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#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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第二話 霊体化ライダーは、授業中でも甘やかしたい
朝の冬木は、昨日と同じ顔をしていた。
澄み切った冬空。
坂道を下る学生たち。
穂群原学園へ向かう制服の波。
コンビニの前で肉まんを頬張る男子生徒。
赤信号で足踏みしながら単語帳をめくる女子生徒。
誰も知らない。
昨夜、路地裏で魔術師たちが倒され、遠坂家の地下で神杯戦争の残滓が再び語られたことを。
誰も知らない。
遠坂衛二の左手に、令呪が刻まれたことを。
誰も知らない。
そして今、その遠坂衛二の隣を、桃色髪の可愛すぎる英霊が霊体化して歩いていることを。
『エイジ、エイジ』
耳元で声がする。
実際には耳元ではない。
霊体化したアストルフォは、衛二のすぐ横にいる。
視認できるのはマスターである衛二だけ。
ただし声は、契約を通じて衛二の意識へ直接響いていた。
『学校って久しぶり! うわー、みんな制服だ! あの子、パンくわえて走ってる! 本当にいるんだね、そういう人!』
「……アストルフォ」
衛二は小声で言った。
『なあに?』
「頼むから、授業が始まる前にテンション使い切ってくれ」
『えー? まだまだ元気だよ?』
「それが不安なんだ」
衛二は赤いマフラーに口元を隠しながら、校門へ向かった。
周囲から見れば、彼は少し眠そうな普通の高校三年生に見えるだろう。
だが実際には、内側でサーヴァントと会話しながら登校している。
しかもそのサーヴァントが、アストルフォだ。
理性が蒸発していると評されることもある、自由すぎる騎士。
底抜けに明るく、距離感が近く、可愛く、そして何より衛二を甘やかす気満々のライダー。
朝食後。
アストルフォは本当に、出発前の玄関で衛二に「契約継続確認のぎゅー!」と言いながら抱きついてきた。
父の士郎は苦笑していた。
母の凛は額に手を当てていた。
そしてアストルフォは、凛に向かって満面の笑みでこう言った。
『安心して、リン! エイジはボクが朝から晩まで、ちゃーんと見守るから!』
凛の返答は鋭かった。
『見守るのはいいけど、授業中に騒がない。廊下で実体化しない。衛二を変な意味で動揺させない。あと頬へのキスは人前禁止』
衛二はその時点で顔を覆った。
なぜ昨日の夜のことが母にばれているのか。
遠坂家の監視結界なのか。
母親の勘なのか。
どちらにしても恐ろしい。
アストルフォは、まったく悪びれずに答えた。
『人前じゃなければいいんだね!』
『そういう意味じゃないわよ!』
そんな朝を経て、今である。
『エイジ、あの校門すごいね。歴史ある感じ!』
「穂群原は父さんと母さんの母校でもあるからな」
『シロウとリンの? じゃあ、ここに若い頃の二人がいたんだ。へえー』
アストルフォの声が少し柔らかくなる。
『不思議だね。昔会った人たちの子どもが、今はボクのマスターなんだ』
「……そういうの、英霊でも不思議に思うんだな」
『思うよ。ボクだって、ちゃんと感じるもん』
その声がやけに優しくて、衛二は一瞬だけ足を緩めた。
アストルフォは自由だ。
騒がしくて、明るくて、何を考えているか分からない時もある。
でも、時々こうして驚くほど静かに、心の柔らかい部分へ触れてくる。
衛二はそのたびに、昨日会ったばかりのサーヴァントに心を預けそうになる自分に戸惑った。
「遠坂!」
背後から声がした。
衛二が振り返ると、同じクラスの男子生徒――柳洞悠馬が走ってきた。
柳洞寺の縁者で、穂群原学園三年。
眼鏡をかけた真面目な青年で、生徒会に所属している。
魔術とは無縁の一般人……のはずだが、冬木に住む者らしく、時折妙に勘が鋭い。
「おはよう。今日、珍しく早いな」
「おはよう、柳洞。早いって言っても普通だろ」
「遠坂にとっては早い。いつも予鈴三分前に涼しい顔で来るじゃないか」
「それは効率的登校って言うんだ」
「遅刻寸前登校だ」
『エイジ、友達?』
アストルフォがすぐ隣で興味津々に覗き込む。
衛二は返事をしかけて、慌てて黙った。
今、声に出したら完全に不審者だ。
柳洞が少し首を傾げる。
「どうした?」
「いや、何でもない」
「そうか? なんか今日、雰囲気違うな」
「そうか?」
「ああ。寝不足というより……何だろうな。誰かと一緒にいるみたいな顔をしている」
衛二は内心でぎくりとした。
勘が鋭すぎる。
『すごいね、この人! ボクのこと分かるのかな?』
「いや、まさか」
「ん?」
「何でもない」
衛二は歩き出した。
柳洞も隣に並ぶ。
「そういえば昨日、冬木大橋近くで何かあったらしいな。警察車両を見たって噂がある」
「へえ」
「反応が薄いな。遠坂の家、あっちの方に近いだろう?」
「ただの事故じゃないか」
「そうだといいが」
