎は平坦ないつもの伊崎と霜月だが、他三人は顔を青ざめさせた。
「なんで二人は平気なんですか」
管太郎は聞いた。
霜月は「それ聞いちゃうかな」と笑って答えた。
「俺一時期、遊郭で働いていたからね。これも医療の仕事でね」
「そのときも、精神科医だったのですか」
「うん、そうだよ」
霜月佑誠は、管太郎と同じく精神科医なのだ。
しかし彼は薬学やら蘭学やら、色々な分野を学んでいるため、精神科医以外の仕事も多々ある。
「医療関係なら正直なんでも」というのが彼の本音である。
「ほら、こんな囚われた監獄みたいな場所でしょう?心も大分腐る人がいるんだ」
「……うってつけですね」
葉色はうつむく。
「ごめんね。少し暗い話だったね」
青い顔の三人と、もうすでに眠そうな伊崎を連れ、霜月は一つの建物を指さした。
「私達が泊まる宿屋、あそこだよ」
『花がら』と大きく筆で書かれた看板。
その下には売り出される遊女たちがいた。
「入ろうか」
その霜月の言葉に、ごくりとつばを飲む三人。
伊崎はやはり眠そうだ。
遊女の横を通り抜け、店内へ入ると、そこもまた豪勢な作りだった。
江戸城の穏やかな作りとは別に、こちらは派手だった。
赤や黄色などのケバケバしい色を主に使い、見ているだけで頭がキンキンしそうだ。
受付にて霜月が頭を下げた。
「『当り所の診療所』から来ました。四天王と付き添いです」
そう言うと、受付の白髪のおばあさんは優しく微笑んで頭を軽く下げた。
「あらあら。本当、幼い子たちね。今日は来てくれてありがとうございます」
「い、いえいえ」
唯は堅苦しそうだ。
「私の名前は糸。よろしくお願いしますね」
四人ともに頭を下げると、その後、糸は部屋を案内した。
その間、いろいろな部屋の廊下を通った。
「襖くらい閉めなさい」と言いたくなる場面が多々あったが、目を逸らして部屋まで来た。
その部屋は、もとは商売用で使おうと思っていたが、部屋が余っていらなくなった物置だったらしい。
だが四天王たちが来ることになり、大慌てで掃除したそうだ。
「付き添いの副長さんは、こちらの部屋に。四天王様には二部屋用意しているので、二手に分かれるでも、どうでもお使いください」
そこそこ広い部屋を見せられ、「おー」と唯は口を開く。
「私、葉色とがいいな」
「じゃあ唯と……でもいい?」
葉色は管太郎を見ていった。
唯も後ろでクスクス笑っている。
「……なんで俺に聞くの」
「いや、伊崎と二人……大丈夫かなって……」
その葉色の言葉に反応したのは伊崎もだった。
「は?そんなに管太郎お前、私のこと嫌いなのかよ」
「いやいや!」
「嫌?」
「そうじゃなくて!二人でいいよ!」
その光景を見て、霜月と糸は同じような笑いを浮かべた。
管太郎は真っ赤になり、伊崎は疑問符を頭に乗っける。
糸は笑みを浮かべたまま言った。
「では、荷物を置いて応接間へ来ていただけますか?」
*
「ことの発端は今年の夏頃なんです」
糸は応接間にて、全員が揃うと話し始めた。
今年の夏頃、一人の遊女が性交時、痛みの感覚が激しく、相手の男が糸を呼んだらしい。
どうやらすぐに痛みは治まったようだったが、その後、その遊女に異変が相次いだ。
おりものの色が黄色や黄緑になったり、その量が増える。
また、月経ではない時期に月経のような症状が起こるなどの不正出血が起こったり、外陰部に腫れやかゆみがあるそうだ。
その遊女は病とされ、療養部屋で安静にしていた。
しばらくすると、その女の相手をした男がやってきた。
体の不調があったという。
排尿時に痛みがあったり、膿が出てきたそうだ。
性病ではないかと思い、医者に相談したものの、性病ではないと診断された。
しかしその後続々と同じ症状の遊女が現れた。
そんな最中だった。
先月ほど前、新しい症状が出た。
鼻水、目のかゆみ、喉の痛み。
喉の痛みは前々から訴える遊女もいたが、ここ最近で急に増えたらしい。
しかしこれも、医者に聞いてもわからないの一点張り。
