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聖杯
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読み終わりました……!もう、最高に可愛くて温かいお話でしたね🌷 まず、冬木の街の空気感から入る冒頭がすごく好きです。静かな夜に、まだ終わっていない何かが息づいている——その一節で一気に物語の世界に引き込まれました。 そして何よりアストルフォ!「やっほー!」の一声で全てを持っていかれました(笑)。衛二くんが「かわいい」と素で漏らすのもわかるし、そのあとお互いに照れたり甘やかしたりする関係性がもう理想的すぎます……「エイジ」って呼ぶ距離感、最高です。 凛と士郎の反応も、親としてのリアルな焦りと温かさが滲んでいて、読んでいてほっこりしました。「顔赤いわよ」「嘘が下手ね」の凛のツッコミ、笑いました。 最後の朝食シーンの「あーんする?」「しない!」のやり取り、もうこの二人の未来しか見えないです。これからの物語、心から楽しみにしています!素敵な作品をありがとうございました🤍
第一話 冬木の夜に、桃色の星が落ちる
冬木の冬は、やけに静かだ。
遠坂衛二は昔から、そう思っていた。
空気が冷たいからではない。
雪が降るからでもない。
街灯の光が、やけに寂しそうに道を照らすからでもない。
冬木という街そのものが、夜になると何かを思い出しているように沈黙するのだ。
十年。
二十年。
あるいは、それよりもっと長い時間。
この街には、魔術師でなくても肌で感じてしまうほどの傷跡が残っている。
炎の記憶。
聖杯の記憶。
英霊の記憶。
願いと、別れと、奇跡と、呪いの記憶。
そして、数十年前。
この冬木で、神杯戦争と呼ばれる異常な戦いが起きた。
正規の聖杯戦争とは異なる、神の杯を巡る争い。
記録上では秘匿され、魔術協会の一部ですら詳細を知ることが許されていない事件。
遠坂家の地下書庫、その最奥に封じられた資料には、ただ短くこう記されている。
――神杯は砕かれた。
――沈黙冠は終わった。
――願いの畑は、返事の庭となった。
衛二はその文章を初めて読んだ時、意味が分からなかった。
いや、今も完全には分かっていない。
ただ一つだけ、理解していることがある。
この街は、まだ終わっていない。
聖杯戦争も。
神杯戦争も。
願いの残響も。
すべては終わったように見えて、冬木の地下深くで、まだ微かに息をしている。
「……寒」
衛二は穂群原学園の帰り道、赤いマフラーに口元を埋めながら呟いた。
放課後の弓道場で少し遅くまで残っていたせいで、空はすっかり藍色に染まっている。
校門前にはもう生徒の姿も少なく、遠くで聞こえる部活動の掛け声も、冬の空気に吸い込まれて薄くなっていた。
遠坂衛二。
十八歳。
穂群原学園三年。
赤みがかった黒髪に、遠坂の血を感じさせる整った顔立ち。
瞳は母譲りの深い蒼。
けれど、ふとした時の柔らかい笑い方は、父に似ていると言われる。
衛宮士郎と遠坂凛の息子。
その事実は、魔術師の世界において軽い意味では済まされない。
遠坂家次期当主。
衛宮士郎の投影魔術を受け継ぎ、遠坂凛の五大元素を継承した異端の子。
生まれつき、魔術回路の数も質も常軌を逸していた。
魔力量に至っては、ただの魔術師という枠を超えている。
魔術師の上。
魔法使いに匹敵する、とさえ言われたことがある。
本人は、その評価があまり好きではない。
「魔法使いって言われてもな……宿題の数学、魔法で消せるわけじゃないし」
ぶつぶつ言いながら歩く。
学生鞄には教科書。
ポケットにはスマホ。
制服の下には、父が縫い込んだ護符。
そして左手の甲には、今朝から薄く疼く赤い痕。
令呪。
まだ完全な形ではない。
けれど、それは確かに、英霊との契約を予告するものだった。
数日前から、冬木の霊脈が乱れている。
遠坂家が管理する霊地の数値は、朝晩で大きく揺れた。
地下の宝石炉は不自然に発光し、封印していたはずの古い召喚陣が勝手に熱を持った。
そして昨夜。
衛二の左手に、令呪の前兆が浮かんだ。
父は黙っていた。
母は舌打ちした。
その時点で、衛二は「あ、これかなりまずいやつだ」と察した。
「帰ったら絶対、母さんに地下室連行されるよな……」
凛の顔を思い浮かべる。
腕を組み、眉を吊り上げ、いかにも遠坂らしい完璧な立ち姿で。
『衛二。説明しなさい。三秒以内に』
……言いそうだ。
というか、言う。
衛二は小さくため息をついた。
その瞬間だった。
「――っ」
首筋が、ぞくりと震えた。
魔力の気配。
冷たい。
鋭い。
しかし濁っている。
冬木大橋の方角から、霊脈の流れが捻じれている。
衛二は足を止めた。
日常の空気が、一枚薄皮を剥がすように消える。
代わりに現れたのは、魔術師の世界だ。
街灯の光がちらつく。
歩道の端で、氷のような魔力が薄く広がる。