柳洞は真面目な顔で言った。
「最近、街の空気が変だ。寺でも、父が妙なことを言っていた」
「妙なこと?」
「夜中に鐘が鳴った気がした、と」
衛二の足が止まりかけた。
鐘。
昨日、召喚の瞬間に聞こえた音。
神杯戦争の残響が目覚めるような、あの音。
『エイジ』
アストルフォの声も少しだけ低くなる。
『今の、聞き流さない方がいいかも』
「……そうだな」
「遠坂?」
「あ、いや。柳洞、その鐘っていつ?」
「昨夜だ。正確には午後七時四十分頃らしい」
ほぼ、アストルフォが召喚された時刻。
衛二は表情を変えないように努めた。
「そうか。気にしておく」
「遠坂がそう言うと、妙に本当に何かありそうで怖いな」
「俺はただの高校生だよ」
「ただの高校生は、そんな落ち着いた顔で言わない」
柳洞は肩をすくめた。
校舎へ入る。
昇降口は生徒たちで賑わっていた。
靴箱の前で友人同士が話し、廊下から笑い声が流れてくる。
日常。
昨日の夜が嘘のような日常。
衛二は靴を履き替えながら、左手の甲を見た。
令呪は包帯と簡易隠蔽術式で隠している。
だが熱はある。
まるで見えない何かが、校舎の奥から衛二を呼んでいるようだった。
『エイジ』
「何だ?」
『ここ、ちょっと変』
アストルフォの声から、さっきまでの弾むような調子が消えていた。
『まだ薄いけど、魔力が残ってる。人の願いとか、後悔とか、そういうのをかき集めたみたいな感じ』
「神杯戦争の残滓か?」
『たぶん。ボク、あの時の全部を知ってるわけじゃないけど……これは普通の聖杯とは違う匂いがする』
衛二は廊下の奥を見る。
何もない。
普通の学校だ。
だが、普通の学校であるはずの場所に、普通ではない気配が混じっている。
「……昼休みに調べる」
『ボクも手伝う!』
「授業中は大人しくしてろよ」
『努力する!』
「その努力、信用していいのか?」
『半分くらい!』
「低いな」
◇
一時間目は現代文だった。
教師が黒板に文章の構成を書いていく。
衛二はノートを取りながら、必死に平静を保っていた。
なぜなら。
『エイジ、漢字きれいだね』
「……」
『字、シロウに似てる? それともリン?』
「……」
『ねえねえ、今の文章どういう意味? 人間って比喩好きだよね。ボクも好きだけど!』
「……」
『エイジ、無視? えー、寂しい』
霊体化したアストルフォが、机の横にしゃがみ込んでいる。
見えない。
聞こえない。
他の生徒には存在すら分からない。
だが衛二には見える。
聞こえる。
しかもアストルフォは、可愛い。
頬杖をつきながらこちらを見上げている。
桃色の髪がふわりと揺れている。
授業中にもかかわらず、まるで「かまって」と全身で言っている。
集中できるわけがない。
衛二はノートの端に小さく書いた。
『静かに』
アストルフォはそれを見て、にこっと笑った。
そして霊体のまま、机の上に指で文字を書く真似をした。
『はーい』
次の瞬間、アストルフォは衛二の肩に頬を寄せるようにして、ふわっと近づいてきた。
触れていない。
霊体だから物理的な接触はない。
それなのに、契約を通じて温度のようなものが伝わってくる。
衛二はペンを握る手に力を入れた。
『エイジ』
「……」
『授業、頑張っててえらいね』
それは反則だった。
何でもない一言のはずなのに、胸の奥が温かくなる。
衛二はノートへ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
昨日の夜から、アストルフォは衛二を甘やかす。
戦闘で頑張った。
朝起きてえらい。
ちゃんとご飯を食べてえらい。
学校に来てえらい。
授業を受けていてえらい。
甘やかしの基準が低い。
けれど、それが不思議と嫌ではない。
衛二はずっと、遠坂家次期当主として見られてきた。
優秀で当然。
強くて当然。
冷静で当然。
頑張ることは、評価されるものではなく義務だった。
だから、授業を受けているだけで「えらい」と言われると、心が妙にくすぐったくなる。
『エイジ、照れてる?』
衛二はノートに力強く書いた。
『うるさい』
『えへへ。照れてる時の字、ちょっと濃い』
このサーヴァント、厄介すぎる。
衛二は内心でそう思った。
しかし口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
その時。
教室の窓が、かすかに震えた。
誰も気づかない程度の振動。
だが衛二とアストルフォは同時に反応した。
空気が、冷えた。
現代文の教師の声が、遠くなる。
教室の隅。
黒板横の掲示板。
そこに貼られた進路希望調査の紙が、一枚だけ不自然に揺れている。
風はない。
窓も閉まっている。
衛二は魔力を目に集めた。
見えた。
薄い糸。
黒とも灰色ともつかない魔力の糸が、掲示板から床を這い、廊下へ伸びている。
『エイジ』
『分かってる』
衛二はノートの端に魔術式を書き込む。
ただの落書きに見えるように偽装しながら、五大元素の空を使って探査の術式を組む。
糸は廊下を抜け、階段を下り、旧校舎の方へ伸びていた。
