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キーボードを無心で叩く。
「———さん」
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ
「——倉さん」
カタカタカタカタカタカタカタカタカタ
「藤倉さんってば」
顔を上げると、営業課の吉野マネージャーが脇から覗き込んでいた。
「どうかしましたか?」
「ねえ、この伝票間違ってるんだけど」
言われるままにその紙を見る。
「敦森病院、医療用ガーゼ30cm×30cm、100ピースさあ、20箱ってなってるんだけど、発注書は20ケースで書いたよね?」
20ケース。つまり4箱×20ケースの80箱。
「伝票が間違っているだけで、発注が正しければ別に金額訂正してもらえばいいんだけど、もしかして発注まで間違ってたり、しないよね?」
何でもないような顔をしながら、その額に汗が滲んでいる。
「すみません、見てみます」
キーボードを打つ手が震える。
デスクに片手をついて見守る吉野の手も震えている。
あった。
敦森病院。
医療用ガーゼ30cm×30cm 100ピース。————20箱。
5ケース分しかない。
「マジか」
吉野が額を抑える。
「納品今日なんだよ。いや、先週のうちに確認しとかない俺が悪かったんだけどさ」
正しく発注書を書き、連休前の激務をこなしていた吉野は1mmも悪くない。それと比べて30cm以上悪い愛は、ただ「すみません」と頭を下げた。
「いやあ、気心知れた病院だったらまだいいんだけど、大口の新規だから。ーーー困ったな」
その短髪をガシガシと掻きむしっている。
「10ケースならあるけど?」
営業課のデスクから、小口が叫ぶ。
「早めに用意してたけど、納品金曜日だから。そっちを回してあげてもいいけど?」
「マジで!!」
吉野が飛びつくように小口に寄っていく。
「こぐっちゃん、頼むよ」
「いいわよ。焼肉嬉々のランチで手を打とう」
今日も完ぺきな化粧を施した顔が得意気に笑う。
「あと5ケースか」
ことの成り行きを見守っていた奈緒子が受話器を取る。
「すみません、長澤医療機器販売の門脇です。はい、ご無沙汰してます。すみませんが、医療用ガーゼ30×30、余ってませんか。————はい。あ、いいです。うちの者が取りに行くので。はい。5ケース譲っていただきたくて。そうです。箱じゃなくて、ケースです。————はい。あ、その単価でいいです。————すみません。じゃあ、よろしくお願いします」
メモを取りながら受話器を置くと、奈緒子はメモを吉野に渡した。
「これ。一応ライバル会社にあたるセゾン医療の小林さんの携帯番号。伝票と請求はこっちでやっとくから、ものだけ貰って行って」
「奈緒子さ~ん!!」
吉野が両手を組む。
「ありがとうございます!」
頭を下げる。
自分は何も悪くないのに。
「藤倉さんも、ごめんな。ちゃんと発注書出すときに言えばよかったよな」
こちらのフォローまでしてくれる。
愛はそのまぶしい笑顔を見ながら目頭が熱くなってくるのを感じた。
続いて、事務所のドアが開き、営業課長である柳原が飛び込んできた。
胸に箱を抱えている。
「あやめ荘に納品した施設用シューズ、色が間違ってた」
「えー?」
奈緒子が立ち上がり、彼がブロッコリーのデスクに置いた箱を覗き込む。
「これ。ベージュじゃなくてキャラメルがよかったんだそうだ」
(キャラメルーーー)
その言葉には聞き覚えがあった。
ーーーーーー
電話を掛けてきた年配の施設職員が、
「キャラ…メル?っていうのかな?その色で1足お願いしたいんですけど」
と言った。
「ああ、ちょっと薄い茶色みたいな色ですか」
「そうそう。それ」
施設用シューズにそんなお洒落なネーミングが付いているとは思わなかった。黒と、茶色と、紺色と、水色と、ピンク、そしてベージュしかないと思いこんでいた愛は、
(年寄りってベージュを知らないのね)
と勝手に解釈してベージュで発注してしまった。
ーーーーーーー
「これ、どう見てもキャラメル色じゃねえだろ」
柳原課長が呆れて総務を睨む。
「誰だ、発注したの」
吉野とは違う厳しい視線。
きっと彼はもう誰がやったのか、わかってる。
「私が間違えました。すみません」
立ち上がり頭を下げる。
「聞き間違えてしまって」
つい言い訳が零れだす。
先ほどの吉野のミスがあった直後に、「キャラメルなんて色があるのを知らなくて」とはとても言えなかった。
「まあ、あそこの職員さん、おばあちゃんだからなあ」
聞いていた吉野が助け船を出す。
しかし―――。
柳原は施設用シューズのカタログを持ち出すと、愛のデスクに置いた。
「商品知識習得も仕事のうちだ」
愛の小賢しい言い訳は、年間数億の売り上げを叩き出す営業課長には、容易に見破られていた。
目に涙が溜まってくる。
やだ。泣きたくなんかないのに。
女の涙は卑怯なのに。
30を超えて人前で泣いたらバカみたいなのに。
「ちなみにピンクベージュっていう新色も秋から導入されるからな。ベージュも二種類になるぞ」
人間観察に長けた課長が、愛の変化に気づいて、少しおどける。
「オシャレは足元から、だろ?高齢者も一緒なんだよ。女性は特に、色を気にするから。服だって靴だってバッグだって。藤倉さんだってそうだろ?」
先ほどまで明らかに怒っていた顔が微笑む。
「言ってやってくれよ。うちの鈴木に。あいつの使ってるバッグ、300円均一の男もんのビジネスバックだから」
「いーんですよ、詰め込みすぎてどうせ半年もたたずに型崩れするんだからー」
営業の席からシングルマザーの鈴木が叫ぶと、嘲笑と共に一瞬凍り付きかけた事務所の空気の温度が戻った。
「本当にすみませんでした」
もう一度頭を下げると、柳原は微笑んだ。
「これ、やるよ」
何かがデスクにコロンと置かれる。
老舗駄菓子メーカーのミルクキャラメルだった。
初めからこのミスが愛のものだとわかり、叱責するつもりで帰ってきた。
そしてその後フォローもするつもりでこれも買ってきた。
その優しさと大人の対応に、心底自分が情けなくなる。
「ありがとうございます」
掠れる声で言うと、愛は俯いたまま立ち上がり、レストルームへ歩きだした。
背後からみんなの優しい談笑の声が響いてくる。
ミスをフォローしてもらった上に、こんなに気を使わせて。
死んじゃえばいいのはーーーー。
私だ。