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 人生の大きな節目となるアビトゥーアも無事に終わり、ギムナジウムの卒業式を終えた生徒やそんな生徒達を今まで熱心に指導し、大学への入学証明試験にもなるアビトゥーアに合格させた教師や保護者達が着飾って談笑し、アルコールも入っている為に彼方此方で賑やかな声が挙がるホールの片隅で、その賑やかさに相応しくない顔で壁に凭れてビールを飲んでいる少年が一人、眼鏡の下の碧の瞳を冷たく無関心に光らせながら目の前で踊り騒ぐ人々を見つめていた。

 他の同級生達は友人達と学生生活の話題で盛り上がっているが、彼だけは一人静かに壁際にいて、保護者も教師も誰も周りにはいなかった。

 白とも銀ともつかない特徴のある髪と銀縁眼鏡の彼の印象を同級生達に聞けば、誰もが口を揃えて一人が好きな寂しい奴と答えるだろうが、彼自身は好きに言っていろと同年代の少年少女と比べれば遙かに大人びた表情で笑い飛ばして意に介することはなかった。

 自分は同年代の少年少女達とは頭の出来が違うことや、父がドイツ国内でも有数の企業を一代で築き上げた立身出世の人物であることを鼻に掛けるような人柄ならば間違いなく仲間内からも嫌われていただろうが、彼の信条はそんな思いとは真逆の所にあった為、不思議と同級生達から嫌われることは無かった。

 ただ、一人でいる事が好きなのだから彼の意思を尊重しようという雰囲気が何故か出来上がっていたのだ。

 だから人生の節目である卒業式を終えて弾けたようなパーティの席でさえも、彼はただ一人で静かに目の前の喧騒をぼんやりと見ていたのだ。

 そんな彼だったが、中には積極的に話しかけて友達と呼べる関係になっている少年達もいて、その中の一人が壁際に佇む彼に向け大股にホールを横切ってやってくる。

 長身でにんじん色とからかわれている髪を丁寧に撫で付け、シャンパングラスを両手に持ってやってきたのは、ギムナジウムでの一番の友人でありクラスの中でも一際目立っている少年だった。

 腕を組んでグラスを傾けていた彼の横に同じように壁に背中を預けて寄り掛かり、シャンパングラスを彼の前にそっと差し出すと、真意を確かめるように見つめられて無言で肩を竦める。

 『シャンパンは嫌いだったっけ?』

 『・・・嫌いじゃない』

 『じゃあ飲めよ。先生が開けたドンペリだぜ』

 名前だけは耳にしたことのある高級シャンパンだと笑い、グラスを彼の鼻先に押しつけた少年は、趣味の山登りのせいですっかり日焼けしている顔に大人の笑みを浮かべて片目を閉じると、彼が小さな溜息を零しながらグラスを受け取る。

 『────あ、そうだ。思い出した』

 『なんだ?』

 グラスの中の薄い琥珀の海から立ち上る小さな気泡を見つめ、名前は有名だがこのシャンパンよりも姉が卒業の前祝いとして招待してくれた時に飲んだスパークリングワインの方が美味しいと呟いた彼が友人の声に顔を上げて首を傾げれば、今度は年季の入った小箱が差し出されていて、眼鏡の下で瞬きを繰り返す。

 『これ』

 『・・・・・・?』

 彼の訝る視線に照れたような笑みを浮かべた少年が肩を竦め、手にしていたシャンパングラスを傾けて飲み干すと足下にグラスを置いて彼の横顔をじっと見つめる。

 『卒業記念に持っててくれよ』

 『・・・・・・・・・』

 他の同級生達が仲の良い友人達と互いに卒業記念だと笑って何やら渡しているのを目にしたが、同じ大学に進めばこの先も顔を合わせる事があるのに何故たかだかギムナジウムの卒業ぐらいで永遠の別れのように騒ぐのだろうと、あの日以来凍り付いたままの心で考えて理解出来ないと冷たく笑ったことを思い出しながら友人の顔を見れば、やけに真剣な顔で見下ろされていることに気付いて冷たい心を少しだけ押し殺す。

 同じクラスの中でも一人でいる事が多かった彼だが、この長身で赤毛の友人だけは別で、何をするにしても一緒に行動することが多かったのだ。

 その為に無碍に断ることが出来ずにその小箱を受け取ると、アビトゥーアに合格した時以上に嬉しいと言いたげな気配が伝わってきて、驚きに軽く目を瞠ればもう一度肩を竦めた友人が大きく伸びをして満足そうに溜息を一つ零す。

 掌に載るほどの小さな木箱は外見からはまるで救急箱を連想させるような質素なもので、上下左右とひっくり返しながら見つめた彼は、箱の割には大きな鍵穴があることに気付いて蓋を開けようとするが、鍵が掛かっているらしくてガチャガチャと音を立てるだけで蓋が開くことはなかった。

 蓋の開かない箱を持っていてくれと言われた事への困惑に珍しく表情を変えた彼は、どうすれば良いんだと問いた気に友人を見つめるが、友人の切れ長の双眸には悪戯を思いついた時の色が浮かんでいてつい警戒心を抱いてしまう。

