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第二話 与える者の手
湯気の匂いが、まだ廊下に残っていた。
扉の前に立つ侍女が、控えめに告げる。
「お嬢様、お連れいたしました」
「お入りなさい」
静かな許しの声。
扉が開き、暖かな室内の空気が廊下へ流れ出る。
その境目に立っていたのが、彼だった。
洗われたばかりの髪はまだ湿り気を帯び、
粗いが清潔な麻の衣が体にぎこちなく馴染んでいる。
旅の汚れは落とされた。
だが皮膚に刻まれた古い擦り傷や、寒さに晒されてきた白い肌までは消えていない。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の前まで歩み寄った。
「……見違えたわ」
思わずこぼれた言葉に、侍女たちが小さく微笑む。
顔立ちは整っている。
鼻筋はまっすぐで、まつ毛は淡く、灰色の瞳は澄んでいる。
夜空のような艶のある髪。前髪をある程度の割合できっちり、しかしどこかゆったりと分けている。
荒野に埋もれていた石を磨けば、宝石の形が現れるように。
「やはり、人は整えれば美しくなるのです」
彼は何も答えない。
視線は床の模様の上に落ちたままだった。
「もう下がってよろしいわ」
侍女たちが去り、部屋に静けさが戻る。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
「名前は?」
問いかけても返事はない。
言葉が分からないのか、
それとも答える気がないのか。
少し考えて、私は首を傾げる。
「そのままでは呼びにくいですね」
窓辺に視線を向ける。
山の稜線が白く光っている。
「ウラシェル」
口に出してみると、柔らかく、澄んだ響きだった。
「あなたは今日から、ウラシェル。そう呼ぶことにしましょう」
祝福のように微笑みかける。
彼はゆっくりと顔を上げた。
けれど、その名を受け取ったような表情はしなかった。
ただ、音を聞いただけの顔。
「大丈夫。すぐに慣れるでしょう」
私はそう結論づけた。
机の上に羊皮紙を広げる。
インク壺の蓋を開け、羽ペンを差し出す。
「こちらへ」
ウラシェルはぎこちなく近づき、椅子に腰かける。
座るという行為そのものが、どこか落ち着かない様子だった。
「お勉強しましょう」
祈祷書を開く。
ラテン語の黒い文字列が整然と並ぶ。
「これは“神の言葉”。読めるようになれば、あなたも正しい道を知ることができます」
彼の手を取り、ペンを握らせる。
冷たい。驚くほど。
「力を抜いて。こうして持つの」
指を添えて動かす。
インクが紙に滲み、かすれた線が生まれる。
ウラシェルの呼吸が浅くなる。
だが手は引かない。
「A」
ゆっくりと書いてみせる。
「あなたも」
彼は真似ようとする。
線は歪み、震え、途中で止まる。
「そう、いいのよ。最初は誰でも難しいのです」
私は微笑む。
彼は何も言わない。
ただ、もう一度ペンを動かそうとする。
インクが指に滲む。
黒い染みが皮膚に広がる。
「慌てなくていいわ。時間はたくさんあるのだから」
窓の外で風が鳴る。
静かな午後が、ゆっくりと部屋を満たしていく。
文字をなぞるたび、
彼の肩は少しずつ強張っていった。
けれど私は、それを緊張だと思った。
新しい環境に怯えているだけ。
優しさにまだ慣れていないだけ。
ふと、彼の視線が横へ逸れる。
部屋の隅。
小さな台座の上。
布に包まれた、干からびた手。
指の形を保ったまま、蝋のように固まっている。
「ああ」
私は穏やかに笑った。
「気になるのですか?」
立ち上がり、その傍へ歩く。
「栄光の手というのです。わが家に伝わる、大切な品なの」
誇らしく言う。
「怖がらなくていいわ。これは力の象徴。守りの印でもあるのだから」
ウラシェルは何も言わない。
だがその灰色の瞳は、しばらくそこから離れなかった。
意味は分からないはずなのに。
ただ、温度のない何かを見つめるように。
「さあ、続けましょう」
私は机へ戻り、再び彼の手を取る。
生きている手。
冷たく、細く、まだ強張っている。
「あなたもすぐ慣れるわ」
窓の外では、雲がゆっくりと流れていた。
彼の沈黙は、従順の証なのだと
そのときの私は疑いもしなかった。
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