28
『桃美~、今度の仕事は心情的に今の私にピッタリ。
いい場所に当たったわ』
「前のところは、物足りないって言ってたよね。
それで気持ちのほうはどんななの?」
『なんかね、かなり軽くなったような気がする。
胸の中に巣くうモヤッとした黒い塊みたいなものが取れたような気分』
「やっぱり……。
でも裸のモデルをしたからって気持ちが軽くなるって
どういうことなのかなぁ」
『まだよく分からないけど緊張を伴う非日常的なのがいいんじゃない?
それと……』
「まだ何かあるの?」
『うん。たぶんだけど、解放感と俊の為だけの身体をその他大勢の人間に
見せてるんだぞっていう、なんていうのかな……もう俊の為だけのものじゃ
ないんだぞっていうことなんじゃないのかなぁ』
「そっか……」
『俊の為だけに、つまりは俊に操は捧げないということで、俊だけを
見ていた自分との決別の意味もあるのかもね』
「夫に向けていた愛を捨て去るということだよねぇ?」
『そうそう、愛を捨て去る為の儀式なのかもね』
「儀式か……。桃、上手いこと言うじゃない。
落ち込みから少しは抜け出せそう?」
『まだ、はじめて日が浅いからアレだけど、上手くいけば
もっともっと自分を取り戻せるかも……』
「希望の光を見付けられてひとまずは良かったね」
『うん、ひとまずはね』
「だけど……万が一俊に知れたらどうするの?」
『どうもしないわ。むしろ早く知られたいくらい……』
「俊、驚くだろうね~」
『腰ぬかすかも、あっはっは。早く見てみたぁ~い』
「桃、楽しそうだね」
29
芸大では何も考えてなくて普段通りのメイクで素を晒してしまっている。
相手がひよっ子の大学生ということもあり警戒心ゼロというのも
あるのかもしれない。
しかしデッサン教室では生徒の年齢層も幅がありそうだったし
男女の比率が圧倒的に男性が多いということもあり、普段街中で
ちらっと見たぐらいではすぐに自分だとは分からない程度に
濃ゆい化粧をしている。
そして地毛の短めセミロングにつけ毛をして一つにまとめ、ロングヘア―を装っている。
服装は脱ぎやすいふるゆわのワンピースで普段街中では絶対着ない類の衣類だ。
同人誌制作の為に来ていた女性が途中で抜けると
その後は男性ばかりになってしまった。
一人目ブルーのシャツを着た白髪で頭頂部が少し薄くなっている60代ぐらいの男性、
二人目白いシャツを着た黒髪で頭頂部が少し薄くなっている50代ぐらいの男性、
三人目緑系チェックのシャツを着た黒髪短髪の40~50代ぐらいの男性、
四人目白いTシャツに顎鬚を伸ばした細マッチョ黒髪短髪の30代ぐらいの男性、
五人目黄色いTシャツをラフに着こなしている黒髪短髪40代ぐらいの男性、
六人目紺色のシャツにめがねくんしている黒髪短髪と、
6人くらいの着用している衣類とか髪型なんかは初回と二度目に
さらっと見たところそんな感じだった。
皆どんな気持ちで私の裸のおっぱいを見ているのだろうなんて
想像してしまうけど……。
奥さんと比べたり……たぶんするよね。
良きにつけ悪しきにつけ、人間ってそんなものでしょ。
私は近視だから表情や視線がぼやけていて全く読み取れない。
残念といえば残念かな。
自分でもわかってる。
今の自分の思考力がまともじゃなくなっていることくらい。
日常的に喫煙している人間はニコチンが切れると耐えられないだろうし、
毎日お酒を飲む人は休肝日が辛いだろうし、睡眠薬がないと眠れない人は
薬がないと不安でしようがないだろうし、私も種類は違えどそういう
カテゴリに属す人間になってしまったのだ。
それにしても、男に自分の裸を見せないと生き辛いなんて……
普通は逆だよね。
人前でしかもそれが異性であるならば、なおさらで裸を晒すなんて
死ぬほど嫌な人間のほうが圧倒的に多いだろう。
はいはい、自覚してますよ。
あたしは変になってしまったのだと。
クレイジーにならないと生きていけないの。
30
芸大のアルバイトを始めた初秋の頃から数えて10か月目。
時は七夕直前のこと。
丸一年経ったわけではないけれど、なんだかんだと人の気持ちなど
お構いなしで、年は新しい年に移っていた。
七夕と言えば、嘗ては桃も勤務していた夫が勤める会社では、家族も含めての
社内イベントが毎年行われている。
桃も勤務していた頃から結婚一年目までは参加していた。
その後は、妊娠出産子育てと立て続けに自分の時間など持てないような
環境が続いていたせいで参加していなかったのだが、今回は娘の奈々子が
2才を過ぎたこともあり、参加することにしたのだった。
あの忌まわしい出来事以来、俊は何事も私に対して遠慮がちな態度で
生活している。
ただし、離婚には頑として首を縦に振らず、遠慮してほしい夫婦生活にも
遠慮しない態度なのである。
今回そんな俊が遠慮がちに、よかったら久しぶりに七夕の社内イベントに
奈々子も連れて参加しないか、と打診してきた。
いつも思うけど、遠慮するとこ間違えてる~って。
まぁでも、居直られてあまりにも過去は過去と開き直られるのも
しゃくにさわるだろうからこんなものだと納得するしかないかぁ。
そんなやこんな思いに囚われつつ、
『そうね、久しぶりだし行ってみようかな』
と返事した。
「今年の出し物はなぁに?」
私が夫に聞く出し物とは、食事のメニューのことだ。
「今年は特に気にいると思うよ。
流しソーメンにケータリングで寿司や鶏のから揚げにサラダと、ほかにも
いろいろ食べやすくて美味しいものを揃えるらしいよ。
奈々子にも食べられるものが結構あるんじゃないかな。
お茶やオレンジジュースなんか毎年子供用というわけでもないんだろうけど、置いてあるから」
「ふ~ん、そーめんか。
いいわね」ソーメンはつゆが命だから……つゆが美味しいといいなぁ~。
なぜか夫の社内行事の話を聞きながらふと夫がどうしてこんなにも頑なに
私との離婚を拒むのか、という命題が浮かび上がる。
世間体なのか……。
例えば、離婚して妻と子に去られた自分という立ち位置に我慢できない……とか?
再婚しない限り社内イベントではずっと独りになってしまうだろうし。
もしそういうことが理由だとしたなら……したなら、どうする?
そのうち、なんとかして夫に女を宛がう?
恵子と浮気されて怒り狂った人間と思えない逆転の発想に驚いちゃうわぁ~。
はははー。
『恵子だけは許さんっ』
できれば恵子以外で……女性に目を向けさせればすぐに判子を押すわよ、
意思の弱い男なんだから。
自分の精神状態がもっと安定したらその時には実行に移そうと私は本気で考えた。
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