テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#異能力バトル
聖杯
523
聖杯
1,207
7
前日譚 祈りの五年間
第五話 帰る場所、燃える前の白
五年目の春、遠坂凛は冬木へ帰ってきた。
列車の窓から見えた街は、思っていたよりも変わっていなかった。
川が流れている。
橋がある。
坂道がある。
見慣れた住宅街があり、商店街の看板があり、遠くには柳洞寺の山が見える。
変わっていない。
そう思った直後、凛は自分でその考えを否定した。
変わっていないわけがない。
この五年間で、冬木は少しずつ傷を塞いできた。
街の人々は何も知らないまま日常を続け、店は開き、学校は動き、季節は何度も巡った。
衛宮士郎は、この街に残った。
間桐桜は、この街で自分の明日を選び続けた。
藤村大河は、たぶん相変わらず騒がしく過ごしている。
そして凛自身は、遠い時計塔で学び、戦い、時にへこたれ、時に勝ち、冬木へ戻る準備を続けてきた。
同じ街など、どこにもない。
ただ、帰る場所がそこにあるだけだ。
列車が冬木駅へ滑り込む。
ホームに降りた瞬間、凛は少しだけ息を止めた。
春の匂いがした。
ロンドンの湿った石の匂いではない。
冬木の、海と川と坂道が混じった空気。
「……帰ってきた」
小さく呟いた。
その声を聞いたのは、自分だけだった。
いや。
「おかえり」
改札の向こうに、衛宮士郎が立っていた。
数年前より少し背が伸びた。
顔つきも大人びた。
けれど、どこか危なっかしい雰囲気は変わっていない。
その隣には桜がいる。
桜も変わった。
以前よりも背筋が伸びている。
笑い方も、少しだけ柔らかい。
ただ誰かの後ろに立つ少女ではなく、自分の足でそこにいる少女になっていた。
凛は二人を見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。
けれど、そのまま泣くほど素直ではない。
だから、いつものように言った。
「迎えに来るなら、もう少し目立つ場所にいなさいよ。探したじゃない」
士郎は苦笑する。
「第一声がそれか」
「それ以外に何を言えばいいのよ」
桜が小さく笑う。
「姉さん、おかえりなさい」
凛は少しだけ言葉に詰まった。
そして、桜を見る。
「ただいま、桜」
その一言を言うまでに、五年かかった気がした。
桜は嬉しそうに微笑んだ。
士郎は凛の大きな鞄へ手を伸ばす。
「持つぞ」
「いいわよ、このくらい」
「重いだろ」
「魔術師の荷物を勝手に持とうとしない」
「じゃあ普通の荷物だけ」
「全部魔術師の荷物よ」
「着替えも?」
「着替えも」
「無理があるだろ」
凛は少し笑って、鞄を士郎へ渡した。
「じゃあ半分だけ」
「半分ってどうやって持つんだよ」
「気合い」
「遠坂が一番無茶言ってるぞ」
桜がそのやり取りを見て、静かに笑った。
五年という時間があった。
けれど、こうして並ぶと、少しだけ戻ってきたようにも思える。
戻ったのではない。
続いていたものが、また同じ場所で重なったのだ。
◆
衛宮邸では、大河が玄関で待ち構えていた。
「凛ちゃああああん!」
「うわっ、藤村先生!」
今度は凛も避けきれなかった。
大河は勢いよく凛へ抱きつき、そのままぐるぐる揺さぶる。
「大きくなって! 立派になって! 海外帰りの女になって!」
「言い方が変です!」
「おかえり! ちゃんとご飯食べてた? 変な男に騙されてない? 魔術師ってブラック企業じゃない?」
「最後だけ妙に現実味がありますね!」
士郎は鞄を置きながら言った。
「藤ねえ、遠坂が死ぬ」
「はっ!」
大河は凛を解放する。
凛はふらつきながら息を整えた。
「相変わらずですね、先生……」
「それが私の長所!」
