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季節が秋から冬に向けて動いていることを日が沈む時間の早さと朝晩の寒さから感じるようになったある日、一台のキャレラホワイトのスパイダーが郊外から市の中心部へ向かう幹線道路を走っていた。
その車の持ち主は白とも銀ともつかない髪とターコイズ色の双眸を持つ壮齢の男で、夕暮れ迫る世界を快適に走る為に掛けたサングラスを指先で軽く押し上げ、車の量が増えてきたことに気付いて減速していく。
彼の職業は精神科医で、同業者の中では若くして市内の一等地で開業しているが、今日はクリニックに出向く事が出来ない患者の為に往診に出掛けていたのだ。
その帰り道を少しだけ疲労の滲んだ顔でステアリングを握っていた彼は、助手席に置いたアタッシュケースの中から携帯の呼び出し音が流れていることに気付き、あと少しでクリニックに到着すると呟いて携帯をそのまま放置しておく。
クリニックの地下駐車場へと愛車を進める為に警備員に挨拶を送り、所定の場所にスパイダーを停めて車から降り立つとケースから携帯を取りだして着信履歴を見て軽く目を瞠る。
そこに表示されていたのは高校大学を通じて今でも付き合いのある友人の名前だったが、お互いが医師として忙しくしている為に最近ではあまり顔を合わせる事の少なくなったことを思い出しながらエレベーターに乗り込んでクリニックのあるフロアに上がり、廊下を進んだ先にある両開きのドアを開けると受付のデスクの前で長い髪を一つに纏めた女性が一礼を持って出迎えてくれる。
「往診お疲れ様でした、ドクター」
「フラウ・オルガもお疲れ様」
受付のデスクの前で一礼して疲れを労ってくれる女性に素っ気なく頷き、自分が不在の間の出来事を手短に報告を受けると、診察室のプレートが掲げられているドアを開けて中に入ろうとするが身体全体が入る直前に振り返り、今日の診察は総て終わっているので一緒にお茶にしようと疲れと安堵が入り交じった顔で告げれば、女性の顔にも微かに笑みが浮かんで頷いてキッチンスペースへと向かう。
デスクにケースを置いて携帯を操作して履歴からダイヤルをすれば、程なくして懐かしい友人の声が耳に流れ込んできた為、車の運転中だったことを伝えながらデスクの端に尻を乗せ窓の外を見つめて肘を掴む。
「久しぶりだな、オイゲン。どうしたんだ?」
『ああ、久しぶりだな。いや、さっきツェルマットから帰ってきたんだ』
聞こえてきた言葉に彼の目が軽く見開かれ、小さな苦笑とともにツェルマットとオウム返しに呟けば、叔父であるドンが久しぶりにマッターホルンに登りたいと言っていたんだと返されて苦笑を深める。
この友人とはギムナジウムで知り合ったのだが、その時からすでに登山を始めていて、最近では一人でもアルプスの山々に足跡を残すことが多くなっていた。
昔から山が好きだったことを思い出しながら仕事が忙しいのに良く休みを取れたなと感心の声を出せば、今度病院の副部長になることが決定したため今のうちに休みを取っておこうと思ったと返されて沈黙してしまう。
この、山が好きで年中山に登っていたいと夢見るように語る友人が勤務する病院は市内でも有数の病床数を誇る私立病院で、そんな大きな病院のまだまだ若手と呼ばれる彼が副部長に出世すると聞かされれば驚きと同時に危惧をも感じてしまい、つい沈黙してしまうと戯けたような声が祝ってくれないのかと問いかけてきた為、慌ててそんな事は無いと否定をし、副部長様だなと同じように戯けた口調で返して溜息をつく。
「オイゲンが副部長か・・・・・・狙いはやはり部長か?」
『部長になったら威張り散らしてやる』
「程ほどにしろよ」
『ははは。ああ、そうだ、また今度皆と集まるんだろう?』
「マンフリートが来られなくて悔しいから、リアとの場をセッティングしろとうるさいんだ」
