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ほうほうの体でマンションへ逃げ帰り、幾重にも鍵をかけた。外は再び雲が垂れ込め、窓を叩く雨音がリビングの静寂を際立たせている。
ソファに力なく沈み込んだ二人は、先ほどまでのパニックが嘘のように静まり返っていた。だが、それは安らぎではない。ダムが決壊するように、堰き止められていた記憶が、音もなく彼女たちの脳内に流れ込んでいるのだ。
「……あ、れ」
最初に声を漏らしたのは、白だった。膝を抱え、虚空を見つめる彼女の瞳から、大粒の涙がポロリとこぼれ落ちる。
「ご主人様、アタシ……思い出した。あの公園で嗅いだ匂い、知ってる。あれ、お花とかの匂いじゃない。……ずっと、あの白い部屋に満ちてた、嫌な薬の匂いだ」
彼女の脳裏に、真っ白な無機質の光景が、現像される写真のようにゆっくりと浮かび上がっていた。
「アタシたち、元々は……ただの猫だったんだよね。黒と一緒に、路地裏にいた、どこにでもいる猫。……でも、ある日突然、知らない人たちに捕まって……」
「⋯⋯そう。⋯⋯気づいたら、ガラスの箱の中にいた」
黒が、感情を失ったような平坦な声で言葉を引き継ぐ。彼女の手は、いまだに止まらない震えを隠すように、自分の肩を強く抱きしめていた。
「⋯⋯毎日、首筋に針を刺されて、⋯⋯変な液体が、身体に入ってくるの。⋯⋯すごく痛くて、⋯⋯叫びたくても、声が出なくて。⋯⋯でも、ある時から、⋯⋯アタシたちの手が、⋯⋯人間の指に、変わっていったんだ」
俺は、その言葉のひとつひとつが心臓を素手で握りつぶされるような痛みとともに響くのを感じていた。彼女たちは、最初からこの美しい少女の姿をしていたわけではない。人間の飽くなき欲望……動物を変異させる「極秘の劇薬」を投与された、実験の産物だったのだ。
「⋯⋯『09』。⋯⋯『10』。⋯⋯それが、アタシたちの名前だった。⋯⋯あの人たちは、⋯⋯アタシたちが喋れるようになると、⋯⋯すごく喜んでた。⋯⋯でも、それは⋯⋯可愛がってるからじゃない。⋯⋯実験が『成功した』って、⋯⋯数字を見て笑ってただけ」
黒の告白は、あまりにも残酷だった。彼女たちが失っていた記憶は、忘れたかったのではない。あまりの恐怖に心が防衛本能として封印していたものだったのだ。
「アタシね、ご主人様に拾われたとき、本当に嬉しかったんだよ」
白が、濡れた顔で俺を見つめて微笑んだ。その笑顔は、いつもの天真爛漫なものとは違い、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。
「あそこから逃げ出して、もう死んじゃうのかなって思ってた。だから、ご主人様が抱きしめてくれたとき、本当に幸せだったの。……いつか捕まるかもしれない。でも、それまでは世界で一番明るい女の子でいようって決めたんだ。そうしてないと、あんな怖いこと、すぐに思い出しちゃうから」
白のあの眩しいほどの明るさは、地獄を知る者が、束の間の自由を必死に守ろうとする祈りそのものだった。
「……お前たちは俺の家族だ。誰が何を言おうと、お前たちはもう、『数字』なんかじゃない」
俺は二人を力強く抱きしめた。二人の体温を感じながら、俺は心に決めた。何があっても、この日常を守り抜くと。
だが、その決意をあざ笑うかのように、現実は残酷に動く。
極度の緊張と記憶の逆流で消耗したのか、二人はそのまま泥のように眠り込んでしまった。青白い顔で眠る二人を見て、俺は「このままではいけない」と痛感した。彼女たちの身体に何が起きているのか、情報を得なければ守れるものも守れない。
深夜、俺は悩んだ末に、かつての知人で裏の情報に精通している男に連絡を取った。
「……今すぐ直接会って話したい。一時間だけでいい、場所を空けてくれ」
眠る二人の寝顔を確認し、玄関の鍵を厳重にかけ、俺は家を飛び出した。
「すぐに戻る。……大丈夫、一時間だけだ」
その判断が、取り返しのつかない過ちになるとも知らずに。
雨が激しさを増す中、俺が家を離れてからわずか数分後。
マンションの廊下を、足音を殺した影たちが静かに、しかし確実に俺の部屋へと向かっていた。扉の前に立つ男の手には、この部屋のスマートロックを無力化する電子キーが握られていた。
静寂を切り裂く、電子的な解錠音。
眠りの中、白は不意に鼻をひくつかせた。
「……ん、……ご主人、さま……?」
返ってこない返事。漂ってくるのは、先ほど思い出したばかりの、あの「白い部屋」の死のような匂い。
目を開けた白の視界に飛び込んできたのは、漆黒のタクティカルウェアに身を包んだ、仮面の男たちだった。
「標的、09および10。確保を開始する」
「やだ……やだっ!!」
白の悲鳴が夜の闇に響く。隣で飛び起きた黒が、猫特有の鋭い動きで男たちに立ち向かおうとするが、放たれた電磁スタンガンの火花が彼女の小さな身体を容赦なく撃ち抜いた。
「⋯⋯あ、ぁ⋯⋯!」
「黒! ……離して! ご主人様、助けて、ご主人様!!」
抵抗も虚しく、二人の身体は冷たい拘束具に固定され、黒い布を被せられる。
主人公が必死に情報の断片を追っているその裏で、彼女たちが最も恐れていた地獄への門が、音もなく開かれていた。