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「――何これ?」
朝一番に教室へ入り、自分の机の中に手を入れるなり、美和は顔をしかめた。
何か入っている。四角い箱のようなものだ。触るとほんわり温かい。
「……」
しばらく考えてから、美和はその正体に気付いた。
これはきっとあれだろう。昨日の放課後、廊下ですれ違った女子生徒が手にしていたものだ。彼女が落としたに違いない。
「どうしようかしら」
彼女は困っていたようだし、もしかしたら届けるべきかもしれない。けれど落とし主の名前を知らないし、彼女のクラスも分からない。それに万一、これが爆弾か何かで爆発したら大変だし――。
そう思いながらも好奇心を抑えきれずに、僕はその店に入っていった。
店内に入るとそこは薄暗く、まるで夜の海を漂うような気分になる。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうにいる初老の男に声をかけられた。
男は僕を見ると少し驚いた顔をしたがすぐにいつもの顔に戻った。
僕のような若い男がこの店に来ることはあまり無いのだろう。
「コーヒーを一杯いただけませんか?」
僕がそういうとマスターはゆっくりとした動作でコーヒーを入れ始めた。
豆の良い香りが漂ってくる。
「珍しいですね。学生さんですか?」
カップを手に持ちながら僕を見て言った。
「いえ、高校生です。ちょっと眠れないのでここに寄らせていただきました」
正直に答える必要もないのだがなぜか嘘をつく気にはならなかった。
僕の言葉を聞くとマスターは何も言わずに微笑んだだけだった。
それからしばらく無言の時間が続いた。
何を話すわけでもなくただ時間が過ぎていくだけだ。
時計の音だけがカチカチと聞こえてくる。
しかし不思議とその空間は居心地が悪くなかった。
それはきっと僕とマスターの間にある空気感のようなものが良かったからだと思う。
僕はその人のことが好きなのか、嫌いなのかよく分からないけれど、ただ一緒にいる時間が心地よかったのだ。
「ねえ、君は何歳?」
そう訊かれても、答えることができなかった。自分が何歳でどんな人間かということもよく分からなかったからだ。しかし彼は気にする様子もなく、「いくつに見える?」と質問を重ねてきた。僕よりも少し年上のように思えたから、十六と答えたら「ふうん」と言われた。
彼は自分のことを話した。ぼくはそれを聞いて、彼に同情するべきかどうか考えたけれど、よくわからなかった。ただ、彼が自分よりも強い人間ではないことだけははっきりしていた。
「どうして」とぼくは聞いた。「なんで、そんなふうにして生きていける?」
「どういう意味だい?」
「そういう生き方をしていて楽しいのか? そんな生活をして何になるっていうんだ?」
彼の答えはあまり明確ではなかった。そして、それを聞いたところで、何か新しいことがわかるというわけでもなかった。
「きみは何をしているんだい?」と彼はきいた。
「別に何もしていないさ」とぼくは言った。
それからしばらく沈黙が続いたあとで、「今日は楽しかったかい?」と彼は聞いてきた。
「ああ、楽しかったよ」とぼくは言った。それは嘘のない気持ちだったからだ。
「本当にそう思ってくれるといいんだけどな……」と彼は言ってから立ち上がって、「それじゃあ、ぼくはそろそろ帰ることにするよ」と言った。
「どこへ行くんだい?」とぼくはきいた。
「どこにも行かないよ。家に帰るだけだ」と彼は答えてから背を向けた。
そう言ったのだから、きっとここに戻ってくるだろう。それなのに、ぼくはなぜか彼を呼び止めていた。振り返った彼の表情は、いつも通りで穏やかだったけれど、「どうして?」と言いたげにも見えた。
彼と別れる時が来るとしたら、それはぼくがこの世から消える時かと思っていたし、その覚悟もしていたつもりだ。もちろん、その時が来たとしても後悔はないはずなのだけれども……。
でも今は違う。彼が私の前から姿を消すかもしれないと思うだけで胸を締めつけられるような痛みを感じた。
彼を手放したくなかった。ぼく以外の人と一緒になるなんて考えただけでも許せない気持ちになるのだ。でも、これは自分の我がままだと分かっていたから口にすることはできなかった。
それから一週間ほど経って、彼からの連絡はなかった。
電話をしてみたけれど、留守電になっていたのでメッセージを残しておいた。
『会いたいです』
しばらくして返ってきた言葉は短いものだった。
「そうか」
ただ、それだけ。
それから一言二言交わした後電話を切った。
私はこの気持ちを抱えたまま生きていくのかと思うと胸の奥が痛くなった。
きっとこの痛みは消えないだろう。
だからせめて忘れないようにしようと思った。
彼が好きだと言ってくれたぼくの笑顔を忘れずに生きていこう。
いつか彼と再会できるその時まで……