『そう言えばそんな事を言っていたな。マウリッツから連絡が入っていたっけ』
以前彼が師事していた恩師が新たな赴任地に出向く事が決定し、その祝いの席に彼の助手であり仕事を離れれば友人でもあるリア・オルガとともに参加したことがあったが、その時に友人達の中でただ一人マンフリートだけが彼女と知己を得る機会が無くて悔しい思いをしていたことについて会う度に口を尖らせる為、いつか必ず食事なり何なりの場を設けることで宥め賺せていたのだが、どうやら彼だけではなく他の友人にもしつこく言っていたようで、別の友人が今電話で話している友人にも言っていたことを教えられて溜息を零す。
『それと、お前の恋人の話もしていたぞ』
「・・・・・・それは・・・」
『今度必ず連れてくると言っていたのを忘れたのか、ウーヴェ?』
思わず口籠もった彼に友人の底意地の悪い声がお前の恋人に会ってみたいと畳み掛けられて視線を左右に彷徨わせる彼の耳に小さなノックの音が聞こえ、リアがお茶の用意を運んできてくれたことに気を取られてしまい、今夜時間があるかと問われてもつい上の空になってしまう。
『ウーヴェ?』
「ああ、いや、何処かで食事にするか?」
『そうだな。じゃあ7時頃にいつもの店はどうだ?』
「分かった」
急遽決まった友人との食事会だが、恋人からの連絡が今日はまだ入っていないことを思い出し、この通話が終わればメールをしておこうと決めて後での再会を約束して通話を終える。
「リア」
「何かしら?」
「前に話していた友人達との食事だが、参加できそうか?」
「ええ、大丈夫よ」
お茶の用意をテーブルに置いて笑顔を振り向けてくる彼女に目を細め、今も忙しく働いているだろう恋人に今夜の予定を手短に伝えた彼は、肩を一つぐるりと回しながらお気に入りのチェアに腰掛けて疲れの滲んだ溜息を零す。
「お疲れ様」
「今日は何か疲れたよ」
そんな疲れを取ってくれるものを用意したことを笑顔で伝えながら、リンゴがふんだんに使われたケーキと紅茶をそっと差し出してくれるリアに感謝の言葉を伝えた彼、ウーヴェは、一口食べて本当に疲れが取れると笑った後は無口でただ食べる事に集中してしまう。
「ねえ、ウーヴェ」
「うん?」
今日は本当に疲れているのか、ウーヴェが珍しくがっつくようにケーキを食べている姿に軽い驚きを感じていたリアだったが、一つ咳払いをしてお友達とは仲が良いのねと白い歯を見せれば、今度はウーヴェが咳払いをして肩を竦める。
「そうだな・・・大学で知り合った時から仲が良かったな」
「みんな同じ大学の出身なの?」
「オイゲンだけがギムナジウムからで、他の面々は大学で知り合って仲良くなったかな」
「ギムナジウム出身だったの、ウーヴェ?」
てっきりあなたの事だからシュタイナー学校を卒業していたのかと思ったと、心底驚いた顔でリアに問われて目を伏せたウーヴェは、最初はシュタイナー学校に通っていたが事件後にギムナジウムに転校したことを告げると、リアが口元に手を宛がって息を飲む。
「転校したギムナジウムでオイゲンと出会って、それなりに楽しかったよ」
「・・・そう、なの」
「オイゲンは出会った頃からすでに山登りばかりをしていて・・・今もマッターホルンに登ってきたと言っていたな」
「あの赤毛の長身の彼、登山が好きなの?」
「そうなんだ。今度副部長になるのだから山も控えめにしろと言われるだろうな」
せっかくの趣味だが副部長という肩書きを手に入れれば仕事も必然的に増えてくる。それを思えば登山にばかりかまけていられないだろうと予測を述べたウーヴェだったが、いくら妻が経営者の一人娘だからといって、ここまであからさまに身内を引き立てるような人事は友人の病院内での立場を危うくし、自ら敵を作ることになるのではないかと、人の心の機微を読む術をそれなりに備えている筈の友人の身辺を危ぶむ思いを口にすると、リアも同意を示すように頷いて経営者の娘婿とぽつりと呟く。
