テラーノベル
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昨夜の嵐が嘘のように、日曜日の街には穏やかな陽光が降り注いでいた。
落雷の恐怖から「先祖返り」を起こし、一時的に猫の姿へ戻ってしまった白と黒。二人の沈んだ気分を晴らすためにも、俺は少し遠くにある、広大な芝生が自慢の海浜公園までドライブすることにした。
「わあ、見てご主人様! キラキラしてる! 全部アタシたちの遊び場かな!?」
「⋯⋯ん。⋯⋯潮の匂い。⋯⋯お日様が、⋯⋯波で跳ねてる。綺麗」
車を降りた瞬間、白は眩しいほどの笑顔で波打ち際を指差し、黒は俺の腕に細い指をそっと絡めて、落ち着きを取り戻したように目を細めた。
人間の姿での外出にもだいぶ慣れ、周囲の家族連れやカップルの中にあっても、彼女たちは少しばかり美貌が目立つ程度の「普通の少女」として馴染んでいるように見えた。
だが、俺の心の片隅には、昨夜彼女たちが怯えながら漏らした「戻りたくない」「一人になりたくない」という言葉が、溶けない氷のように居座っていた。
彼女たちの過去を、俺は知らない。どこで生まれ、どうしてあの雨の夜に段ボール箱に入れられていたのか。ただの捨て猫にしては、人の言葉を解し、こうして人の姿を取ること自体が、生物学的な常識を遥かに逸脱している。
広場のベンチに腰を下ろし、買ってきたばかりのアイスを三人で食べていた、その時だった。
「⋯⋯ッ」
俺の隣で、黒が小さく肩を震わせ、喉の奥で押し殺したような唸り声を上げた。
「……黒? どうした、溶ける前に食べろよ」
「⋯⋯ご主人様。⋯⋯なんか、変。⋯⋯喉の奥が、⋯⋯ザワザワして、気持ち悪い」
彼女はアイスを握ったまま、公園の入り口付近をじっと凝視していた。その瞳は細く絞られ、まるで獲物を狙う、あるいは天敵を察知した獣のような鋭さを帯びている。
「え、なに? 黒がそんなこと言うなんて珍しくない? アタシは全然……」
言いかけた白も、ふと鼻をひくつかせ、動きを止めた。
「……待って。なんか、アタシも変な感じがする。これ、潮の匂いじゃない。もっと、こう……鉄とか、消毒液みたいな、ツンとした嫌な匂い。どっからしてるの、これ?」
二人の異常な警戒心に、俺はさりげなく周囲を観察した。
楽しげに犬と走る子供たち、写真撮影に興じる若者たち。その平和な風景の中に、明らかに質の異なる「影」が混じっていた。
公園の遊歩道の各所に、黒いスーツを纏った男たちが数人、等間隔で立っていた。彼らは海を見るわけでも、会話を楽しむわけでもなく、ただ無機質な視線をこちらへと向けている。
いや、正確には俺ではなく、俺の隣で不安げに身を寄せ合う「二人」を、値踏みするように、あるいは「発見」したことを確認するように見つめていた。
その中の一人と目が合った瞬間、俺の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
男の瞳には、人間を対象に見る時のような情緒が一切ない。それは、逃げ出した実験動物や、紛失した精密機器を探し当てた時の、冷徹な「観測者」の目だった。
(……あいつら、一体何者だ?)
俺は二人の肩を抱き寄せ、立ち上がった。
「……帰るぞ。二人とも、俺の側を絶対離れるな」
冗談を言う余裕すらなくなった俺の気配を察してか、二人は何も聞かずに頷いた。俺たちは足早に駐車場へと向かったが、背後から複数の足音が、一定の距離を保ちながらピタリとついてくるのが分かった。
駐車場に辿り着き、二人を車に押し込んでドアをロックした時、俺は異様な光景を目にした。
俺の車のフロントガラスに、一枚の紙が、吸い付くように貼り付けられていたのだ。
ワイパーに挟まれているのではない。まるで、あらかじめ用意されていたかのように。
俺は周囲を警戒しながらその紙を剥ぎ取り、車内に飛び込んだ。
そこには、文字は一切なかった。
ただ、複雑な幾何学模様の中に「09」と「10」という数字が刻まれた、特殊な紋章のようなロゴが印字されているだけだった。
だが、そのロゴを見た瞬間、後部座席の二人が、今まで聞いたこともないような悲痛な声を上げた。
「……っ、頭が……痛い、……やだ、これ、見たくない!」
「⋯⋯う、うぅ⋯⋯。⋯⋯暗い、箱の⋯⋯匂い。⋯⋯ご主人様、⋯⋯これ、こわい⋯⋯!」
白は頭を抱えて座席にうずくまり、黒は耳を塞いで激しく震え始めた。記憶そのものは失われているはずなのに、そのロゴという「視覚情報」が、彼女たちの細胞の奥深くに眠る、言葉にできない恐怖を呼び覚ましているようだった。
「……クソッ、一体何なんだよ!」
俺はロゴの紙をダッシュボードに叩きつけ、アクセルを踏み込んだ。
バックミラーを見ると、先ほどのスーツの男たちが、一台の黒塗りのセダンに乗り込み、音もなく追跡を開始するのが見えた。
俺が拾った二匹は、単なる猫ではない。
そして、この美しくも儚い変身は、自然の摂理などではない。
彼女たちの身体に何が起きているのか。あの「09」と「10」という数字は何を意味しているのか。
何も知らないまま、俺はただ、愛する彼女たちを守るために、見えない巨大な闇から逃げるように車を走らせるしかなかった。
「大丈夫だ。……俺が、絶対に守ってやる」
震え続ける二人の手を、俺は運転しながら片手で必死に握りしめた。
平穏だった日常のすぐ裏側に、世間に決して知られてはならない「極秘の真実」が、どす黒い口を開けて待ち構えていた。
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