一般人は気づかない。
だが、衛二の五感と魔術回路は明確に警鐘を鳴らしていた。
「……誰かいる」
衛二は鞄を肩に掛け直し、路地へ入った。
遠坂家の次期当主としてなら、確認しなければならない。
衛宮士郎の息子としてなら、放っておけない。
そして何より。
この街でまた誰かが傷つくのは、嫌だった。
路地裏に入った瞬間、空気が変わった。
結界。
簡易的だが、一般人の侵入を拒む人払いの術式。
さらにその奥に、感知をずらす迷彩魔術。
「雑……いや、雑に見せてるだけか」
衛二は片手を上げる。
指先に蒼い魔力が灯った。
五大元素。
地、水、火、風、空。
遠坂凛から受け継いだ魔術特性は、衛二の中でほとんど呼吸と同じ速度で循環する。
「空位接続、地脈固定。風で探って、水で流れを読む」
呟きと同時に、路地の空気が波紋のように広がる。
術式の構造が見えた。
奥に三人。
魔術師。
その中心に、何かを置いている。
聖杯の欠片ではない。
神杯戦争の残滓でもない。
だが、似ている。
願いを吸い上げる器。
「……最悪」
衛二は走り出した。
角を曲がる。
そこには、黒いローブを着た魔術師が三人いた。
足元には魔法陣。
中心には、少女が一人倒れている。
穂群原の制服ではない。
中学生くらいに見える。
意識はないが、息はある。
魔術師の一人が衛二を見た。
「遠坂の子か」
「その子から離れろ」
衛二の声は低かった。
普段の柔らかさは消えている。
魔術師は笑った。
「やはり誘えば来るか。衛宮士郎の血だな。愚かで、扱いやすい」
「……父さんの名前を、そういうふうに呼ぶな」
衛二の右手が空を掴む。
魔術回路が起動する。
肉体の内側を、灼けるような熱が走った。
「投影、開始」
空間が軋む。
衛二の手の中に、一振りの剣が現れた。
黒と白が捻じれた双剣。
干将・莫耶。
父がかつて幾度となく投影した夫婦剣。
だが、衛二のそれは父のものと少し違う。
贋作ではない。
限りなく本物に近い。
いや、概念の重みすら本物と遜色ないほどに引き上げられている。
魔術師たちの顔色が変わった。
「馬鹿な……投影で、その密度……?」
「一応、遠坂家次期当主なんで」
衛二は踏み込んだ。
一人目が炎弾を放つ。
衛二は左手の莫耶で斬り払う。
炎が散った。
二人目が影の槍を生み出す。
衛二は右手の干将を投げた。
剣は槍を貫き、そのまま魔術師のローブを壁に縫い止める。
三人目が少女の首元へ手を伸ばした。
衛二の瞳が細くなる。
「やめろ」
次の瞬間、衛二の手には別の剣があった。
黄金の刀身。
複雑な神代文字。
解析に一秒とかからなかった。
だが、それは父ならばきっと眉をひそめる宝具だった。
衛宮士郎でさえ、解析できないかもしれない。
英霊エミヤでさえ、投影をためらうかもしれない。
それでも衛二は、当然のように形にした。
「――投影完了」
空気が震えた。
魔術師が叫ぶ。
「宝具投影だと――!?」
衛二は剣を振るわなかった。
ただ、刀身に込められた魔力を臨界まで引き上げる。
壊れた幻想。
宝具を爆弾として破壊する、英霊でも乱発できない高等戦術。
衛宮士郎や英霊エミヤですら、連発など不可能に近い。
だが、衛二はそれを、呼吸の延長のように行う。
「ブロークン・ファンタズム」
爆発。
けれど、その爆発は少女を傷つけなかった。
衛二は五大元素のうち、風と空で爆圧を包み、水で熱を逃がし、地で衝撃を固定し、火で魔力だけを焼き払った。
魔術師三人の術式だけが破壊される。
黒いローブの男たちは吹き飛び、壁に叩きつけられた。
静寂が戻る。
衛二は少女に駆け寄った。
「大丈夫か?」
脈を確認する。
問題ない。
魔力を少し吸われているが、命に別状はない。
衛二は息を吐いた。
その時。
足元の魔法陣が、赤く輝いた。
「なっ……!?」
壊したはずの術式が再起動する。
いや違う。
これは、囮だ。
地面の奥。
さらに深い層に仕込まれていた召喚陣が、衛二の魔力に反応している。
左手の甲が熱を持つ。
令呪の前兆が、はっきりと形を成していく。
「まずい、これ――」
視界が白に染まった。
耳元で、鐘の音が聞こえた気がした。
冬木の霊脈が鳴っている。
遠坂家の地下書庫が震えている。
神杯戦争の残響が、眠りから目を覚ましている。
衛二は歯を食いしばった。
召喚される。
いや。
召喚してしまう。
自分の意思ではない。
しかし、霊脈が、令呪が、世界が、衛二をマスターとして選んでいる。
空間が裂けた。
桃色の光が舞う。
羽根のように軽やかで、星屑のように眩しい魔力。
そして――。
「やっほー!」
底抜けに明るい声が、冬木の路地裏に響いた。
光の中心から飛び出してきたのは、一人のサーヴァントだった。
桃色の髪。
細くしなやかな体。
少女のように可憐で、少年のように快活な笑顔。
黒いリボン。
ひらりと揺れる装束。
見る者の心を一瞬で奪うような、眩しいほどの愛嬌。
可愛い。