「否定はしませんけど」
居間には、すでに料理が並んでいた。
士郎が作った煮物。
桜が作った卵焼き。
大河が買ってきたらしい妙に豪華な菓子。
凛のために用意された、少し辛めの一品。
凛はそれを見て、しばらく黙った。
「何よ、これ」
士郎は言う。
「帰国祝い」
桜が続ける。
「姉さんが帰ってきたら作ろうって、前から話していました」
大河が胸を張る。
「私は飾り担当!」
「菓子を買ってきただけだろ」
「買うのも立派な担当です!」
凛は居間の真ん中で立ち尽くした。
この五年間、時計塔で何度も食事をした。
高級な料理もあった。
魔術師の会食もあった。
味より情報の方が多い食事もあった。
けれど、この食卓は違う。
ここには、帰ってきた者のために席が用意されている。
凛は小さく息を吸った。
「……ただいま」
もう一度、そう言った。
今度は、家へ向けて。
士郎は笑った。
「ああ。おかえり」
桜も言う。
「おかえりなさい、姉さん」
大河は箸を掲げた。
「では! 凛ちゃん帰国記念、冬木の食卓再開祭りを始めます!」
「何その祭り」
「今作った!」
「でしょうね」
凛は笑いながら座った。
味噌汁を一口飲む。
懐かしい味がした。
少し変わっていた。
でも、それがよかった。
この五年間で、士郎の料理も変わったのだ。
桜の卵焼きも、以前より少し甘くなっていた。
凛はそれを食べて、目を細める。
「おいしい」
桜の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「本当。前より、桜の味になってる」
桜は一瞬、驚いた。
それから、少しだけ照れたように笑う。
「先輩にも、前に同じようなことを言われました」
凛は士郎を見る。
「へえ」
士郎は目を逸らした。
「何だよ」
「別に」
凛は少しだけ笑った。
食卓は賑やかだった。
笑い声があり、文句があり、湯気があり、箸の音がある。
それは、戦いとは何の関係もない時間だった。
だからこそ、凛は思う。
守るべきものは、いつもこういう顔をしているのだと。
◆
翌日から、凛は本格的に冬木の調査を再開した。
遠坂邸の地下室には、五年分の記録が積まれていた。
凛が時計塔でまとめた資料。
士郎がつけ続けた記録ノート。
桜が撮影した白い花の写真。
霊脈図。
魔力波形。
異常地点の地図。
それらを並べると、五年間の冬木が別の形で浮かび上がってくる。
白い線。
白い花。
白い光。
橋の下の声に似た音。
港湾区の空白。
柳洞寺の沈んだ響き。
衛宮邸土蔵の一瞬の発光。
間桐邸地下で咲き続ける花。
大きな事件はなかった。
誰も襲われていない。
街は壊れていない。
魔術協会が動くほどの明確な異常もない。
だが、記録を重ねると見えてくる。
白い反応は、冬木の霊脈の要所に点在している。
それらは互いに接続していない。
少なくとも、まだ。
だが、まるで星座のように、いつか線で結ばれることを待っているようだった。
凛は地図へ赤い線を引いた。
士郎は横で覗き込む。
「これ、陣なのか?」
「まだ陣じゃないわ。陣になる前の配置に見える」
「陣になる前?」
「材料だけ置かれていて、線がまだ引かれていない状態」
桜が白い花の写真を見ながら言う。
「でも、誰かが置いたんでしょうか」
凛は腕を組む。
「分からない。少なくとも、外部の魔術師が侵入して仕掛けた痕跡はない。これは冬木の中から出てきてる」
士郎が眉をひそめる。
「聖杯戦争の残りか?」
「その可能性は高い。でも、聖杯の残滓と完全には一致しない」
凛は時計塔で得た資料を広げる。
「似ているのは、願望干渉。記録保存。霊脈に沈んだ残響の再浮上。けれど、どれも中途半端にしか一致しない」
士郎は少し考え込む。