しかたなく、大金をかけても当り所の診療所に依頼したらしい。
「なるほど」
伊崎は平坦につぶやいた。
「私、何も思い当たらないや。やっぱり今回は内科医伊崎の出る幕だね」
唯は伊崎を見つめた。
葉色は顎に手を当て、黙々と何かを考え続ける。
管太郎も何かを考えているようだ。
霜月はいつものにこにこ顔で糸を見ているだけだった。
伊崎はそんな霜月に言葉を告げた。
「最初の辺りはなんとなく病気がわかったが、途中からさっぱりだ。副長、なにかわからないか」
「私は全く何もわかりやしません」
(にこにこで言うことかよ)
伊崎は霜月を頼らないことに決めた。
「まだよくわからないので、その症状を持つ方にお会いできますか」
伊崎が告げると、周りは少し皆引いた。
(伝染るかもしれないのに、本当この人大胆不敵……)
管太郎は驚きのあまり高鳴る心臓をなだめながら思った。
*
結局糸に連れられ、伊崎たち四天王は療養部屋へ来た。
驚いたのは、そこにいる遊女の人数だ。
「42名。この『花がら』の遊女の約半分よ」
困ったように糸はつぶやく。
その様子を見ていた四天王は、眉を下げる。
「あっ」
糸が急に声をあげた。
その後数秒管太郎を見つめたが、
「まあいいっか」
と独り言をつぶやいてどこかへ消え去った。
何がしたかったのかさっぱりわからない四天王は、とりあえず病人の監察をすることにした。
とある部屋に入った。
「うっ」
唯と管太郎は顔をしかめ、顔のあたりに手を持ってくるが、慌ててもとの位置に戻す。
においが強く、鼻を押さえようとしたが、失礼だと思いやめたのだ。
伊崎は着物の袖で鼻を多い、布団に寝る遊女へ近寄った。
三人は入口から動けないでいる。
(このにおいは……?)
管太郎は顔をしかめた。
「おい、意識があるか」
伊崎が遊女へ問いかけると、こくん、とかすかに首が傾いた。
「どこが辛い」
「鼻水が止まらないこと、おりものが止まらないこと、喉が痛いこと。挙げればどれだけでも挙がります」
やはり伊崎は不審に思った。
(鼻水、おりもの、喉……。この三つの症状が合う病気などないぞ……?)
鼻水と喉はよくあることである。
しかし、それにおりものが加わるとなると話は別だ。
また、糸の話では目のかゆみのある人もいたそうだ。
というのに、相手の男にも異常があった。
(あーもう、全くわからん)
伊崎は入口に向かって歩き出した。
「えっ、戻るの?」
「戻る」
戸惑いながら、三人もそれに着いて行った。
*
管太郎と伊崎の部屋で、四天王は会議を開いた。
「あの内科医天才伊崎もお手上げかぁ」
そんな唯の言葉にムキになる伊崎。
「誰がお手上げだ。私はまだ全然いける」
管太郎は笑いながら伊崎に問うた。
「それより、あの療養部屋のにおいは何だったの?」
「ああ、それなら、おりもののにおいだ。多く出ているから、においもあれだけになる」
うっ、と顔をしかめる三人。
葉色は小声でささやいた。
「多くって……。もうちょっと言い方……」
「大量って言おうとしたけど、そっちのほうがだめかと思って変えた」
三人は伊崎のテンポについていけず、項垂れた。
「そんなことより、三人はなにかわかったか?」
「私は何も。外傷医の出る幕ないのでー」
「私も」
「俺は……まあ、ほとんどなにもない」
「そのほとんどってなんだ」
伊崎に圧され、管太郎は答える。
「ついこの間、精神医学の書物で読んだんだ。感染症と見せかけて、本当は感染らない病気……っていうやつを」
伊崎は首をひねった。
「なにそれ?」
「心ってね、本当に不思議なもので、“そう思うことにしたらそうなる”んだよ」
「説明下手」
「えっ、た、例えば、『あの人が感染症にかかった』と思うとする。そしたら、その人と接触自分は、似たような症状が出ただけで『自分も感染症にかかった』と思うってこと」
「つまり、本当はそれは感染症ではなかったと」
「そうそう。“思い込み”で病になるってことだね」
そう言うと、唯が「あっ」と声を発した。