 『箱の鍵はどうしたんだ?』

 『その箱は天国への扉なんだ。だからその鍵は天国への鍵だな』

 『・・・・・・・・・不吉なことを言うな』

 天国への鍵と言う事はつまり命を落とすことだろうと、瞬間的に表情と顔色を変えた彼が強い口調で友人を睨めば、悪かったと素直に謝罪をされてしまって口を閉ざす。

 『ふざけている訳じゃない。本当に天国への鍵なんだ』

 『意味の分からない事を言うな、イェニー』

 彼がついに友人の言葉に焦れて壁から背中を剥がして向き直り、碧の双眸に強い煌めきを湛えてイェニーと呼んだ友人を見つめれば、眩しそうに目を細めてそっと頷かれてしまい、開き掛けた口を閉ざしてしまう。

 『・・・・・・イェニー、本当に・・・不吉なことを言うな』

 ギムナジウムの入学時に始めて知り合い、それ以降何故か彼とともに行動することが多かった友人が告げた天国への鍵という言葉が脳味噌の中にこびりついてしまい、不吉な想像ばかりを思い起こさせてきた為、それを振り払うように頭を振って強い口調でもうそんな事を言うなと告げると、そんな彼の怒りをやり過ごすように肩を竦めた友人が話題を切り替えるように眉を上げて笑みを浮かべる。

 『悪かった。ああ、そうだ。大学の入学までに時間があるから山に行って来る』

 『今度は何処に行くんだ?』

 『俺もドンもあまり時間がないから、ユングフラウの辺りをハイキングだな』

 登山が趣味の友人は纏まった休みがあれば、母の弟で青年実業家であるドナルドとともにスイスだオーストリアだと登山に出掛けていたが、またスイスアルプスを代表する一つの山の麓に行く事を教えられて彼の表情が信じていてもそれでも心配と不安に曇る。

 『もう用意は出来ているのか?』

 『後は出掛けるだけだ』

 登山の為ならば敬愛する母親を心配させたり泣かせたりしてもそれを押し通す我の強さも持ち合わせている友人の言葉に小さく溜息を零した彼だが、周囲の視線がこちらに向いていないことを確かめると、間もなくハイキングに出掛ける友人が現地で楽しめるようにとの思いを込めて目元を弛めて小さな笑みを見せる。

 『気をつけて楽しんで来い、イェニー』

 『もちろん、楽しんでくるよ。また珍しい石があれば持って帰ってくるから、帰ってくればすぐに連絡をする』

 いくらハイキングコースで有名になっている道であってもアルプス山脈を仰ぎ見る道なのだ、登山をしない者にしてみれば想像も出来ないような出来事が起きる可能性もあった。

 だからその心配の思いから気をつけて楽しんで来いと伝えると、また心底嬉しそうな笑みを浮かべた友人が自信を覗かせた顔で大きく頷く。

 『行って来るな、ウーヴェ』

 『・・・・・・何だか落ち着かないな』

 友人のことを愛称ではない呼び方をすると同時に、自らのこともちゃんとファーストネームで呼んでくれと伝えていた彼だったが、ギムナジウム入学以降ずっと聞いていた呼ばれ方ではないそれに妙な居心地の悪さを感じてしまい、その思いを苦笑に混ぜ込んで伝えれば俺もそうだと頷かれてしまう。

 『俺も明日からはイェニーじゃない』

 『そうだな』

 愛称ではなくファーストネームで互いを呼び合うようにしようと決めたのはアビトゥーアに合格した夜だったが、やはりまだ慣れないと互いに苦笑し合いながらもそれでも決めごとは守ると言いたいのか、もう一度ファーストネームを呼び合ってウーヴェがそっと手を出す。

 その差し出された手をしっかりと握り、卒業以降の進路である大学でもよろしく頼むと告げられて素っ気ないがそれでも友人には理解出来る態度で頷く。

 『ああ』

 『そろそろパーティも終わりそうだな』

 友人の声に会場内を見渡せば、彼方此方で別れの挨拶をしていたり世話になった教師達に語りかける同級生やその両親の姿が見え、確かに終わりそうだと納得をしたウーヴェは、会場内の片付けについてのアナウンスが始まったことに気付き、友人の袖を軽く引いて注意を向けさせる。

 『その鍵はいつか渡す日が来るだろうけど、それまで持っていてくれよ、フェル』

 『・・・・・・分かった』

 友人の言葉を借りれば天国へ通じる扉の鍵でもある箱をもう一度矯めつ眇めつした彼は、足下に置いていたバッグに貴重品を扱う手付きで入れると、周囲から片付け始めた物音が響き渡る。

 友人と二人で片付けを始めた彼は、ぼんやりと天国への鍵が何を意味するのかを思案していたが、友人があのような表情で己を見つめてきたことを思い出し、当分の間この箱の鍵は手に入らないだろうと諦めの溜息を零して支度に取り掛かるのだった。


Über das glückliche Leben.

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