その一言が、衛二の思考を一瞬だけ完全に支配した。
サーヴァントはくるりと宙で一回転し、猫のような軽やかさで着地した。
そして衛二を見た。
大きな瞳が、ぱっと輝く。
「君がボクのマスター?」
衛二は固まった。
魔術師として、まず真名を確認すべきだった。
クラスを問うべきだった。
敵意の有無を探るべきだった。
けれど、口から出たのは。
「……かわいい」
だった。
サーヴァントは一瞬きょとんとしたあと、にぱっと笑った。
「えへへ、ありがと! そういうこと素直に言ってくれるマスター、ボク好きだなー!」
「えっ」
「じゃーん! ライダー、アストルフォ! 召喚に応じて参上! ……って、あれ? ここ、冬木? うわー、懐かしいような、そうでもないような!」
アストルフォ。
その名を聞いた瞬間、衛二の背筋に別の意味で緊張が走った。
知っている。
資料で読んだ。
父と母からも聞いたことがある。
かつての大戦に関わった英霊。
理性が蒸発していると評されることもある、底抜けに明るい騎士。
しかし、その明るさの奥に、誰かを救うためなら迷わず手を伸ばす優しさを持つ存在。
桃色髪の男の娘。
そして、父と母が過去に出会ったことのあるサーヴァント。
「アストルフォ……本物……?」
「本物だよー? たぶん! いや、間違いなく! むしろ偽物っぽいところある? この可愛さは一点ものだよ?」
自分で言った。
しかも自信満々だった。
衛二は思わず笑いそうになる。
その瞬間、倒れていた魔術師の一人が懐から短剣を抜いた。
「遠坂ぁぁ!」
衛二が反応するより早く、アストルフォが動いた。
桃色の残像。
次の瞬間、魔術師の短剣は弾き飛ばされ、本人は路地の壁に軽く押さえ込まれていた。
アストルフォは笑顔のまま、しかし声だけ少し低くする。
「だーめ。ボクのマスターに乱暴するのは禁止」
その言葉に、衛二の心臓が跳ねた。
ボクのマスター。
契約したばかりの言葉なのに、不思議と胸に甘く染み込んだ。
アストルフォはすぐに明るい表情へ戻り、衛二の方へ駆け寄ってくる。
「怪我ない? 痛いところない? 怖くなかった?」
「いや、俺は平気だけど……」
「ほんと? 無理してない? マスターってすぐ無茶するからね。ボク知ってるんだから」
「会って一分で決めつけないでくれ」
「えー? だって君、見るからに無茶する顔してるよ?」
「どんな顔だよ……」
呆れながらも、衛二は妙に否定できなかった。
アストルフォは距離が近い。
初対面とは思えないほど、自然に衛二の懐へ入り込んでくる。
小柄な体を少し傾け、下から覗き込むように見上げてくる瞳が、街灯の光を受けてきらきらしていた。
可愛い。
また思った。
さっきより強く思った。
衛二は咳払いする。
「と、とにかく、ありがとう。助かった」
「どういたしまして!」
アストルフォは満面の笑みで胸を張った。
その仕草一つで、路地裏の冷たい空気が少し温かくなった気がした。
「それで、マスター。君の名前は?」
「遠坂衛二。遠坂家次期当主……一応」
「エイジ!」
アストルフォは名前を確かめるように呼んだ。
「うん、いい名前! 呼びやすいし、かっこいい!」
「そ、そうか?」
「うん! じゃあボクはエイジって呼ぶね!」
「いきなり名前呼び……」
「嫌?」
アストルフォが少しだけ首を傾げる。
その表情が、ずるいくらい可愛い。
嫌なわけがない。
「……嫌じゃない」
「やった!」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
それから、何の前触れもなく衛二に抱きついた。
「なっ……!?」
「契約記念のぎゅー!」
柔らかい。
温かい。
それでいて、サーヴァントらしい確かな魔力の圧がある。
衛二は完全に固まった。
アストルフォの桃色の髪が頬に触れる。
ふわりと甘い香りがした。
冬の夜なのに、春の花畑に引き込まれたようだった。
「え、あ、アストルフォ?」
「んー?」
「近い」
「うん、近いね!」
「いや、そうじゃなくて」
「ボク、マスターのことちゃんと守るから。だから最初にぎゅーして、安心チャージしておこうと思って」
「安心チャージ……」
「大事だよ? ぎゅーはね、人間にも英霊にも効くんだよ」
言い切った。
衛二は困ったように笑った。
けれど、不思議だった。
さっきまで身体の奥に残っていた戦闘の緊張が、少しずつ溶けていく。
アストルフォの腕は細い。
けれど、その抱きしめ方は驚くほどまっすぐだった。
からかいでも、悪ふざけでもない。
ただ、本当に「大丈夫」と伝えようとしている。
衛二はゆっくりと息を吐き、遠慮がちにアストルフォの背に手を回した。
「……じゃあ、少しだけ」
「えへへ。少しだけって言う人ほど、ほんとはいっぱい甘えたいんだよ?」
「決めつけるなって」
「当たり?」
「……外れではない」
アストルフォは嬉しそうに肩を揺らした。
その時、路地の入口から鋭い声が飛んだ。
「衛二!」