「それあった!前に管太郎が熱出して『頭痛い』って言ってるとき、それ聞いてたら私も頭痛くなったんだよねー。だから風邪が伝染ったかと思ったら、体温は全く高くないんだよね。そういうことだよね?」
「うん、そうそう」
伊崎は「ふーん」と考え込んだ。
(が、やっぱりわからんな)
と、襖の奥から糸の声がした。
「失礼します」
そう言って部屋に入ってきた彼女は、両手に多くの着物と飾りを持っていた。
何に使うのか、大抵予想のつく四天王。
「そ、それ……」
「ええ。四天王に、遊女をしてもらおうと思いまして」
*
赤い瞳とよく映える朱を主とした着物。
赤毛まじりの髪の毛には金の簪がバランスよく並べられている。
いつものハーフアップで首元は隠し、口には薄い赤の紅を塗る。
糸に魅せられた唯。
茶髪を解き、そこを華やかに飾る赤と黄色の簪やいち止め。
黄色やオレンジなどの暖色を主とした着物を着、顔の目尻には桃色の粉を丸くつける。
それと同じ色の紅を差し、色白な肌とよく映える。
糸に魅せられた葉色。
長いまつげと大きな瞳のそばに置かれた赤い粉。
それよりも遥かにけばけばし赤を唇に乗せ、頭は軽く遊女流の髷を結い、そこに深い緑髪によく似合う銀の簪を指す。
深緑や白を貴重とした穏やかな色合いと、ちりめんという派手な柄の着物を着、佇む、糸に魅せられた伊崎。
そして、一番魅了されるのはこの青髪を纏う“彼”。
その青髪とやらは遊女特有のまげを軽く結い、伊崎と似た銀色の簪を指す。
桃色の口紅を指し、目尻には赤々した粉がついている。
青を貴重とした着物も似合い、絶賛されるべき美人。
それは、糸に魅せられた管太郎。
しかし今は管という名だ。
「なんで俺もなんですか」
「というか、なぜ私達がこんな格好をしている」
「私達、診療をしに来たので、そういう商売はできませんよ?」
「……できるできない以前に、やりたくないです……」
四人は美しい。
赤黄緑青の四色が美しく綺羅びやかに佇み、糸は満足そうだ。
「ごめんなさいね。でも、今人手が足りていないの。そちらの副長さんには許可を取ったわ」
(あのクソ霜月の野郎)
伊崎は綺麗な見た目と裏腹に霜月に怒った。
「それに、夜のお芝居はしなくていいわ。昼のお茶や語りにだけ付き合ってくれれば……」
「お願い」と手を合わせてくる糸。
断れない性格の唯と管太郎(今は管)は、うっ、と顔をしかめる。
葉色は先程からずっともじもじしている。
「お願い。人助けと思って……。もししてくれたなら、何でも言うことを聞くわ。ただし、四人で一つね」
「お願い」という言葉に圧され、唯と管太郎(今は管)は了承した。
葉色は「まあ……。あまり喋るのは苦手だけれど、夜のお芝居がないのなら……」と頷いた。
伊崎はそんな葉色を半目で睨みながらため息をつく。
「愛想悪くてもいいのかよ」
「いいわよ。それが売りな子もいるのだから」
「ったく……。まぁ何でも話を聞いてくれるんならやる」
「あら、ありがとうございます。じゃあ早速。一人ひとりの部屋へ行ってもらうわ」
「もうかよ」
「遊女は年中忙しいのよ」
そう言うと糸は袖をたくし上げた。
*
一人一部屋、六畳程の部屋で接客をする。
酒や会話に付き合えばいいと言っていたが、管太郎(今は管)はそんなのも嫌だ。
(そもそも俺、女じゃないし)
“俺”ではなく“私”にしろと言われたが、果たされるものでもない。
管という名で遊女として売られているが、自分自身、自分は管太郎だと思っている。
(それに、伊崎のことも……)
心配である。
いい客が当たればよいのだが、客によっては、酒だけと言っておきながら襲う人だっている。
伊崎の場合は蹴りでも入れてぷんすか怒っていそうだが、それはそれで色々心配である。
(ま、遊女で働いた分金は積むと言っていたし、悪いもんでもないけど)
組長にバレたらやばいだろう、という思いが抜けない。
怒られるのはもうとっくに慣れているが、怒った武次郎をなだめるのはいつになっても慣れない。
隣に立っているにこにこ顔のあの彼もよくわからないし。