「願望って、人の願いってことか」
「そう。魔術的に言えば、強い願いはただの感情じゃない。特に聖杯戦争みたいな儀式の中では、願いそのものが魔術的な意味を持つことがある」
桜は静かに言った。
「叶わなかった願いも、残るんですか」
凛はすぐには答えなかった。
その問いは、資料の中だけの話ではない。
この場にいる全員が、叶わなかった願いを知っている。
言えなかった言葉を知っている。
届かなかった手を知っている。
戻らない時間を知っている。
凛はゆっくり答える。
「残ることはあるわ」
桜は目を伏せた。
凛は続ける。
「でも、残ることと、縛られることは違う。そこを間違えると危ない」
士郎はその言葉を覚えておこうと思った。
残ることと、縛られることは違う。
それは魔術だけの話ではない気がした。
凛は地図を指でなぞる。
「今のところ、白い反応には攻撃性も浸食性もない。むしろ、危険なのは黒い空白の方」
「港湾区か」
「ええ。あそこだけ、白い反応が近づいても飲み込まれるみたいに消える」
桜が小さく息を呑む。
「消える……」
凛は頷く。
「まだ断定はできない。でも、五年目に入って反応が強くなってる。冬木全域の再調査が必要よ」
士郎は即座に言う。
「手伝う」
「当然」
「即答だな」
「この五年間、何のために手順書を読ませてたと思ってるの」
「途中で味噌汁の例えが混じったけどな」
「忘れなさい」
桜が小さく笑う。
凛は地図を畳み、二人を見た。
「ただし、無茶はしない。何かあったら撤退。私に報告。単独行動禁止」
士郎と桜は同時に答えた。
「分かった」
「分かりました」
凛は少し満足そうに頷いた。
それから、士郎をじっと見る。
「特に士郎」
「何で俺だけ念押しなんだ」
「日頃の行い」
士郎は言い返せなかった。
◆
冬木全域の再調査は、三日間かけて行われた。
一日目は柳洞寺。
石段を登り、境内を調べる。
五年前と同じようで、違う場所。
凛は霊脈を測定し、桜は白い花の位置を確認し、士郎は構造解析で地下の流れを見た。
白い花はまだ咲いていた。
以前より少しだけ数が増えている。
だが、不気味な増殖ではない。
まるで、忘れられないように目印を増やしているようだった。
凛は慎重に記録する。
「危険値なし。ただし、霊脈との接続が前より深い」
士郎は境内の端に立つ。
「地下に沈んだ音、前よりはっきりしてる」
凛が振り返る。
「声?」
「いや、声じゃない。まだ言葉になってない感じ」
桜は白い花を見ながら言った。
「待っているみたいですね」
凛は少しだけ目を細める。
「待っている、か」
その表現を否定しようとして、やめた。
五年前の凛なら、非論理的だと言っていただろう。
けれど今は、分かる。
魔術の記録は、時に人の感覚を必要とする。
士郎の曖昧な構造解析。
桜の影に近い感受性。
凛の魔術理論。
三つが重なって初めて見えるものがある。
凛はノートに書いた。
『柳洞寺。白花増加。待機状態に近い印象。』
書いてから、少しだけ苦笑する。
「私も変わったわね」
士郎が聞き返す。
「何が?」
「何でもない」
二日目は港湾区。
海は穏やかだった。
波の音。
潮の匂い。
遠くの船の汽笛。
だが、凛はそこへ着いた瞬間に表情を変えた。
「ここ、やっぱり変」
士郎も頷く。
「前より空っぽな感じがする」
桜は海を見つめる。
「空っぽなのに、深いですね」
凛は測定器を見た。
針が揺れている。
魔力があるわけではない。
ないわけでもない。
観測しようとすると、測定値が少しだけ遅れて表示される。
まるで、海の底に何かが沈んでいて、それがこちらの視線に気づかれないようにしているかのようだった。
士郎は海面を見る。
一瞬、白い反射が走る。
「今、光った」
凛がすぐに宝石を構える。