遠坂凛だった。
赤いコートを翻し、母は怒りと焦りを混ぜた顔で駆け込んでくる。
その隣には衛宮士郎。
年齢を重ねてもなお、鍛え上げられた雰囲気は変わらない。
視線は柔らかいが、状況を見た瞬間、戦闘態勢に入れる眼をしている。
「母さん、父さん」
「令呪の反応が跳ね上がったから来てみれば……あんた、何してるのよ!」
「いや、俺も説明したいんだけど、いろいろ急で」
凛の視線が、衛二に抱きついている桃色のサーヴァントへ移る。
沈黙。
次に士郎も見る。
さらに沈黙。
アストルフォは衛二から離れ、ぱっと手を振った。
「やっほー! 久しぶり、シロウ! リン!」
凛の眉が跳ねた。
「……アストルフォ?」
士郎も目を丸くする。
「本当に、アストルフォなのか?」
「うん! ライダーのアストルフォだよ! えへへ、二人とも元気そうでよかった!」
「……まさか、衛二のサーヴァントとして?」
「そうみたい!」
アストルフォはにこにこしている。
凛はこめかみに手を当てた。
「よりによって……いや、悪いサーヴァントじゃないのは知ってるけど……よりによってこのタイミングで……」
「母さん、知ってるのか?」
「知ってるも何も、昔ちょっとね。色々あったのよ」
凛はアストルフォをじっと見る。
「アストルフォ。確認するけど、衛二に危害を加える気は?」
「ないよ!」
「裏切る気は?」
「ない!」
「衛二を変な方向に連れ回す気は?」
「それは……場合によるかな!」
「即答しなさいよ!」
凛が叫ぶ。
アストルフォはけらけら笑った。
士郎は困ったように笑いながら、衛二の肩に手を置く。
「怪我は?」
「ないよ。アストルフォが助けてくれた」
「そうか」
士郎は安心したように息を吐く。
そして、アストルフォに向かって深く頭を下げた。
「ありがとう。息子を守ってくれて」
アストルフォは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少し照れたように笑う。
「えへへ。どういたしまして。でも、これからはもっと守るよ。だってボクのマスターだもん」
まただ。
ボクのマスター。
衛二の胸が、くすぐったくなる。
凛はそれを見逃さなかった。
「衛二」
「はい」
「顔、赤いわよ」
「寒いからだよ」
「嘘が下手ね。父親似」
「俺を巻き込むなよ、凛」
士郎が苦笑する。
凛はふんと鼻を鳴らした。
「とにかく帰るわよ。ここで話すことじゃない。そこの三人は協会に引き渡す。士郎」
「ああ」
士郎が手際よく魔術師たちを拘束する。
衛二は少女を安全な場所へ運び、凛が記憶処理と治癒を施した。
冬木の夜は、何事もなかったかのように戻っていく。
けれど衛二の左手には、完全に刻まれた令呪があった。
赤い三画の紋様。
それは契約の証。
遠坂衛二が、アストルフォのマスターとなった証だった。
◇
遠坂邸の地下室は、相変わらず空気が重い。
霊脈を制御する宝石炉。
古い召喚陣。
遠坂家の代々の魔術礼装。
封印された書物。
普通の高校生なら一生関わらないようなものが、衛二にとっては家の地下にある日常だった。
ただし、今日はその日常の中に、明らかに異物が混じっている。
「わぁー! すごい! ここ、キラキラしてる!」
アストルフォは地下室を見回しながら、目を輝かせていた。
「これ宝石? こっちも宝石? リンってやっぱり宝石いっぱい持ってるんだね!」
「触らないで。特にそこの赤いのは触ったら爆発するわ」
「爆発する宝石!? かっこいい!」
「かっこよくない!」
凛が頭を抱える。
衛二はその様子を見て、少しだけ笑った。
さっきまで命を狙われていたのに、アストルフォがいるだけで空気が妙に明るくなる。
それは才能だと思った。
魔術でも宝具でもない。
ただそこにいるだけで、人の心を軽くする力。
士郎は召喚陣を調べながら言った。
「衛二の魔力に反応して起動したのは間違いない。ただ、普通の聖杯戦争の形式じゃないな」
「ええ。霊脈の奥に、神杯戦争の残滓が混ざってる」
凛の声は険しい。
「神杯戦争……」
衛二が呟く。
凛は振り返った。
「衛二。あんたも資料は読んだわね?」
「一部だけ。母さんが閲覧制限かけてたところは読めてない」
「当然よ。未成年に見せる内容じゃないもの」
「俺、十八だけど」
「親から見ればまだ子供よ」
凛の言葉は強かった。
衛二は何も言えなくなる。
士郎が静かに続けた。
「神杯戦争は、聖杯戦争よりもずっと歪なものだった。願いを叶える器じゃない。願いそのものを苗床にして、世界へ干渉する仕組みだった」
「願いの畑……」
「ああ」
士郎は頷く。
「そして、それを終わらせた後も、完全には消えなかった。冬木の霊脈に薄く残っている。普段なら問題ない。でも誰かが意図的に掘り返せば、話は別だ」
衛二は左手を見る。
令呪が、じんわりと熱を持っている。
「俺が選ばれたのは、その残滓のせい?」
「可能性は高いわ」
凛が答える。