「人に言われれば腹が立つが、俺たちはまだ若い。実力があってもまだ副部長は早すぎるようにも思える」
大病院特有の人間関係の頂点へとのし上がっていくことに意義を見いだせる人間ならばいざ知らず、友人の人となりを思えばいくら経営者の娘婿と言ってもあまりにも早すぎる副部長の座に上り詰めれば、口さがない人々から何を言われるか分かったものではないし、付き合いだ何だのと忙しくなって患者と向き合う時間が減るだろう。
医者になると決めて恩師の背中を仰ぎつつ勉強し、医師として立派に開業した時に密かに決めたのは、患者と向き合う時間を医師同士の人間関係から来る煩雑なものに奪われることだけは避けたいとの思いで、それを実践している自分には出来ない事だと肩を竦めたウーヴェは、若手だといいながらもそれでもそれなりの実績を積んで各々が勤務する病院で地歩を固めている友人の顔を思い描きながら紅茶に口を付ける。
「それに見合っただけの実力があったとしても、人の思いはどうすることも出来ないからな」
「人が増えれば増えるほど問題も多くなるものね」
「その通りだな。だからそんな人間関係のストレスを忘れたいからか、皆で集まればうるさくて仕方がない」
「そうね。この間も本当に賑やかだったわね」
ウーヴェの恩師のパーティで初めて紹介され、その後の食事会にも一緒に参加したリアだったが、当日のことを思い出してつい肩を揺らして笑ってしまえば、仲間達と集まったときの様子を思い出したウーヴェがうんざりしたような、それでも何処か楽しげな表情で目を細める。
「うるさかっただろう?」
「私の同級生達もそうだけど、男の人って幾つになっても学生の頃と同じなのかしら」
あなたと同じ年の人とは思えない程賑やかで、ベルトランが驚いて何度もテーブルを覗きに来るほど騒々しかったとも伝えれば、本当に仕方がないと言いたげに溜息を零して前髪を掻き上げる。
「でも一緒にいれば楽しいな」
「あなたも楽しそうだったし、私も楽しめたわ」
あなたの恋人と一緒にいる時とはまた違う顔が見られて良かったと笑う彼女だったが、その言葉を聞いた彼の顔が曇ったことに気付いて柳眉を寄せる。
「どうしたの?」
「今度はリオンも一緒に顔を出すつもりだが・・・少しだけ不安だな」
自分の友人達は人を外見で判断するような事は無いし、また人を見る目はしっかりとしている筈だからリオンの職業や人となりに対しては不快感を抱く事などないだろうが、彼らはウーヴェのまだ見ぬ恋人は女性だと思っているはずで、当日連れて行った時にお互いが不愉快に感じる言動を取らないとも限らなかった。
大学の頃から一緒にいることが多い友人連中だが、さすがに同性の恋人を紹介したことはなく、彼らがどんな反応をするのかの予想が立てられない不安が先立つが、その反面、大学から今まで続く友人達だからこそ理解してくれるという思いもあり、複雑に絡まった思いがウーヴェの心の振り子を左右に揺らしてしまう。
「あなたのお友達だから、驚いたとしてもそんな差別はしないと思うけど・・・」
「俺もそう思っている。────まだ雨も降っていないのに濡れた後の心配をしても仕方がないか」
「ええ、そうね」
己の今の言葉が取り越し苦労であってくれと願いつつ肩を竦め、紅茶を飲み干して一日の疲れを取ってくれるケーキを用意してくれたリアに感謝の言葉を伝えたウーヴェは、今日はこのまま片付けを終えればクリニックを閉めようと告げて毎日の恒例になっている労いの言葉を掛け合うと、恋人からのメールが届いた音に気付いて携帯を手に取り、友人との食事が終わる頃に連絡をくれという一文を見つめて苦笑する。
一足先にこれから食事をするオイゲンに引き合わせても良いとは思っていたが、久しぶりに山の話を聞かせて貰えることを楽しみに感じている己に気付き、リオンには悪いと思いながらも帰る前に連絡をするという短いメールを送り返し、一度自宅に戻ってから出掛けることに決めてクリニックを後にするのだった。