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第三話 神の御前にて正しさを
目が覚めたとき、最初に感じたのは静けさだった。
いつもなら、隣室からかすかに物音がする。
侍女が動く気配だ。
しかし。
いない。
昨夜までは居た、
ウラシェルが。
寝台から体を起こし、ベルを鳴らす。
入ってきた侍女に、何気ない調子で尋ねる。
「ウラシェルは、もう起きているのかしら」
侍女は首を傾げ、それから困ったように答えた。
「それが……お部屋にお姿がなく」
胸の奥が、わずかに冷える。
「鍵は?」
「……開いておりました」
静かに息を吸う。
逃げた。
その言葉が、頭の中に浮かんでしまう。
ありえないとは言い切れない。
ウラシェルはまだここに慣れていないし、怯えてもいる。
けれど。
「……館の中を探しましょう」
声が少しだけ硬くなったのを、私でも分かった。
廊下。
庭。
裏口。
物置。
どこにもいない。
侍女たちは不安そうに視線を交わしている。
誰も口にはしないが、空気が重い。
脱走
嫌な二文字が、何度も頭をよぎる。
せっかく助けてあげたのに。
暖かい部屋も、食事も、学びの機会も与えたのに。
どうして。
最後に向かったのは、礼拝堂だった。
半ば習慣のような足取りで扉を開く。
朝の光が、色硝子を通して床に落ちている。
冷たい空気。静寂。
そして──
祭壇の前に、ひとり跪く影。
薄い背中。整えたばかりの髪。
ウラシェル。
彼は両手を組み、うつむいたまま、低く声を漏らしていた。
「どうか。神のご慈悲を──」
私は瞬きをする。
あら。
「あなた、喋れたのですね」
声をかけると、彼の肩がびくりと揺れた。
振り返る。灰色の目が揺れる。
「……おはよう、ございます」
ぎこちない。
けれど確かに、こちらの言葉で挨拶をした。
初めて聞く、彼の声。
思っていたより低くて、少し掠れている。
「目を見て話しましょう」
近づき、両手で彼の頬をそっと包む。
逃げられないようにではない。癖のようなものだ。
視線を合わせる。
冷たい灰色。
けれどそこに、今は明確な意思が宿っている。
「勝手にお部屋を出てはいけませんよ。心配したのですから」
責める調子にならないよう、声を柔らかくする。
「礼拝堂に来たかったのですね?」
彼は少し迷い、それから小さく頷いた。
その仕草に、胸の奥がほぐれる。
やっぱり、この子は正しい方へ進もうとしている。
「名前を、まだお聞きしていませんが……」
彼の言葉に、私は目を瞬かせた。
あら、本当だ。
与えることばかり考えて、
私の名を名乗るのを忘れていたなんて。
「私はアディポセラ。アディポセラ・ド・シャンベリーです」
スカートを軽く摘み、微笑む。
彼は視線を落とし、小さく言った。
「アディポセラ、様」
その響きに、胸が満たされる。
正しく呼ばれた。
正しい関係で。
「ええ。よくできました」
朝食の席。
彼は驚くほどの勢いで主食にかぶりついていた。
パンを握る指に遠慮がない。
スープも一気に飲み干す。
まるで、奪われる前に食べきろうとしているみたい。
「ゆっくりで大丈夫です」
そう言いながら、野菜の皿を彼の前に置く。
「お野菜を食べましょう」
彼は皿を見つめ、それから少しだけ顔をしかめた。
けれど逆らわない。
黙って口に運ぶ。
その様子が、どこか幼い。
食後、鏡の前で髪を整える。
黒いリボンを手に取りながら、何気なく尋ねる。
「礼拝堂で、何を祈っていたのですか?」
鏡越しに見ると、彼の肩がわずかに強張った。
「……別に」
短い返事。
「神様にお願いごとでしょう?
ここでは、もう寒さに震えることもありませんし、悪いことも起きません」
彼は黙る。
灰色の目が、床に落ちる。
「……忘れました」
はぐらかしている、と分かる。
けれど私はそれ以上追及しなかった。
まだ言えないだけ。
そのうち、きっと心を開く。
正しい言葉を覚えれば。
正しい祈りを知れば。
彼はきっと、自分から話してくれる。
そう信じることに、何の疑いもなかった。
窓の外で、朝の光が白く広がっている。
新しい一日。
正しく導くための、また新しい時間。
私は微笑んだ。
彼の沈黙の意味には、気づかないまま。