「遠坂と衛宮。二つの因果を継いでいるあんたは、冬木の霊脈にとって特別な意味を持つ。しかも、その魔力量。普通なら器が耐えられないような召喚にも耐えられる」
「褒められてる気がしない」
「褒めてないもの。心配してるの」
凛の声が少しだけ柔らかくなった。
その瞬間、衛二は母の顔を見た。
魔術師としての遠坂凛ではない。
一人の母親としての凛。
厳しくて、強くて、時々不器用で。
けれど誰よりも家族を大切にする人。
「母さん……」
「いい? 衛二。あんたが強いのは知ってる。投影魔術も、五大元素も、魔力量も、私たちの想像以上よ。でもね、強いことと危険じゃないことは別なの」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってるつもり」
「そこは素直でよろしい」
凛は小さく息を吐いた。
すると、アストルフォがひょこっと衛二の隣に立った。
「大丈夫だよ、リン」
「何が?」
「エイジはボクが守るから」
アストルフォは笑っていた。
けれど、その声には不思議な真剣さがあった。
「無茶しようとしたら止めるし、寂しそうだったらぎゅーするし、泣きそうだったらそばにいる。敵が来たら蹴っ飛ばすし、怖い夢を見たら朝まで手を握ってる」
「……アストルフォ」
「だから大丈夫。ボク、マスターを一人にしないよ」
地下室が静かになった。
凛はしばらくアストルフォを見つめていた。
やがて、ふっと肩の力を抜く。
「……そこまで言うなら、頼むわ」
「うん!」
「ただし」
凛の目が鋭くなる。
「衛二に変なことしたら、宝石剣の試し斬りにするから」
「母さん!?」
「えー、変なことってどこから?」
「質問しない!」
アストルフォは笑った。
衛二は顔が熱くなるのを感じた。
するとアストルフォが、また下から覗き込んでくる。
「エイジ、照れてる?」
「照れてない」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、ぎゅーしても平気?」
「なんでそうなる」
「照れてないなら平気かなって」
「理屈がおかしい」
「でも、嫌じゃないでしょ?」
衛二は言葉に詰まった。
嫌ではない。
むしろ。
むしろ、さっきの抱擁の感覚が、まだ身体に残っている。
戦闘後の冷たさを溶かすような温度。
真っ直ぐに自分へ向けられる好意。
守ると言ってくれた声。
衛二は視線を逸らした。
「……今は、父さんと母さんがいるから」
「じゃあ、あとで?」
「……あとでなら」
アストルフォの表情がぱあっと輝いた。
「約束だよ!」
「声が大きい!」
凛がじろりと衛二を見る。
士郎は微妙に目を逸らしている。
「衛二」
「はい」
「青春するなとは言わないわ」
「母さん」
「でも地下室ではやめなさい」
「してない!」
衛二の叫びが、遠坂邸の地下に響いた。
◇
その夜。
衛二は自室のベッドに座り、左手の令呪を見つめていた。
窓の外には冬木の夜景。
遠くに見える橋。
街灯の連なり。
黒い空に浮かぶ月。
今日一日で、世界が変わった。
朝は普通に学校へ行った。
授業を受けて、友人と話して、弓道場に寄って、帰るだけのはずだった。
それなのに今、自分はマスターになっている。
しかもサーヴァントは、アストルフォ。
桃色髪の可愛すぎる騎士。
「……どうなってるんだ、ほんと」
呟くと、部屋の扉が軽くノックされた。
「エイジ、入っていい?」
アストルフォの声。
衛二は少しだけ背筋を伸ばした。
「いいよ」
扉が開く。
アストルフォは寝間着代わりなのか、少しゆったりした服を着ていた。
桃色の髪はほどかれていて、昼間より柔らかく肩に落ちている。
可愛い。
本日何度目か分からない感想が、また衛二の頭を埋め尽くした。
「どうした?」
「んー、マスターの様子を見に来た!」
「俺は平気だよ」
「それ、平気じゃない人がよく言うやつ」
アストルフォは遠慮なく部屋に入り、衛二の隣に座った。
ベッドが少し沈む。
距離が近い。
肩が触れそうで、触れない。
「……アストルフォってさ」
「うん?」
「誰にでも、そういう感じなのか?」
「そういう感じ?」
「距離が近いっていうか。抱きついたり、名前で呼んだり、守るって言ったり」
言いながら、衛二は自分で恥ずかしくなった。
まるで嫉妬しているみたいだ。
召喚されたばかりなのに。
今日会ったばかりなのに。
アストルフォはしばらく目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。
「エイジ、気になる?」
「……質問に質問で返すな」
「ふふー。じゃあ答えるね」
アストルフォは少しだけ身体を寄せた。
「ボクはね、好きだなって思った人には近いよ。困ってたら助けたいし、寂しそうならぎゅーしたい。そういうの、我慢するの苦手なんだ」
「だろうな」
「でもね」
アストルフォは衛二の左手にそっと触れた。
令呪の上に、細い指が重なる。
