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◆第十章【運がよければ】
地中に引きずり込まれる感覚があった。
その瞬間は、気が遠のくほどに苦しかった。
しかし呼吸ができなかったのも、体が窮屈だったのも一瞬だった。
「旭灯、大丈夫か?」
目を開けると、ぼんやりと影彦の姿が見えた。
「うん。大丈夫。影彦は?」
「大丈夫。なんか走馬灯みたいなもの見たけど、なんともない」
「走馬灯? 本当に大丈夫?」
「うん」
影彦は本当になんともない様子だったので、それ以上言及することはしなかった。彼が走馬灯を見たことも気になるが、それ以上に気にすべきなのは、この状況である。
ここは洞窟のような場所らしいが、私たちの周囲だけが控えめに照らされている。
「鬼火を出したんだ」
私がなにを思っているのか察したらしく、影彦はいった。
影彦の背後にいた鬼火は、ゆらりと私にも近づいてきた。
「きれい」
青い火の玉を見て、場違いな感想が漏れた。
「ケガないか」
「平気。影彦は?」
「なんともない。とにかく出口を探そう。たぶんここは、沼黄泉の中だ」
影彦は私の手を引いて、鬼火の明かりを頼りに暗闇を歩き始めた。
ここが沼黄泉の中ならば、影彦は私と手を離せば外に出られるかも知れない。
私がそんなことを考えていると、影彦は強く私の手を握った。
この手を振り払えるほどの覚悟が、私にはまだない。しかし状況が改善しない場合、私は覚悟を持ってこの手を離す必要があるのだろう。
「旭灯は人間だ。ただの、呪われた人間だ。死者でもないし、異物でもない。だから、俺から離れようとするな」
影彦はきっぱりといった。
「沼黄泉は、俺を探してたのかも知れない。俺が双子だった話は聞いてるだろ。俺はたぶん、残るべきじゃない方の双子だったんだ。俺は人に嫌われる性格だし、まだ抜刀もできてない。親は俺の存在を、恥ずかしいって思ってるんだ。絹香もそう感じたから、余計に辛かったんだと思う」
影彦の両親が、実際にどう思っているのかはわからない。
しかし家族であれど、血を分けた子であれど、無条件で愛してもらえるわけではない。私はそれを、身を持って知っている。
「もしそうだとしても、この世界に影彦がいてくれてよかった。影彦が私の隣に座ってくれた時、すごく心強かった」
今度は私が、影彦の手を強く握る番だった。
◇
しばらく影彦と歩いていると、私たちの足元は大きく歪んだ。
そうかと思うと私たちは、地上に出ていた。
そこは知らない場所だった。
視界の隅には、ここから去っていく沼黄泉と思われる黒い霧が微かに見えた。
その後でようやく、私は以前も沼黄泉に飲み込まれたのかも知れないと思った。鬼に化けたアラヤに出会う前、私はなにかに飲み込まれた。そしてその時も、自分のいた場所とはまったく違う場所へ放り出されたのだった。
「沼黄泉の目的は俺たちだったわけじゃなさそうだな。でもそれにしては、長く拘束されてた気がするな」
たしかに以前とは比にならないほどに、拘束されていた。
「ここ、御神体が祀られてる場所だ」
周囲を見渡していた影彦は、そういって古い鳥居を指した。
「今は嫌な感じはしないな。旭灯がいるせいかな」
「あの鳥居の奥に、御神体があるの?」
「うん、そのはずだ。でもそうなると、沼黄泉の目的は御神体でもないのか」
たしかにこんなに近い距離で、沼黄泉が御神体を見逃すのは妙だった。
それから私たちは誘われるように、古い鳥居をくぐって奥にある祠へ向かった。
「俺たちが接触した人間か妖怪に、沼黄泉が探してるヤツがいたのかも知れない。だから長く拘束された気がする」
「沼黄泉は、絹香さんを探しているわけでもないのかな」
「絹香は自分を罰してほしいと水子沼にお願いしてたみたいだけど、何かの波長が合って沼黄泉を呼んでしまっただけだと思う。でも沼黄泉がその呼び出しに応じたってことは、異物と思われるものがこの山にあるんだ」
思考を巡らせても、なにか答えがでるわけでもなかった。