穂群原学園の旧校舎。
今はほとんど使われていない、古い木造の区画。
父と母が通っていた頃から残る場所。
そこには、冬木の霊脈の細い支流が通っている。
「……」
衛二は表情を変えなかった。
授業中に飛び出すわけにはいかない。
ここで騒ぎを起こせば、一般生徒を巻き込む。
アストルフォもそれを理解したのか、珍しく黙っている。
ただ、衛二の手の上に、霊体の手をそっと重ねてきた。
触れてはいない。
でも、伝わる。
大丈夫。
ボクがいる。
そんな声にならない声が。
衛二は静かに頷いた。
◇
昼休み。
衛二は弁当箱を手に、教室を出た。
「遠坂、食堂行かないのか?」
柳洞が声をかけてくる。
「今日は屋上で食べる」
「寒いぞ」
「冷たい空気で頭を冷やしたい気分なんだ」
「受験生みたいなことを言うな。実際受験生だが」
「柳洞は?」
「生徒会室だ。昼休みに資料整理がある」
「真面目だな」
「誰かがやらないと終わらないからな」
柳洞はそう言って歩いていった。
衛二はそれを見送り、廊下の角を曲がる。
屋上へ向かうふりをして、旧校舎へ続く渡り廊下へ入った。
『エイジ、今なら大丈夫。人はいないよ』
「結界は?」
『薄いのが一枚。人払いじゃなくて、見落としの術式かな。普通の人はここに来ようと思わなくなる感じ』
「なら、俺たち向けの罠か」
『だと思う』
アストルフォの声が真剣になる。
『エイジ、無茶しないでね』
「しない」
『ほんと?』
「……なるべく」
『ほらー!』
衛二は少しだけ笑った。
「相談してから無茶するって約束だろ」
『そうだけど! できれば無茶そのものを減らしてほしい!』
「努力する」
『半分くらい?』
「七割くらい」
『残り三割が怖いよ、ボク』
そんな会話をしながら、衛二は旧校舎の扉を開けた。
軋む音。
古い木の匂い。
薄暗い廊下。
窓から差し込む冬の光。
そこは、時間から取り残されたような場所だった。
衛二は幼い頃、父に連れられて一度だけこの旧校舎に来たことがある。
その時、士郎は廊下の奥を見ながら、懐かしそうに言った。
『ここにも、色々あったんだ』
詳しいことは話してくれなかった。
けれど衛二には分かった。
父の「色々」は、本当に色々なのだ。
きっと普通の高校生活だけではない。
命懸けの戦いも、出会いも、別れも、その言葉には含まれている。
「……父さんたちも、ここを歩いたんだよな」
『うん』
アストルフォが隣で実体化した。
旧校舎には誰もいない。
気配もない。
だからだろう。
桃色の髪が、薄暗い廊下にふわりと灯る。
「わぁ……古いけど、いい場所だね」
「怖くないのか?」
「怖い場所っていうより、思い出がいっぱい染み込んでる場所って感じ」
アストルフォは廊下を見渡した。
「でも、その中に変なものが混じってる」
衛二も頷く。
黒い魔力の糸は、廊下の奥へ伸びている。
二人は並んで歩いた。
床板がかすかに鳴る。
アストルフォは実体化しているせいで、衛二のすぐ隣に気配がある。
肩が触れそうな距離。
戦闘前の緊張感があるはずなのに、衛二は変に落ち着いていた。
たぶん、隣にアストルフォがいるからだ。
「エイジ」
「ん?」
「手、繋ぐ?」
「何で?」
「罠があった時、すぐ引っ張れるから」
「本音は?」
「繋ぎたいから!」
即答だった。
衛二は呆れた。
「戦闘前だぞ」
「だからだよ。怖くならないように」
「アストルフォが?」
「ううん。エイジが」
衛二は言葉に詰まった。
アストルフォは笑っている。
でも、その瞳は優しい。
衛二は少し迷ったあと、左手を差し出した。
「……少しだけな」
「うん!」
アストルフォは嬉しそうに手を握った。
柔らかく、温かい。
その手の感触だけで、旧校舎の薄暗さが少し和らいだ気がした。
「エイジの手、やっぱりあったかいね」
「昨日も言ってた」
「何回でも言うよ。好きなところは、何回言ってもいいから」
「……好きなところ?」
「うん」
アストルフォは何でもないことのように言った。
「エイジの手、好きだよ。強いのに、ちゃんと誰かを助けるために伸ばせる手だから」
衛二は黙った。
ずるい。
このサーヴァントは本当にずるい。
可愛くて、明るくて、距離感がめちゃくちゃで。
そのくせ、時々こうして核心を突いてくる。
「……そんな大したものじゃない」
「大したものだよ」
「俺は、父さんみたいに正義の味方になりたいわけじゃない」
「うん」
「母さんみたいに完璧な魔術師になりたいわけでもない」
「うん」
「ただ、目の前で誰かが傷つくのが嫌なだけだ」
「それでいいんじゃない?」
アストルフォは笑った。
「理由が大きくなくても、手を伸ばせるなら、それはすごく素敵だよ」
衛二は返事をしなかった。
代わりに、握った手に少しだけ力を込めた。
アストルフォも握り返してくる。
それが返事のようだった。
廊下の突き当たり。
旧音楽室の扉の前で、黒い糸は止まっていた。
衛二は弁当箱をそっと廊下に置く。
アストルフォが肩の力を抜き、いつでも動ける体勢になる。
「開ける」