「マスターだから近いんじゃないよ」
「え?」
「エイジだから、近くにいたいんだよ」
心臓が大きく跳ねた。
アストルフォの声は軽やかなのに、その言葉だけは逃げ場がないくらい真っ直ぐだった。
「今日会ったばっかりだけどね。ボク、分かるんだ。エイジは優しい。すごく強いのに、自分のことより先に誰かを助けに行く。怖くても、危なくても、止まれない」
「それは……父さんに似ただけだよ」
「うん。きっとそう。でも、エイジはエイジだよ」
アストルフォは衛二の手を両手で包んだ。
「君の手、あったかいね」
「アストルフォの方があったかい」
「じゃあ、おあいこだ」
笑顔。
その笑顔が眩しくて、衛二は胸が苦しくなる。
戦闘とは違う。
魔術とも違う。
解析できない。
投影できない。
この感情に名前をつけるには、まだ早すぎるのかもしれない。
けれど、確かにそこにあった。
「……アストルフォ」
「なあに?」
「さっきの約束」
「ぎゅー?」
「……うん」
衛二が小さく頷くと、アストルフォは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、花が咲くみたいに笑った。
「もちろん!」
アストルフォは衛二を抱きしめた。
今度は路地裏の時よりも、ずっと静かな抱擁だった。
勢いではない。
冗談でもない。
そっと包み込むように。
衛二の不安ごと、今日の戦いごと、左手に刻まれた運命ごと抱きしめるように。
「エイジ、頑張ったね」
その一言で、衛二の胸が詰まった。
「……まだ何もしてない」
「したよ。怖い場所に行った。誰かを助けた。ちゃんと帰ってきた。すごいよ」
「そんなの、当たり前だ」
「当たり前にできるのが、すごいんだよ」
アストルフォの手が、衛二の背中を優しく撫でる。
「だから今は、ちょっとだけ甘えていいよ」
衛二は目を伏せた。
父も母も、衛二を愛してくれている。
それは分かっている。
けれど二人は強い。
あまりにも強く、正しく、眩しい。
その背中を追うことは誇りだった。
同時に、時々苦しかった。
遠坂凛の息子として。
衛宮士郎の息子として。
遠坂家次期当主として。
期待されることに慣れていた。
強いと言われることにも慣れていた。
でも。
頑張ったね、と抱きしめられることには、慣れていなかった。
「……少しだけ」
「うん」
「このままで、いい?」
「いいよ」
アストルフォは優しく答えた。
「エイジが眠くなるまで、こうしてる」
「サーヴァントって寝るのか?」
「寝なくても平気。でも、エイジが寝るなら一緒に寝る」
「それはまずいだろ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「ボク、マスターのサーヴァントだよ? 護衛だよ? 夜も近くにいた方が安全!」
「その理屈で押し切る気か?」
「だめ?」
アストルフォが見上げてくる。
甘えるような瞳。
でも、その奥には確かな覚悟がある。
衛二は負けた。
「……母さんに見つかったら、俺が怒られる」
「じゃあ、見つからないようにする?」
「そういう問題じゃない」
「ふふっ」
アストルフォは楽しそうに笑う。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、エイジ」
「ん?」
「怖い?」
衛二はすぐには答えられなかった。
怖い。
そう言えばよかったのかもしれない。
けれど、自分がその言葉を口にしていいのか分からなかった。
遠坂家次期当主。
衛宮士郎の息子。
強大な投影魔術と五大元素を持つ魔術師。
怖いなんて言ったら、何かが崩れる気がした。
でもアストルフォの腕の中では、少しだけ弱くなっても許される気がした。
「……怖くないって言ったら、嘘になる」
「うん」
「何が始まってるのか分からない。神杯戦争の残り香だって母さんは言ってたけど、俺にはまだ全然見えてない。俺が選ばれた理由も、敵が何をしたいのかも」
「うん」
「でも、一番怖いのは……父さんや母さんを巻き込むことだ」
アストルフォは黙って聞いていた。
「俺がマスターになったせいで、またこの街が戦場になるなら……俺は」
「エイジ」
アストルフォの指が、衛二の唇にそっと触れた。
言葉を止めるように。
「一人で背負わないこと」
「……」
「それ、ボクとの最初の約束にしよ?」
「約束?」
「うん。エイジは一人で全部背負わない。怖い時は怖いって言う。甘えたい時は甘える。無茶する時は、せめてボクに一言相談する」
「最後のは止める前提じゃないのか」
「だってエイジ、止めても行きそうだもん」
「否定できない……」
「だから、相談して。一緒に行くから」
アストルフォは笑う。
「ボクはね、エイジの剣にも盾にもなる。でもそれだけじゃないよ。エイジがちゃんと笑えるように、隣にいる」
衛二は目を細めた。
「アストルフォは、すごいな」
「えへへ。もっと褒めていいよ?」
