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叶は戦場で頭の切れる男だった。特に、叶が発案した作戦の数々は、高い評価を受けた。その多くは廃墟と化した市街地などで行われる。長期戦を基本とする消耗作戦であり、叶の率いる小隊の優れた機転を利用した、心理戦でもある。
暗殺にも近い死角からの射撃において、彼は光るものを魅せていた。
廃病院の3階は、遮蔽の取れる理想的な射撃地点がある。スコープを覗きながら、二人分の呼吸音が混ざる風音に耳を傾けた。
「…僕の方からは見えないな。アーシャ、風向きは?」
はじめて叶と前線に出てから、4年が経とうとしていた。
このときにはもう、2人で遊撃に行くのが恒例のようになっていた。ときどき部下からの報告を受けながらも、ほとんどふたりきりでスコープを覗く。
そして俺は、ラグーザからアーシャへと呼び名を変えた。とは言っても、そう呼ぶのは叶だけだ。今は甘んじて「アーシャ」で受け入れることにしている。
「北風、…誤差1メートル」
欠伸を噛み殺すように顔を上げると、ゆっくり叶が誤差を修正する動きが捉えられた。その小さな動作にかかる時間は、普通叶なら1秒にも満たない。
昨日、殺した狙撃兵と目が合った。
何年も戦場にいた事のある葛葉にとって、そんな経験は何度もあった。ところが、その映像が不思議と目に焼き付いてしまって、それとなく調子が悪い。
ヒュン、と真横で馴染みのある音がなる。叶が撃ったようだ。放った弾は敵の頭を見事に居抜き、スコープから人影が飛び退いた。
うつらうつらとしていた意識が、現実に引き戻される。
「アーシャが僕より反応が遅いなんて、どうかしたの」
俺の不調を、相棒と呼べる男は見逃さない。
「ちょっと昔のこと思い出してた」
鼻から抜けるような溜め息。
「珍しいじゃん」
叶が少し声のトーンを上げて言う。
命の遣り取りがそこにあるとは思えない、ふたりだけの気の抜けた空気。遊び半分な狂った調子は、他からすれば間違いなく異様なものに違いない。しかし、なんとなく何でも言い出せるこの空気感が、確かに好きでもある。
その異様な空気のせいか、思わず、といったふうに言った。
「俺さぁ…なんか、ラグーザ様って呼ばれんの、きらい」
ずっと思っていたことがある。退屈に感じた日々の欠片。その原因。家族にも言ったことがない、ちょっとした秘密。
「他人行儀ってこわいよねぇ。ほんと」
叶が頭を振った。首を動かすたびに、その軟やかな髪がふわりと揺れる。
「もっと言うとアレクサンドル・ラグーザっていう名前がクサい」
「え〜、それは意外」
「長くね?だせぇし…」
叶がスコープから目を離さずに、声を出して笑う。
「知らなかった………じゃあさ、アーシャって呼ばれるのも嫌?」
俺は思わず唸った。呼ばれるたびにふざけた様な感じかするのは否めない。まぁ、そう呼ぶのが他でもないこいつだからか。
それに、正直にいって恥ずかしい。むず痒いようなこそばゆいような、言い表せないこの感じ。それでもそう呼ばせたのは、叶が嬉しそうにも言うからだ。「アーシャ」と叶が言うときの、悪戯っぽい表情は、一番いきいきとしている。憎たらしくも。
「俺の和名、知ってるか」
僅かな衣擦れの音が、叶が首を傾げた動作を知らせる。たっぷり数秒たってから、叶が言う。
「知らなぁい…なにそれ」
「〈葛葉〉」
勢いで口走った。叶が目を見開く。
「え?」
「〈葛葉〉って呼べ」
あの日叶が教えた名が、一周回って俺によってコイツに伝わる。その瞬間を視たかった。