「うん。ボクが先に入る?」
「俺が開ける。アストルフォは右を見てくれ」
「了解、マスター」
その呼び方に、衛二の胸が少しだけ熱くなった。
衛二は扉に手をかける。
魔力を流し、罠を確認。
扉そのものに術式はない。
だが部屋の中に、何かいる。
衛二は扉を開けた。
旧音楽室の中は、薄暗かった。
埃をかぶった机。
使われなくなった譜面台。
壁際の古いピアノ。
そして中央に、黒い小さな杯が浮かんでいた。
聖杯ではない。
神杯でもない。
だが、それは明らかに杯の形をしていた。
ひび割れた黒い器。
中には液体ではなく、薄い光の粒が渦巻いている。
「……何だ、あれ」
衛二が呟いた瞬間。
杯の中から、声がした。
『――願いを、返して』
少女の声。
悲しそうで、寂しそうで、今にも消えそうな声。
アストルフォが一歩前に出る。
「エイジ、近づきすぎないで」
「分かってる」
衛二は魔術回路を起動した。
解析。
構造把握。
杯の表層には、いくつもの願望が絡みついていた。
受験に合格したい。
友達と仲直りしたい。
親に認められたい。
好きな人に振り向いてほしい。
明日が来てほしい。
明日なんて来なければいい。
学園にいる生徒たちの、些細で切実な願い。
それらが薄く吸い上げられ、杯の中で混ざっている。
神杯戦争の残滓。
願いを苗床にする仕組み。
その小さな再現。
「趣味が悪い」
衛二の声が低くなる。
アストルフォも表情を引き締めた。
「これ、放っておいたら?」
「たぶん、学園中の感情を吸う。弱い生徒から倒れるかもしれない」
「壊せる?」
「普通に壊すと、中の願いが弾ける。精神汚染になるかもしれない」
「じゃあ、どうする?」
衛二は目を細めた。
「分解する。願いと術式を切り離して、霊脈に戻す」
「できる?」
「やる」
衛二は右手を上げた。
「投影、開始」
彼の手に現れたのは、短剣だった。
宝具ではない。
父が使った名もなき刃でもない。
衛二自身が設計した、術式解体用の投影礼装。
見た目は白銀の短剣。
刃には五大元素の回路が刻まれている。
衛二はそれを杯へ向けた。
その瞬間、杯が震えた。
『いや』
声。
『消えたくない』
杯の中から、黒い影が伸びる。
人の形。
顔はない。
ただ、学園の制服を着た誰かの輪郭だけがある。
影は衛二に向かって手を伸ばした。
『願いを、叶えて』
衛二の脳裏に、いくつもの声が流れ込んでくる。
合格したい。
勝ちたい。
認められたい。
愛されたい。
忘れられたくない。
戻りたい。
消えたい。
助けて。
「っ……」
衛二の膝が揺れる。
強い魔術攻撃ではない。
これは感情の波だ。
人間の中にある弱さ、寂しさ、願い、後悔。
それらを直接流し込まれる。
衛二は歯を食いしばった。
ここで押し負ければ、杯に取り込まれる。
「エイジ!」
アストルフォが衛二を抱き寄せた。
片腕で衛二の肩を支え、もう片方の手で黒い影を弾く。
「こっち見て!」
「アストルフォ……」
「大丈夫。今ここにいるのは、エイジだよ。誰かの願いじゃない。誰かの後悔でもない」
アストルフォの声が、真っ直ぐに届く。
「ボクのマスター。遠坂衛二。優しくて、強くて、ちょっと無茶する、あったかい手の男の子」
「……男の子って」
「男の子だよ。十八歳でも、時々ぎゅーが必要な男の子」
こんな時に何を言っているんだ。
そう思ったのに。
衛二は笑ってしまった。
笑った瞬間、流れ込んでいた声が少し遠のく。
アストルフォはにっと笑った。
「ほら、戻ってきた」
「ああ。助かった」
「じゃあ、もう一回いける?」
「いける」
衛二は短剣を握り直した。
アストルフォが隣に立つ。
今度は手を繋がない。
肩を支えることもしない。
ただ隣にいる。
それだけで十分だった。
「解析、再開」
衛二の瞳に魔力が灯る。
杯の構造を読む。
外殻は神杯戦争の残滓。
内側に学園の生徒たちの願望。
中心に、古い術式の核。
術式の署名は、知らない。
だが、その奥に奇妙な記号がある。
日蝕。
月輪。
砕けた杯。
そして、沈黙する冠。
「沈黙冠……」
衛二が呟いた瞬間、杯の震えが強くなった。
『その名を呼ぶな』
声が変わった。
少女ではない。
男とも女ともつかない、乾いた声。
『神杯は砕けた。だが願いは死なない。願いは土に残り、芽吹き、また器を求める』
「誰だ」
『遠坂と衛宮の子。お前は良い器だ』
衛二の背筋が冷える。
『魔術師の血。正義の残響。五大元素。投影。魔法使いに届く魔力量。お前ならば、新しい杯になれる』
「断る」
即答だった。
衛二は短剣を構える。
「俺は器になんてならない。誰かの願いを踏み台にもしない」
『ならば、その願いごと砕け』
杯が黒く輝いた。
旧音楽室の床に、魔法陣が展開される。
衛二の足元から影の鎖が伸びる。
アストルフォが動いた。
「させない!」
桃色の残像が走る。
鎖が砕ける。
アストルフォは軽やかに跳び、杯へ向かって蹴りを放った。
だが杯の周囲に結界が展開され、衝撃を吸収する。
「むっ、硬い!」
「神杯系の防壁だ。物理と魔術の両方をずらしてる」