「可愛い」
「それも嬉しい!」
「強い」
「うんうん!」
「優しい」
「……それは、ちょっと照れるなあ」
アストルフォが頬を染める。
その反応があまりにも可愛くて、衛二は思わず笑った。
「照れるんだ」
「照れるよ! エイジが真面目に言うから!」
「じゃあ、もっと言う」
「えっ」
「アストルフォは可愛い。すごく可愛い。あと、見てるだけで元気になる。今日来てくれて、本当に助かった」
アストルフォの顔がどんどん赤くなっていく。
衛二は少しだけ楽しくなった。
さっきまで自分が翻弄されていた分、少しだけ仕返ししたい気持ちもあった。
「それから」
「ま、待ってエイジ、そんなに褒められるとボク、変になっちゃう!」
「変って?」
「ぎゅーってしたくなる!」
「もうしてる」
「もっと!」
アストルフォは衛二をさらに強く抱きしめた。
衛二は笑いながら受け止める。
けれど次の瞬間、アストルフォが少しだけ顔を上げた。
距離が近い。
吐息が触れそうなほど。
衛二の笑いが止まる。
「……エイジ」
アストルフォの声が、少しだけ小さくなる。
「契約の確認、してもいい?」
「確認?」
「うん。マスターとサーヴァントの。ボクがエイジを守るっていう、しるし」
衛二は左手を見る。
令呪はもう刻まれている。
「令呪なら」
「それとは別」
アストルフォはいたずらっぽく笑った。
衛二の心臓が、嫌なほど大きく鳴る。
「……別って?」
「こういうの」
アストルフォは、そっと衛二の頬に唇を触れさせた。
軽いキス。
ほんの一瞬。
けれど、衛二の時間はそこで止まった。
頬に残った温度が、魔術回路より熱い。
アストルフォは少し照れたように笑う。
「契約完了。なんてね」
「……アストルフォ」
「嫌だった?」
不安そうな声。
それを聞いた瞬間、衛二は首を横に振った。
「嫌じゃない」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ……もう一回してもいい?」
衛二の呼吸が止まる。
アストルフォの瞳は、さっきより少し潤んで見えた。
ふざけているようで、ふざけていない。
甘えているようで、ちゃんと衛二の答えを待っている。
だから衛二も、ちゃんと答えた。
「……頬なら」
「うん!」
アストルフォは嬉しそうに笑い、もう一度、衛二の頬にキスをした。
今度は少しだけ長く。
柔らかくて、温かくて、優しい。
衛二は目を閉じた。
胸の奥にあった不安が、完全に消えたわけではない。
神杯戦争の残滓。
冬木の霊脈の異常。
謎の魔術師たち。
これから始まるであろう戦い。
何一つ解決していない。
でも今だけは。
この一瞬だけは。
桃色の騎士がくれる温もりに、少しだけ甘えてもいいと思った。
「エイジ」
「ん?」
「明日から、いっぱい大変になるかもしれないね」
「そうだな」
「でも大丈夫」
アストルフォは衛二の手を握った。
「ボクがいるよ」
衛二はその手を握り返した。
「ああ」
窓の外で、冬木の夜が静かに揺れている。
遠くの霊脈が、微かに鳴った。
まるで新しい戦いの始まりを告げる鐘のように。
けれど衛二は、もう一人ではない。
桃色の髪を揺らす、可愛くて、明るくて、誰よりも真っ直ぐな騎士が隣にいる。
遠坂衛二は左手の令呪を見つめた。
そして小さく呟く。
「よろしく、アストルフォ」
「うん!」
アストルフォは満面の笑みで答えた。
「よろしくね、エイジ!」
その笑顔は、冬木の長い夜に落ちた月虹のようだった。
聖杯でもなく。
神杯でもなく。
呪いでもなく。
ただ、誰かを守りたいという願いから始まる、新しい契約。
数十年後の冬木に、また物語が動き出す。
けれど今回は、悲劇だけでは終わらない。
遠坂衛二とアストルフォ。
マスターとサーヴァント。
少年と騎士。
そして、まだ名前のない甘い絆。
二人の物語は、この夜から始まった。
冬木の空に、桃色の星が落ちた夜から。
◇
翌朝。
遠坂邸の朝食の席で、凛は新聞を片手に固まっていた。
士郎は味噌汁をよそいながら、何とも言えない顔をしている。
衛二は目の前の焼き魚を見つめていた。
そしてその隣では、アストルフォが当然のように座っている。
「エイジ、卵焼き食べる?」
「食べるけど、自分で取れる」
「だーめ。昨日頑張ったマスターには、ボクが取ってあげるの」
「朝から甘やかしすぎだろ」
「甘やかせる時に甘やかすのが大事なんだよ?」
アストルフォは箸で卵焼きを取り、衛二の皿へ乗せた。
さらに少し考えたあと、にこっと笑う。
「あーんする?」
「しない!」
「えー」
「父さんと母さんの前!」
「じゃあ、いないところなら?」
「そういう問題じゃない!」
凛の手元で新聞がぐしゃっと鳴った。
「衛二」
「はい」
「昨日、地下室ではやめなさいって言ったわよね」
「朝食の席でもしてない!」
「してるように見えるのよ!」
アストルフォは楽しそうに笑った。