「葛葉……」
「外交の雑用で名乗った名前。俺こっちのが好き」
力がふっと抜けるような溜め息が横から聞こえる。
「かっこいいじゃん!!!葛葉!!!!!」
「ぅるっせぇ!驚かせんな…………………あ、やばい敵いるっ」
「わぉ!?」
叶がとふたりで伏せる。こんなでもしっかりとした役職に立たされた現場指揮官である。反応速度はそこらの狙撃兵とは比べ物にならない。
案の定、放たれた直径0.8cmの鉄塊は、後ろの床に穴を空けた。
「叶、お前は別地点から撃て。上に上がるか……隣の団地もいい射撃地点になる。敵の様子を見て選べ。…俺はここで応戦する」
うまく囮くらいにはなってやるよ。最後にそう告げると、叶は大きく頷いた。
「了解!頑張ってね〜、くーちゃん♡」
前言撤回。やっぱコイツに教えるべきじゃなかった。
ようやく近距離戦に身体が慣れてきた頃、最後の歩兵を撃ち抜いた。
ここもまた別の戦場だ。大きく体を使った戦いに、特有の痛快さを思い出す。
じんわり燃えるような熱を無視して、ひとまず負傷した兵の様子を見に行こうと、叶の元に向かった。
叶は倒れた兵士の近くに跪き、救護用の物資を漁っているところだった。今回は敵の歩兵が威力をふるい、精鋭の叶率いる小隊も打撃を受けていた。戦場で互いの安否がわからなくなるほど叶と離れるのは珍しい。横顔を見ながら、ほっと胸を撫で下ろす。
異変が起きたのは、その時だった。
___叶の背後の物陰から、人が飛び出した。
迷彩柄の制服を着た何者かが、少しの迷いもなく叶に飛びかかる。すんでのところで部下を庇いながら避けた叶の足跡の上に、サバイバルナイフが刺さった。
ナイフを振るったのは、中年の男だった。
ナイフを握る手は小刻みに震え、怒りに満ちた目は真っ直ぐ叶を映している。
生存した敵兵か?いつからそこに隠れていた?部下たちはなぜ気づかなかった?なぜコイツはなんの防御もなしに叶だけを狙って____
叶の方を見た。
「え、」
高速で脳を過る思考が停止する。別の意味で、葛葉は驚かされた。
___あの叶が、敵を前に硬直していた。
何の構えもなしに、男を見た顔が表情を失う。叶は、確かに怯えていた。
男が剥いたナイフが、叶の腹に向かって動き出す。この状況で叶がなんの反応も示さないことに、俺は恐怖した。
最初に飛びかかったとき、男は、爆弾の類を使わなかった。そのことから、男が銃も手榴弾も携帯していないことが、叶にもわかるはずだ。丸腰に等しい兵士など、普段の彼なら3秒で抑える筈だった。筈なのに__。
疑問に躊躇いながらも、葛葉は素早く男を落とした。
「何やってんだよ…!」
気絶してピクリともしない男を呆然と見つめる叶の額に、一筋、冷や汗が光るのが見えた。ほとんど反射で怒鳴りつけたが、その様子を見て動きを止める。叶が恐怖で動けなくなる姿を、初めて見たからだった。
叶が息を飲む音が、やけに大きく届いた。
「僕はね、孤児だった」
その日の夜、これから寝ようとしていたとき、叶は唐突に言った。
突然の告白に驚き、みじろぎをする。ただ俺と同じで何らかの事情があって、失う物が無いと云うことだけは長く過ごす中で感じ取っていた。どこかコイツも、世界を諦めている。寂しい色をした、硝子球の瞳。どうせ死ぬ運命なら最後まで見事に足掻いてやろうと、そういう覚悟が叶の戦い方だった。
その理由が今から明かされるのだと、葛葉は直感で悟った。
「僕を拾ってくださった上官は立派な御方で。街中の物乞いの一人だった僕を、兵士に育ててくれたんだ」
「うん」