「じゃあどうする?」
「内側から壊す」
「できる?」
「やるって言っただろ」
衛二の手に、今度は一振りの剣が現れる。
それは父の記憶にある剣ではない。
英霊の宝具でもない。
衛二が解析した杯の防壁構造に合わせ、その場で設計した投影剣。
刃は透明。
芯には五大元素の光が巡る。
アストルフォが目を輝かせた。
「エイジ、今のすごい! 即興?」
「褒めるのは後で」
「じゃあ後でいっぱい褒める!」
「ほどほどにしてくれ」
「無理!」
アストルフォは笑って、杯の注意を引くように前へ出た。
「こっちだよ、黒い杯さん!」
杯から影の矢が放たれる。
アストルフォは軽やかに避ける。
踊るように。
笑うように。
危険な攻撃の中でも、彼の動きはどこか明るい。
可愛い。
衛二は戦闘中だというのに、そんなことを思った。
いや、可愛いだけではない。
強い。
迷いがない。
自分を信じてくれている。
だから衛二も、迷わず剣を振るえる。
「投影工程、固定。五大元素、同期。空で接続、水で浄化、火で焼却、風で分離、地で還元」
透明な剣が輝く。
衛二は踏み込んだ。
杯の防壁が反応する。
影が壁となって立ちはだかる。
アストルフォが叫んだ。
「エイジ!」
「分かってる!」
衛二は剣を投げた。
投影剣は杯の防壁へ突き刺さる。
瞬間、衛二はその剣に込めた魔力を臨界まで引き上げた。
壊れた幻想。
ただし今回は、破壊ではない。
爆発の方向性を内側へ絞り、術式の核だけを砕く。
「ブロークン・ファンタズム――限定解放」
音はなかった。
光だけが、旧音楽室に広がった。
杯の外殻がひび割れる。
中に閉じ込められていた願いの光が、一つずつ解放されていく。
合格したいという願いは、持ち主の努力へ。
仲直りしたいという願いは、明日の勇気へ。
認められたいという願いは、胸の奥の火へ。
消えたいという願いは、誰かに助けを求める小さな声へ。
衛二は、それらを傷つけないように霊脈へ還していった。
黒い杯が崩れる。
最後に、乾いた声が響いた。
『遠坂衛二。お前は、いずれ選ぶ』
「何を」
『願いを守るか。願いを殺すか』
「……」
『神杯の残響は、まだ冬木に眠っている』
杯は完全に砕けた。
旧音楽室に、静寂が戻る。
衛二は肩で息をした。
魔力消費は大きくない。
だが精神的な負荷が重い。
誰かの願いに直接触れるというのは、思った以上にきつかった。
「エイジ!」
アストルフォが駆け寄ってくる。
「平気? どこか痛い? 気持ち悪くない? 頭ぐるぐるしてない?」
「質問が多い」
「心配してるの!」
「平気だよ」
「本当に?」
「本当」
衛二が答えると、アストルフォはじっと見つめてきた。
そして、むっと頬を膨らませる。
「嘘。ちょっと無理してる」
「……少しだけな」
「ほら!」
アストルフォは衛二の手を取り、旧音楽室の隅にある椅子へ座らせた。
「休憩!」
「昼休み終わる」
「終わる前に戻ればいいの! 今は休む!」
「過保護だな」
「ボクのマスターだもん」
アストルフォは当然のように言った。
それから衛二の前にしゃがみ、下から覗き込む。
「ねえ、エイジ」
「何?」
「さっき、怖かった?」
衛二は窓の外を見た。
校庭では、生徒たちが昼休みを過ごしている。
サッカーをする男子。
ベンチで弁当を食べる女子。
渡り廊下を走って教師に怒られる下級生。
普通の景色。
その普通の景色から、ほんの少しだけ願いが吸い上げられていた。
気づけなければ、誰かが倒れていたかもしれない。
もっと悪ければ、旧校舎そのものが小さな杯になっていたかもしれない。
「……怖かった」
衛二は正直に答えた。
「人の願いって、重いんだな」
「うん」
「俺は強いって言われる。魔力量もある。投影もできる。五大元素も使える。でも、ああいうのを見せられると……強いだけじゃ足りないって思う」
アストルフォは黙って聞いていた。
「壊すだけなら簡単だった。杯ごと吹き飛ばせばよかった。でも、それじゃ中の願いまで壊れる。誰かの苦しさも、寂しさも、全部まとめて」
「エイジは、そうしなかった」
「できなかっただけかもしれない」
「それでいいよ」
アストルフォは衛二の手を両手で包んだ。
「できなかったから、守れたんだよ」
「……」
「すぐ壊せる人より、壊せなくて悩める人の方が、ボクは好き」
衛二は目を伏せた。
その言葉は、胸に深く染みた。
「アストルフォは、すぐそういうこと言う」
「思ったことは言う主義だから!」
「知ってる」
「あと、エイジが落ち込んでる時はいっぱい甘やかす主義!」
「それは初耳だ」
「今決めた!」
アストルフォは立ち上がると、衛二をぎゅっと抱きしめた。
旧音楽室の片隅。
埃っぽい空気。
冬の日差し。
遠くから聞こえる昼休みのざわめき。
その中で、アストルフォの温もりだけがやけに鮮明だった。
「エイジ、よしよし」
「子ども扱いするな」
「じゃあ、マスター扱いのよしよし」
「何が違うんだ」
「気持ち!」
アストルフォの手が、衛二の髪を優しく撫でる。
衛二は抵抗しようと思った。