「リン、安心して。ボク、エイジのこと大事にするから」
「その言い方が一番安心できないのよ!」
士郎は味噌汁を置きながら、少しだけ笑った。
「まあ、凛。アストルフォなら悪いようにはしないさ」
「士郎、あなたは甘い」
「そうかな」
「甘いわ。衛二にも、この子にも」
凛はそう言いながらも、アストルフォの皿にも卵焼きを乗せた。
アストルフォの目が輝く。
「リン、ありがと!」
「別に。サーヴァントでも食べられるなら食べなさい。衛二の魔力だけに頼られるのも困るし」
「凛ってやっぱり優しいよね!」
「うるさいわね」
凛はそっぽを向く。
その耳が少し赤い。
衛二は思わず笑った。
こんな朝が来るとは思わなかった。
サーヴァントが食卓にいて。
父と母がいて。
まだ危険は消えていないのに、妙に温かい朝。
その時、アストルフォが衛二の袖を引いた。
「エイジ」
「ん?」
「今日、学校行くんだよね?」
「まあ、行くけど」
「ボクも行く!」
「……は?」
衛二の箸が止まった。
凛も止まった。
士郎も止まった。
アストルフォだけが、きらきらした顔で続ける。
「マスターの護衛だもん。学校にもついていくよ!」
「いや、無理だろ。サーヴァントが学校に来るのは」
「霊体化すれば平気!」
「平気じゃない。俺の心臓が平気じゃない」
「じゃあ実体化して転校生になる?」
「もっと無理!」
凛が頭を抱えた。
「……始まったわね」
士郎が苦笑する。
「何が?」
「アストルフォに日常を引っかき回される生活よ」
アストルフォはにこにこしている。
衛二は深いため息をついた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
大変なことになる。
絶対になる。
学校でも、家でも、戦いでも。
アストルフォはきっと、衛二の日常に遠慮なく飛び込んでくる。
笑顔で。
全力で。
可愛すぎるくらいに眩しく。
そして衛二は、たぶんそれを拒めない。
「……霊体化で、静かにしてるなら」
「やった!」
「授業中に話しかけるなよ」
「努力する!」
「それ、絶対話しかけるやつだろ」
「だってエイジのこと見てたら、応援したくなるかもしれないし」
「テスト中は絶対やめろ」
「答え教えようか?」
「サーヴァントにカンニングさせられるマスターって嫌すぎる」
朝食の席に笑いが落ちる。
その温度を、衛二は忘れないだろうと思った。
この先、何が起きても。
冬木の夜がまた戦場になっても。
神杯戦争の残滓が牙を剥いても。
遠坂家次期当主として苦しい選択を迫られても。
この朝の温かさが、自分の帰る場所になる。
そして隣には、桃色の騎士がいる。
「エイジ」
アストルフォが笑う。
「今日も一日、ボクが守ってあげるね」
衛二は少し照れながら、でも確かに頷いた。
「ああ。頼りにしてる」
アストルフォは嬉しそうに身を乗り出した。
「じゃあ、行く前にぎゅーしていい?」
「朝食中!」
「食後なら?」
「……食後なら」
「約束!」
凛がまた新聞を握り潰しそうになり、士郎が苦笑する。
冬木の朝は騒がしい。
けれど、それはきっと悪いことではない。
かつて数々の願いと別れを飲み込んだ街で。
遠坂衛二とアストルフォの甘く騒がしい契約生活が、今、始まる。
そして誰もまだ知らない。
この契約が、やがて神杯戦争の残響を越え、冬木に残された最後の願いへ辿り着くことを。
桃色の騎士が、遠坂家の少年に寄り添い続けることを。
そして遠坂衛二が、父を超える投影と、母を超える五大元素をもって、愛するサーヴァントのために世界の理すら書き換える日が来ることを。
物語はまだ、始まったばかりだ。
冬木の空に、月虹が架かる。
その下で、アストルフォは衛二の手を握った。
「ね、エイジ」
「今度は何?」
「ボク、君のマスターになれてよかった」
「逆だろ。俺がマスターで、アストルフォがサーヴァント」
「細かいことはいいの!」
アストルフォは笑って、衛二の肩に軽く寄りかかった。
「だって、ボクの心はもう、エイジに召喚されちゃったんだから」
衛二は返事に困った。
困って、照れて、最後には小さく笑った。
「……朝からずるいな」
「えへへ。ずるくて可愛いライダーだからね!」
その言葉に、衛二は負けたように笑った。
外では冬の風が吹いている。
だが遠坂邸の食卓だけは、春みたいに温かかった。
そしてその温かさこそが、これから始まる新たな戦いにおいて、衛二が守りたいと願うものになる。
聖杯ではない。
神杯でもない。
奇跡でも、魔法でもない。
ただ一人のサーヴァントが笑ってくれる朝。
ただ一人の騎士が、隣で「大丈夫」と言ってくれる時間。
遠坂衛二はその日、初めて思った。
この契約は、運命かもしれない。
そしてアストルフォは、そんな衛二の心を見透かしたように、もう一度だけ笑った。
「行こう、エイジ」
「ああ」
「今日からずっと、一緒だよ」
冬木の物語は、再び動き出した。
今度は、桃色の甘い光を連れて。