伊崎や唯が武次郎をなだめられるとも思わないし(むしろ火に油)、葉色が何を言っても武次郎の怒声にかき消される。
(結局なだめるの、俺なんだから)
と考えていると、一人目の客が来た。
緊張などしていないが、どうしても、「自分が男」という罪悪感がある。
「よぉ、新人さん」
もうすでに酒に酔っているらしい男だった。
「管と申します。よろしくお願いします」
「ええ、ええ。ちょっと話に付き合っとくれ。最近色恋に失敗してなあ、」
そんな雑談だった。
時折お猪口の酒をくいっと飲む。
空になったお猪口には自分で酒を入れ、ほとんど管には仕事がない。
話の相槌を打つのが仕事らしい。
(葉色にうってつけの仕事だなあ)
*
その頃伊崎は客を睨んでいた。
睨まれる客は少し頬を染めて笑っている。
「何でお前がここにいる」
「逆に、なんで君がここにいる」
「「伊崎さん」千六良」
お互いに沈黙。
確かに、お互いにお互いがなぜここにいるのかわかっていない。
「いや待て、お前ならわかるだろ。任務で来たんだよ。お前の依頼した任務でな」
千六良が座布団へ座った。
「そうか、とはならない。別に着飾って遊女になれなんか一言も言ってない」
「私だってこうしようと思って来たわけじゃねぇよ。ここの婆さんが勝手に……、いや、うちの副長さんも共犯者か。つか、お前はなんでここにいる。女遊びには興味ないんじゃなかったのか」
「ないよ。だけど、ご当主の命令で来たんだ」
「はあ?わけわからん」
「つまり、遊女を身請けしろってことさ。大金なら弓削家には山程ある。遊女の身請けなんてなんの損害にもなりやしない」
「……いや、わからんぞ。大御所の弓削家の若が遊女と結婚なんて、前代未聞だ。それをすることでなんの利益もないだろう」
「そんなこともない。花魁とでも結婚すれば、遊郭の管理者と結託が組める。また、子宝にも恵まれる」
「結託の話はまあ良しとして、子宝はわからんぞ」
「え?どうしてだ」
伊崎は思い着物を引きずって千六良の前に立った。
「性病によっては、不妊などの症状があるものもある。しかし表向き無症状なんだ。だから、体の不調に気付かない。遊女ともなれば、不妊のためになんやかんや工夫してるもんだ。気づきづらいとかの話じゃないだろ」
「……どうやって見分けがつく」
「診療するしかない」
千六良はため息をついた。
ぼりぼりとやや茶色い黒髪をかき、雑に結んでいた髪を解く。
そして、ちらりと伊崎の髪に刺さる“赤い櫛”を見たあと、伊崎を押し倒した。
伊崎は戸惑い、顔をひきつらせる。
千六良は真顔で伊崎を見つめる。
「その櫛、付けてるんだ」
「持ってたら婆さんに付けられた。それより、何だよお前。どけ」
蹴ろうと脚を上げるも、着物が重い。そしてその脚は千六良に押さえられた。
「私の嫁は、君にするよ、伊崎さん」
伊崎は唇をかんだ。
(適してはいるが、嫌だぞっ?!)
そんな考えと裏腹に、千六良は語りだす。
「今日が初仕事の遊女なら、そんな病気にもかかっていない。求婚を受ける如く、櫛を持ち歩く。医学の知識がある。そして」
千六良は伊崎の耳元に口を近づけ、囁いた。
「江戸城のお姫様」
その声に、ハッと伊崎は目を見張る。
「やっぱり、そうなんだ」
千六良はにこりと素敵な笑みを浮かべた。
「なんで……」
「弓削家は江戸幕府が大好きだから。“城から逃げ出したお姫様”のことは、世間は忘れても弓削家は忘れない。確かその姫の名は『菊』……だったか。……前あったとき、まさかと思ったんだ。君の立ち方、歩き方、座り方。作法すべてが“姫物”。習ったんだよね?お城で」
「そんなこと……」
「今日会って確信した。その髪の毛で」
「っ、やっぱり……!!」
いつもは頭の天辺で髪を結っている、所謂『ぴよん』ヘアーなのだが、今日は違った。
髪を下ろし、両サイドの髪を軽く結う。
その結い方は底辺遊女がよくするお団子のようなものなのだが、彼女がすると大人びて見える。
普段は刺さない銀の簪。
高級感をこれでもかというほど出している。