でも、できなかった。
気持ちいい。
安心する。
そんな単純な感情に、体の力が抜けていく。
「……少しだけ」
「うん。少しだけ」
「昼休み終わるまで」
「うん」
「それ以上は駄目だ」
「じゃあ、放課後に追加するね」
「予約制なのか」
「エイジ甘やかし予約表、作る?」
「作るな」
アストルフォが笑う。
衛二も少しだけ笑った。
重かった空気が、柔らかくほどけていく。
その時。
旧音楽室の扉が、ゆっくり開いた。
「……あら」
落ち着いた女性の声。
衛二とアストルフォは同時に振り返る。
扉の前に立っていたのは、白衣を着た女性だった。
銀に近い淡い髪。
年齢は二十代後半から三十代前半に見える。
だが、その瞳には年齢と釣り合わない深い静けさがあった。
穂群原学園の非常勤講師。
衛二も名前だけは知っている。
ユイ・アインツベルン。
魔術とは無縁の生徒たちには、少し不思議な雰囲気の理科教師として知られている。
しかし遠坂家の資料には、別の記録があった。
神杯戦争の後日譚に名を残す少女。
願いの畑と返事の庭に関わった存在。
その一人。
「遠坂衛二くん」
ユイは静かに衛二の名を呼んだ。
その視線が、アストルフォへ移る。
「それに……ライダー、アストルフォ」
アストルフォが目を丸くする。
「ボクのこと、知ってるの?」
「記録で。直接会うのは初めてだけれど」
ユイは旧音楽室の中へ入ってきた。
床に残ったわずかな魔力の痕跡を見て、目を細める。
「やっぱり、芽吹いていたのね」
「芽吹く?」
衛二が聞き返す。
ユイは頷いた。
「神杯戦争の残響は、完全には消えていない。願いは土に残る。長い時間をかけて薄まり、眠り、時々こうして小さな器を作る」
「母さんたちから聞きました。けど、どうして学校に?」
「ここは昔から、冬木の霊脈に触れている場所だから。そして何より、人の願いが集まりやすい」
ユイは窓の外を見た。
「学校は、小さな願いで満ちている。将来。恋。友情。劣等感。承認。後悔。明日への不安。そういうものは、杯にとって栄養になりやすい」
「……趣味が悪いですね」
「ええ。本当に」
ユイは静かに同意した。
アストルフォが衛二の前に半歩出る。
その仕草は明るい彼らしくないほど、はっきりと護衛のものだった。
「ユイ、だっけ。君は敵?」
「いいえ」
ユイは即答した。
「少なくとも、遠坂衛二くんの敵ではないわ。私は神杯戦争の残響を監視している側」
「監視?」
「ええ。かつて冬木で起きたことを、二度と繰り返さないために」
ユイの声には、静かな重みがあった。
衛二はその重みに、資料では分からなかったものを感じた。
この人は見てきたのだ。
神杯戦争を。
その後に残ったものを。
願いが人を救い、同時に傷つける様を。
「どうして俺に接触を?」
「本当は、もう少し様子を見るつもりだった。でもあなたがライダーを召喚し、今日この小さな杯を解体した。もう無関係ではいられない」
ユイは衛二の左手を見た。
包帯と隠蔽術式の下にある令呪を、当然のように見抜いている。
「遠坂衛二くん。あなたはこれから狙われる」
「昨日の魔術師たちですか?」
「彼らは末端。問題は、その後ろにいるもの」
「名前は?」
ユイは少し沈黙した。
そして答えた。
「新しい神杯を作ろうとしている集団がいる。彼らは自分たちを《月蝕教団》と呼んでいるわ」
「月蝕教団……」
「神杯戦争で砕かれた器を再構築し、願いによって世界を上書きしようとしている。けれど本物の神杯はもう存在しない。だから彼らは代わりの器を探している」
衛二は嫌な予感がした。
ユイはそれを肯定するように、静かに告げる。
「あなたよ。遠坂衛二くん」
アストルフォの空気が変わった。
いつもの明るさが消え、鋭い騎士の気配が立ち上がる。
「エイジを器にするってこと?」
「彼らにとっては、理想的すぎる存在でしょうね。遠坂の血、衛宮の投影、五大元素、規格外の魔力量。そして何より、冬木の霊脈に強く結びついている」
アストルフォは笑わなかった。
「そんなの、絶対にさせない」
声は静かだった。
けれど、旧音楽室の空気が震えた。
「エイジは器じゃない。ボクのマスターだよ」
衛二はアストルフォを見る。
その横顔は、可愛いだけではなかった。
守ると決めたもののために、絶対に退かない騎士の顔だった。
ユイは少しだけ目を細める。
「いいサーヴァントを召喚したわね」
「はい」
衛二は自然に答えていた。
「最高のサーヴァントです」
アストルフォが一瞬で振り返った。
「エイジ」
「何だよ」
「今のもう一回言って」
「言わない」
「えー!」
「緊張感を戻せ」
「だって最高って言われた!」
「実際そうだろ」
アストルフォの頬が赤くなる。
ユイはその様子を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
「仲が良いのね」
「昨日召喚されたばかりです」
「そうは見えないわ」
衛二は返す言葉に困った。
アストルフォはにこにこしている。