正直、驚いている。そんなことが、あったのか。
「みんなに優しくて、……特に僕のことを、息子みたいに思ってたって、あとから聞いた。戦争で亡くした奥方との御子息と似てたんだって」
叶を育てた兵士を想像する。優しくて、時には狐のように賢く。そして、時には一緒に羽目を外してくれる父親。叶の救いになってくれた人。
だけどね、と叶が続ける。声がワントーン低くなる。
「ちょうど今から5年前、上官は死んだ」
「ぇ、」
口を出た声が情けなく消える。叶が硝子球の瞳を、手元に向けた。
叶と俺の顔合わせが行われたのが、4年前。となると、叶の恩師が死んで1年で叶は少佐に昇り上げ、俺と出会ったことになる。
「ちょうど今と同じくらいの戦火の真っ只中で、敵の狙撃兵に撃たれた。死際に僕にね、『俺と同じ道を歩ませてすまなかった。そんなふうにしかお前を育てられなかった俺を呪ってくれ』……って」
何度も反芻した言葉なのかもしれない。恩師の言葉をなぞった叶の声は迷いがなかった。しかし、声が弱々しく震える。
「いい人だったんだな」
その時、「いい人」という言葉に反応して、叶の震えが一瞬止まった。
「うん。…うん」
噛みしめるように叶が言う。俯いた表情は見えなかったが、今にも泣き出しそうな叶が、声音から容易に想像できた。
プライドが高く、独りよがりな男だ。戦う道しかなかったせいもあってか、大きすぎる悲しみを誰にも打ち明けることが出来なかったのかもしれない。現に、俺にそれを知らせるのに四年もかかっている。死を覚悟した戦士にとって、四年という年月はあまりにも長い。むしろ、言うつもりも無かったのかもしれない。
「ひとつ疑問なんだけど…」
「なに?」と叶が先を促したのを確認して、葛葉は訊ねた。
「今日…残兵の襲撃の時、お前何かおかしかった。…もしかしなくても、関係あったりすんの」
叶は何のリアクションも示さなかった。ただ、感情が死んだような気配が叶からした。自分の問いに人形のようになった相手に、怖じ気付く。
叶は独り言のような響きで呟いた。僕はあの眼を知ってるんだ。
「確か…僕が捨てられたのは、8つの時だったかな。お父さんに似てたんだよ」
「叶の?」
そう、と叶が首で肯定の意を示す。
「僕を棄てたお父さん。」
はっきり叶が伝える内容に、予想以上に衝撃を受けた。自分でも見たことがある。スラム街に溢れかえる孤児の物乞い。
そして、劣悪な環境に自らの子供を放り捨てる、親たち。
理解することは出来ないが、貧困の余り泣く泣くそうするしか無かった人間もいるのかもしれない。しかし、叶の場合は最悪だった。
「忌み子だったんだって。僕。……あのとき思い出した」
酒瓶で溢れた家。血走った眼で殴りかかってきた父親。ああ、食事もまともに摂れてなかったのかな。いつもお腹が空いてた気がする。
一言一句絞り出すように言葉を紡ぐ。
「事情はよく知らないけどね。相当やばいことされたんだろうなぁ…記憶があんまり無いの」
「フラッシュバック?」
「まあそういう感じだと思う……………上官に拾われてからあんまり思い出せなくなって、でも今日、急に鱗片だけ思い出した感じ」
「殴られそうになってた。…記憶の中の僕は固まってて………動き方が分かんなくて。混乱、して」
叶が力なくうな垂れる。そしたら、動けなくなった。膝の上に零すように、呟いた。
その瞬間、叶の肩を力強く抱いていた。強く強く、ちからを込めて言う。
「こっち見て。側にいる。闘えないときも、怖いときも、俺はいる。死ぬときも、叶の側にいるから」
叶が、俺の胸元に顔を埋めて、泣いた。