さらに、決め手と言っては、普段から後れ毛のように見える、耳元の、形の整った髪は姫の雰囲気を醸し出すものだった。
「髪を下ろしたら姫だとバレるから、いつもあんな『ぴよん』な髪をしていたんだ」
「うるさい。どけ。姫命令だ」
「ああ……本当に姫なんだ」
江戸城の姫。
それはつまり、海外で言うプリンセス。
誰もが憧れる存在なのだ。
しかし想像する姫とは、穏やかで絢爛で大人しく、凛々しい様子。
そんなものは伊崎には欠片もない。
が、ないのだが、否定しないということは彼女は姫なのだ。
江戸城にいた際も、逃げの身だったために、自分が姫だと悟られてはいけず、てっかを被っていた。
「どけ。幕府に訴えるぞ」
「訴えたら姫君の身もバレてしまうかと」
「姫君と呼ぶな。今まで通りでいい」
「伊崎さん?それとも菊さん?」
「菊だが今は菊じゃない。早くどけと言っている」
「まあ、襲う気ははなからないからご安心を」
そう言いながらときちんとどき、正座で座る千六良。
伊崎も起き上がり、着物を何枚か脱ぐ。
「何をしている」
「もう遊女の仕事はやらん。お前とは長話になりそうだ」
「いやそう意味ではなく。なんで脱いでいるのかと」
「着飾る必要がなくなったからだ。それと、単に邪魔で重い。下二枚くらいでいいだろう」
本当に身軽になった彼女は、姫とも思えないふうに胡座をかき、頬杖をつく。
その様子にけらけら笑う千六良。
「やっぱり姫だなんて思えないや」
「思ってくれなくていい」
「なんで城から逃げ出した」
「別に、言う必要なくないか」
伊崎は脱いだ着物を畳みながら言った。
「それより、姫のこと、誰にも言うなよ」
その発言に驚く千六良。
「なんで驚いてんだ。当たり前だろ。逃げてる身なんだから」
「私達弓削家は江戸幕府大好きなんだ。江戸幕府が追うなら私は君を江戸幕府に差し出すよ」
「私も江戸幕府の人間だ。それに、自分のことは自分で解決する。勝手な口出しをするな」
「……まあ、伊崎さんらしいといえばらしい」
「私の一言で、お前は命さえ危ういんだぞ」
伊崎は急に声を暗くした。
つまり、姫の命令はただの一言とは価値が違うということだ。
伊崎が「千六良を殺せ」と言ったのなら、彼は間違いなく殺される。
有権者からすれば、人の命など一言で終わるものなのだ。
千六良は笑った。
「なぜ笑う」
「だって、それが嫌だから、君はそうやって暗い声色なんだろう」
伊崎は着物を畳む手を止めた。
ふと千六良を見やれば、笑っている。
「前に話したとき、『意中の相手がいても結局その人とは結婚できない』と伊崎さんに話した際、あなたは目を輝かせていた」
「輝かせてない」
「あなたも同じなんだろう?だから、目を見開いた」
「……別に」
「俺にはもう、意中の相手ができた」
「へぇ」
またも着物を畳みだす伊崎。
「誰?とは聞かないの」
「お前が誰と結婚しようと私には興味ない」
「じゃあ、本当に嫁入りしてもらうよ?」
ハッと急いで千六良を振り返る。
「まさか……」
「そう、私の意中の相手は伊崎さんだ」
悲しいような、切ない笑みを浮かべる千六良。
伊崎は白い目をして睨む。
「結婚なんぞしねぇぞ」
「どうして?」
「なんで逆にお前と結婚しなきゃならないんだ。それに、城に黙って結婚するのはさすがに気が引ける」
「まあ、長女だしな」
「……姫は幕府の大切な“交渉道具”だからな。姫を結婚させることで、その家と手を取り合う。そんな大切な役割を果たす姫が、勝手に嫁ぐわけにはいかない」
「なんやかんや言って、姫だな」
「そんなことはない」
伊崎は目を瞑った。
「『菊』の名はもう捨てた。私は今は『弥生伊崎』だ」
千六良は真顔で伊崎を見つめた。
そして頷く。
「うん、私が好きになったのは」
伊崎は目を開いた。
千六良は伊崎を見つめ、言う。
「伊崎さんだ」
*七ノ巻〚遊郭〛完
(漢字表記)
綺羅びやか(きら−びやか)
佇む(たたず−む)
簪(かんざし)
お猪口(お−ちょこ)
絢爛(けんらん)