ユイは旧音楽室の奥へ歩き、杯の残骸があった場所に手をかざした。
白い光が広がる。
残った魔力の汚染が浄化されていく。
「ここの処理は私がしておくわ。遠坂くん、あなたは昼休みが終わる前に戻りなさい」
「でも」
「学校生活を失ってはいけない」
ユイの声は、思ったより強かった。
「こういう戦いに関わると、日常を軽く見てしまう。けれど、それは違う。日常こそ守るべきものよ」
衛二は黙った。
父も似たようなことを言っていた気がする。
夕飯の味。
朝の味噌汁。
ただいまと言える家。
そういうものを守るために戦うのだと。
「分かりました」
「放課後、遠坂邸へ行くわ。凛さんと士郎さんにも話がある」
「母さんたちを知ってるんですか?」
「ええ。直接深く関わったわけではないけれど、あの二人のことはよく知っている」
ユイは少しだけ懐かしそうな顔をした。
「冬木で生き残った人たちは、どこかで繋がっているものだから」
◇
昼休み終了三分前。
衛二は教室へ戻った。
弁当は旧校舎の廊下に置いたままだったため、結局ほとんど食べられなかった。
『エイジ、お腹すいてない?』
「すいてる」
『購買で何か買う?』
「もう時間ない」
『じゃあ、ボクの元気を分けてあげる』
「どうやって?」
『ぎゅー』
「教室」
『霊体ならばれないよ?』
「俺の顔でばれる」
『じゃあ放課後ね』
「また予約か」
『本日二件目の甘やかし予約です!』
衛二は机に突っ伏したくなった。
しかし、突っ伏す前にクラスメイトの女子が声をかけてきた。
「遠坂くん、顔赤くない?」
「寒暖差」
「今日ずっと何か変だよ?」
「そうか?」
「うん。なんか……幸せそう」
「っ」
衛二は完全に返答に詰まった。
アストルフォが横で大喜びしている。
『聞いた? エイジ、幸せそうだって!』
「黙れ」
「え?」
「あ、いや、何でもない」
女子生徒は不思議そうにしながら席へ戻っていった。
衛二は額を押さえる。
この生活、想像以上に心臓に悪い。
サーヴァントとの戦いより、授業中のアストルフォの方が危険かもしれない。
そう思いかけた瞬間。
左手の令呪が、熱を持った。
「……」
衛二は窓の外を見る。
校庭。
その向こうの旧校舎。
さらに遠く、冬木の街。
何かが動いている。
月蝕教団。
神杯の残響。
新しい器。
遠坂衛二。
自分を中心に、見えない輪が少しずつ狭まっている。
『エイジ』
アストルフォの声が優しくなる。
『大丈夫』
「まだ何も言ってない」
『言わなくても分かるよ』
衛二の机の下で、霊体の手がそっと重なる。
『ボクがいる』
その言葉だけで、少し呼吸が楽になった。
衛二は小さく頷く。
「ああ」
◇
放課後。
教室に夕方の光が差し込んでいた。
ホームルームが終わり、生徒たちが次々に帰っていく。
部活へ向かう者。
塾へ急ぐ者。
友人と寄り道の相談をする者。
衛二は鞄を持ち、廊下へ出た。
アストルフォは霊体のまま、隣を歩いている。
『エイジ、この後どうする? まっすぐ帰る?』
「旧校舎のこともあるし、今日は帰る。ユイ先生が来るなら、母さんたちにも早く話した方がいい」
『うん。じゃあ帰ったら甘やかし予約の消化だね!』
「真面目な話の流れだっただろ」
『真面目だよ? エイジのメンタルケアは大事!』
「言い方」
『帰ったらぎゅーして、よしよしして、頬にキスして、あったかいお茶飲ませて、いっぱい褒める』
「計画が具体的すぎる」
『大事な予定だからね!』
衛二は呆れながらも、少しだけ口元を緩めた。
その時、廊下の向こうから柳洞が歩いてきた。
「遠坂」
「柳洞。生徒会は?」
「終わった。ところで、少し聞きたいことがある」
「何だ?」
柳洞は周囲を見回した。
人が少ないことを確認してから、声を落とす。
「今日の昼、旧校舎へ行ったか?」
衛二は表情を変えなかった。
「どうして?」
「旧校舎の方から、一瞬だけ光が見えた。それと……鐘の音がした」
また鐘。
衛二は内心で舌打ちした。
「気のせいじゃないか?」
「そう言いたいところだが、遠坂がそういう顔をするときは、大体何か隠している」
「どんな顔だよ」
「遠坂凛さんに似た顔だ」
「それは困る」
「やはり何かあるんだな?」
柳洞は真剣だった。
衛二は迷った。
一般人を巻き込むべきではない。
だが柳洞寺の縁者である彼は、完全な無関係とも言い切れない。
それに、すでに鐘の音を聞いている。
「……危ないことが起きてるかもしれない」
衛二は最低限だけ答えた。
「だから、しばらく旧校舎には近づくな。夜の冬木大橋付近も避けろ」
「理由は?」
「言えない」
「遠坂」
「頼む、柳洞」
衛二はまっすぐ彼を見た。
「信じてくれ」
柳洞はしばらく黙っていた。
やがて、ため息をつく。
「分かった。理由は聞かない」
「助かる」
「だが一つだけ言わせろ」
「何だ?」
「一人で抱え込むなよ」
衛二は目を見開いた。
柳洞は少し気まずそうに視線を逸らす。
「お前は何でも一人でどうにかできそうな顔をしている。だからこそ、危うい」
衛二は言葉を失った。
今日、似たようなことをアストルフォにも言われた。