御神体が祀られているとされる祠の横には、七体の地蔵があった。どれも年季が入ったものに見えたが、一つだけ様子が違っていた。
「このお地蔵さんだけ、新しい」
その地蔵にだけは、赤い前掛けと小さな鈴がつけられていた。
「本当だ」
影彦はその地蔵をじっと見つめた。
よくみるとその地蔵は、誰かに似ているように思えた。
「暁《あきら》?」
私の口からは、自然とその名が出ていた。
「あきら?」
「私の妹」
影彦は怪訝な顔をした。
「旭灯は、朝比奈家の末娘だぞ。妹はいない」
私は、彼の言葉が上手く理解できなかった。
「え、でも。暁は私が目覚める前からずっと何年も、私の世話をしてくれてた。その記憶はちゃんとある」
私は自分に言い聞かせるようにいった。
「子どもは魔性の影響を強く受ける。だから角仙娘の世話を頼まれることはないと思う。旭灯以外に、その暁を認識してる者はいるのか」
暁はいつも、私が一人の時に離れ座敷にやってきた。
「いない、かも知れない」
私は脱力するようにいった。
そして私は暁に似た地蔵へ手を伸ばした。その地蔵に触れると、前掛けの鈴が小さく鳴った。その音は、暁がやってくる時のそれだった。
鈴の音に導かれたかのように、暁がその場にはゆらりと現れた。
半透明だったそれは、すぐにいつも見ている暁の姿になった。
「お前、暁闇《ぎょうあん》じゃないか」
暁の姿を見た影彦はいった。
私は答えを求めるように、影彦を見つめた。
「死んだ弟の名だ」
そういえば黒瀬家は、七才になるまでは女児の格好をする風習が存在する。
私は服装だけで、暁を女の子であると認識していた。
さらにいえば彼女は、ほんの少し影彦に似ているようにも思えた。
「そういう名前もありました。この姿は、その影響を強く受けているみたいです」
暁は落ち着いた声でいった。
「なんだ。なんで、こんなことになってるんだ」
影彦は困惑したようにいった。
「角仙娘に捧げられた贄《にえ》が七人になったので、角仙娘の呪いは解けるはずだったんです。でもその時すでに、お姉様が母体にいたので、呪いの片鱗が残った状態だったんです。だから私はお姉様の側で、呪いの残骸を排除していました」
暁はいつも私の額《ひたい》を拭いてくれた。
そしてそれは、ツノを削る行為に似ているように思えた。
「角仙娘に捧げられる贄《にえ》ってなんのことだ」
暁は影彦の問いに答えようとした。
しかし自らの周囲に黒い霧が現れたことに気づくと、悲しげに微笑んだ。
「私は不完全な存在なので、沼黄泉が異物と判断したんだと思います。ちゃんと呪いを解いてあげられなくてごめんなさい。でもきっと、お姉様なら大丈夫です」
――なんとなく嫌な感じがするので入ってないんです
暁は沼黄泉の気配を察して、山に入っていなかったのだろう。
しかし私が先ほど鈴を鳴らしてしまったので、暁はここに顕現せざるを得なかったのかも知れない。
「暁!」
私は暁に駆け寄ろうとしたが、影彦は「待て」と私の腕を強く引いた。
「お前が消える必要はない。お前が、旭灯の呪いを解くんだろ」
影彦は暁に向かっていった。
それから影彦は右手の人差し指と中指を立てて、何かを詠唱し始めた。
「ダメだ! そんなことをしたら、戻れなくなる!」
暁は影彦に叫んだ。
しかし影彦は、詠唱を辞めなかった。
なにが起きているのか、なにが起ころうとしているのかはわからない。しかし影彦が暁を守ろうとしていることだけはわかっていた。
詠唱を終えると、影彦は私を強く抱きしめた。
「運がよければ、また会える。会えてよかった」
影彦は私の耳元で小さくいった。
それから彼は私を遠ざけるように、強く肩を押した。
そして彼は、暁と黒い霧の方へ駆けていった。
私は影彦に強く肩を押されたことで大きくバランスを崩し、数歩ほど後退して尻もちをついた。
二人に視線を戻すと、彼らが黒い霧に飲まれているのが見えた。
「影彦! 暁!」
私はその場で、喉が裂けるほどに叫んだ。
二人が消えた後で、自分の左手がぼんやりと暖かくなっていることに気が付いた。
私の左手は、御神体がある小さな祠に触れていた。
瞬間、目を開けていられないほどの真っ白な光に包まれた。