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ジョボボボボボ………
蛇口からお湯が流れる。
熱いのと冷たいのと、迷ったが、ぬるま湯でいくことにした。一番やりやすいのは、プールくらいの温度である気がした。
とっくに電源を切っているのに、手にはスマートフォンが握られている。
寒河江からの連絡を待っているわけではない。
さすがにわかる。
彼からはもう、二度と連絡は来ない。
職場からの連絡が来るのを恐れて切ったのだ。
昼休憩の1時間。「外出します」と奈緒子に断った。
「了解」
そう言った彼女は、どんな顔をしていたかわからない。
でも愛は、ハンドバックを持って、タイムカードを押した。
ジーーーーー ガシャッ。
二度と聞かないであろうその音を耳に焼きつける。
「一応、焼き肉ランチ、予約しといた」
「混まないって。高いから」
「げ。高いの?」
愛の脇を吉野と小口が和気あいあいと追い抜かしていく。
「川橋保健センターの相談員は及川さんって人だから。名刺交換したことあるか?」
「はい。以前に」
「新型車イスのプレゼンは2時から。お前の車表に回せ。軽く飯食ってから行くぞ」
「わかりました」
階段から降りてきた柳原と鈴木が、忙しなく事務所を出ていく。
愛は。
一人だ。
ジョボボボボボ………
音が変わった。
溜まってきたお湯のせいで蛇口から落ちる湯の着水の音が高くなってきた。
もう少しだ。
もう少しで溜まる。
この前、つけっぱなしだったケーブルテレビのアニメチャンネルで、自分の涙でおぼれて死ぬウサギの話をやっていた。
首を吊るより。
薬を飲むより。
手首を切るより。
ビルから飛び降りるより。
涙におぼれて死ぬのが、
自分には合っていると思った。
一瞬、服を脱ぎかけて思わず吹き出す。
お風呂に入るのではないのだ。
いや、湯船には漬かるけど。
見つかったときに、裸なんてかっこ悪い。
でも。
それでもストッキングくらいは脱ぐことにした。
50デニールの着圧ストッキングを脱ぐと、股のあたりがスカスカとこそばゆいような感じがした。
満タンに溜まったぬるま湯を確認してから、蛇口を閉めた。
足先から中に入る。
膝まではいつもと同じ感覚なのに、そこから制服が濡れて張り付いて、重く水を吸って、なんかへんな感じだ。
そのまま少しずつ沈んでいく。
股、腰、お腹。
結構冷たかった。内臓が冷えていく。
もう少し温かくすればよかったな。思いながらさらに沈めていく。
胸、鎖骨、肩。
首から上だけを出して、風呂内を見回す。
死ねるかな。
失敗するかな。
どっちにしろ。
一度、こうすることが、私には必要だ。
姉の子供は2歳になる。
女の子で、姉に似ていて、ものすごく可愛い。
姉が姪っ子を愛で育てるのを身近で見てきた。
夜泣きも人見知りも、一緒に乗り越えるのを、そばで見てきた。
寝返りも、ハイハイも、立ち上がるのも、人生初の一歩も。抱き合って喜んできた。
寒河江の子供も、そんな瞬間がきっとあったはずだ。
そのたびに彼はは抱き合ってきた。彼の妻と。
目をつむる。
最後に寒河江に言われた言葉が胸を突き刺す。
『他人の子供の死を望む君に、子供を産む資格はない』
そう。
そうだよね。
そう思うよ。
その言葉に、今更ながら同意する。
心の底から同意する。
だから。
もし間違ってそうならないように。
終わらせるんだ。
大きく息を吸う。
先ほど、蛇口の上に座らせたテディベアがこちらを優しく見ている。
それに向かって微笑んでから、愛は尻を前に滑らせ、頭の先まで湯の中に身を沈めた。
頭が痛い。
見開いた目からコンタクトが外れ、排水口の蓋がぼやけて見える。
手足は必死に生きようとバタついたが、愛は意地でも這い上がってたまるかと、水面に留まっていた。
と今まで感じたことのないような頭痛が後頭部を襲った。
(あ。これでやっと終わ――――)
ザバッと急激に音が戻った鼓膜に、湯がゆれ、洗い場に溢れる激しい音が響いた。
ぼやけた視界に、昼の日差しを浴びたバスルームが浮かび上がる。
後頭部が痛い。
というより、髪の毛の付け根が痛い。
驚いて触ると、そこには細い腕があった。
誰かが愛の髪の毛を鷲掴みに引き上げていた。
驚いて振り返った瞬間、左頬に焼けるような痛みが襲ってきた。
思い切り頬を張られたのだ。
他人よりとがった犬歯が、内頬を傷つけ、血の味がする。
ジンジンと痺れるように、頬が痛くて重い。
もう一度見上げると、愛の髪の毛を鷲掴みにしたままの人物は叫んだ。
「———あんた!!どこまで馬鹿なの?!」
目の前には、怒りで顔を真っ赤にした、門脇奈緒子がいた。