一人で背負うな。
相談しろ。
怖い時は怖いと言え。
『エイジ、いい友達だね』
アストルフォの声が静かに響く。
衛二は小さく笑った。
「ああ。分かった」
「本当に分かっているか?」
「努力する」
「それは分かっていない人間の返事だ」
「七割くらいは分かってる」
「残り三割が怖いな」
アストルフォと同じことを言われた。
衛二は思わず笑った。
「何だ?」
「いや。何でもない」
柳洞と別れ、衛二は昇降口へ向かった。
夕方の光が長く伸びている。
外へ出ると、冬の風が頬を撫でた。
校門の外。
そこに、一人の少女が立っていた。
黒い髪。
白いコート。
年齢は衛二と同じくらいに見える。
だが、瞳が違った。
深すぎる黒。
星のない夜のような目。
少女は衛二を見ると、静かに微笑んだ。
「遠坂衛二」
その声を聞いた瞬間、アストルフォが実体化した。
周囲に人はいない。
人払いが展開されている。
少女がやったのだ。
「誰だ」
衛二が問う。
少女は答えない。
代わりに、右手を胸に当てて優雅に礼をした。
「月蝕教団、観測役。名はミライ」
衛二の息が止まる。
ミライ。
その名も、神杯戦争後日譚の資料にあった。
ユイと共に、願いの畑と返事の庭に関わった存在。
だが目の前の少女は、資料の印象と違いすぎる。
冷たい。
まるで感情を凍らせたように。
「ミライ……本物か?」
「本物という言葉には意味がないわ。私は私。過去の記録がどうであれ、今ここにいる私は月蝕教団の観測役」
アストルフォが衛二の前に出る。
「エイジに何の用?」
「確認よ」
ミライは衛二を見つめた。
「新しい器に相応しいかどうか」
「器になる気はない」
「意思は関係ないわ」
ミライの背後に、黒い月輪が浮かぶ。
魔術式。
いや、違う。
神杯戦争の残響を利用した、願望干渉術式。
「願いは器を選ぶ。器は願いを拒めない」
「拒む」
衛二は右手を上げる。
「俺は俺だ。誰かの願いを入れる器じゃない」
「では証明して」
ミライは静かに言った。
「あなたが器ではなく、人間だということを」
黒い月輪から、影が溢れた。
アストルフォが笑う。
だがその笑みは、いつもの無邪気なものではない。
衛二を守る騎士の笑み。
「いいよ。証明してあげる」
アストルフォは剣を構えた。
「エイジはボクのマスター。ボクが好きになった、ちゃんとあったかい人間だってね」
衛二の胸が熱くなる。
こんな状況で、好きと言うな。
そう思う。
でも、その言葉が力になる。
衛二は投影を開始した。
手の中に、黒白の夫婦剣が現れる。
干将・莫耶。
父より強く。
英霊エミヤより精密に。
本物と遜色ない概念密度で。
「アストルフォ」
「うん!」
「放課後の甘やかし予約、まだ有効か?」
アストルフォが一瞬きょとんとする。
それから、ぱあっと笑った。
「もちろん!」
「なら早く終わらせて帰る」
「うん! 帰ったらいっぱいぎゅーしてあげる!」
ミライが静かに首を傾げた。
「戦闘前に交わす会話とは思えないわ」
「これが俺たちの契約だからな」
衛二は剣を構える。
アストルフォが隣に並ぶ。
マスターとサーヴァント。
遠坂と衛宮の子。
桃色の騎士。
冬木の夕暮れに、黒い月が昇る。
神杯戦争の残響は、確かに動き出していた。
けれど衛二の隣には、アストルフォがいる。
だから、怖くても前へ進める。
アストルフォがちらりと衛二を見た。
「エイジ」
「何だ?」
「終わったら、頬じゃなくておでこにもキスしていい?」
「……勝ったらな」
「やった! 絶対勝つ!」
「動機が軽い」
「でも強いよ?」
アストルフォは笑った。
その笑顔は、冬木の夕闇を切り裂く桃色の光だった。
そして衛二も笑った。
「ああ。知ってる」
黒い月輪が弾ける。
影が襲いかかる。
衛二は一歩踏み込み、剣を振るった。
アストルフォはその隣で跳ねるように駆けた。
甘く、騒がしく、少し危うい契約の二日目。
その放課後は、冬木の新たな戦いの幕開けとなった。
だが遠坂衛二は、もう一人ではない。
桃色の騎士が隣で笑っている。
それだけで、どんな暗い月でも越えられる気がした。
夕暮れの穂群原学園に、剣戟の音が響く。
そしてその奥で。
砕けた神杯の残響が、静かに笑っていた。
コメント
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いやあ、めっちゃ良かったわ!第二話からテンション爆上がりだよ🔥 アストルフォの「授業中でも甘やかしたい」スタイル、ガチで可愛すぎる。霊体化して隣で「えらいね」って言ってくるの反則でしょw 衛二くんがノートに「うるさい」って書くところ、完全に照れてるやつじゃん。 それでいて旧校舎の戦闘パートで、アストルフォが「エイジの手、好きだよ」って核心突いてくるのが良すぎた。可愛いだけじゃなくて、ちゃんと騎士してるギャップがたまらん。 杯の中の「願い」を壊さずに分解する選択と、最後の「放課後予約」のやり取りも最高。日常と戦闘のバランス完璧だわ。次話も楽しみにしてる!