「位置は?」
「沖の方。いや、違う。海面じゃなくて、水の下」
桜の影が足元でわずかに揺れた。
彼女は息を整え、静かに言う。
「嫌な感じはします。でも、怖いだけではありません」
凛は桜を見る。
「無理しないで」
「はい。でも、見ます」
桜は海を見つめ続ける。
やがて、白い反射は消えた。
何も起きない。
だが、凛は確信した。
港湾区は、今後最も危険な地点になる。
理由は分からない。
だが、ここは深すぎる。
白い反応を受け止めるのではなく、沈める場所になっている。
凛は地図へ黒い印をつけた。
「ここは重点監視」
士郎は頷く。
「分かった」
三日目は衛宮邸。
最後に調べるのは、土蔵だった。
士郎は少しだけ緊張していた。
この場所は、始まりの場所だ。
五年前、彼がセイバーと出会った場所。
そして、この五年間で、何度も白い線が現れては消えた場所。
凛は床へ測定器を置き、宝石を四隅に配置した。
桜は土蔵の入口近くに立つ。
士郎は床へ手を置いた。
構造解析。
木材。
鉄。
埃。
古い召喚の痕。
魔力の残滓。
そして。
白い線。
今回は一瞬ではなかった。
床の奥に、薄く、細く、確かに走っている。
士郎は目を細めた。
「見える」
凛の声が鋭くなる。
「形は?」
「円……いや、円になりかけてる。けど、まだ閉じてない。線が足りない」
「召喚陣?」
「似てるけど違う。召喚するためというより、何かがここに来た時に受け止める形に見える」
凛は息を止めた。
受け止める。
その言葉が、妙に引っかかった。
桜が小さく言う。
「器、みたいですね」
土蔵の中が静かになる。
器。
凛はすぐにノートへ書いた。
『衛宮邸土蔵。白線、円未満。受容型術式に近い。器状。』
書きながら、背筋が冷えた。
何かが形を取り始めている。
まだ危険ではない。
まだ発動していない。
まだ誰も呼んでいない。
けれど、準備だけが進んでいる。
誰が。
何のために。
答えは出なかった。
その時、土蔵の外から大河の声がした。
「士郎ー! 凛ちゃーん! 桜ちゃーん! お昼できたよー!」
三人は同時に顔を上げた。
張り詰めた空気が、少しだけほどける。
士郎が苦笑する。
「昼飯だって」
凛はため息をついた。
「このタイミングで日常が殴り込んでくるの、本当にこの家らしいわね」
桜は静かに笑った。
「行きましょう。冷めてしまいます」
凛は測定器をしまい、宝石を回収した。
「調査は一旦中断。食後に続き」
士郎は立ち上がる。
「了解」
三人は土蔵を出た。
外には春の光があった。
味噌汁の匂いがした。
大河が縁側で手を振っている。
それだけで、土蔵の中の不穏さが少し遠ざかった。
だが、消えたわけではない。
白い線は、床の奥に残っている。
いつか円を閉じるかもしれない形で。
◆
その夜、衛宮邸では久しぶりに四人で夕食を食べた。
大河。
凛。
桜。
士郎。
何度もあったはずの光景。
けれど、五年目の春に見るそれは、少し違っていた。
大河は相変わらず騒がしい。
凛は相変わらず文句が多い。
桜は以前より穏やかに笑い、士郎は台所から何度も鍋を運んでくる。
食卓の上には、凛が帰ってきた日のために桜が練習していた料理が並んでいた。
辛すぎない辛味料理。
藤村大河も食べられるように調整されたもの。
大河は一口食べて、目を輝かせた。
「辛い! けどおいしい! でも辛い! でもおいしい!」
凛は真剣に味を見る。
「桜、これすごくいい。香りが立ってる」
桜の顔が明るくなる。
「よかったです」
士郎も食べる。
「うまいな」
「先輩は何でもうまいって言います」
「本当にうまいからな」
桜は少しだけ照れた。
凛はその様子を見て、静かに笑う。
この食卓がある。
だから、調査を続けられる。
この食卓がある。
だから、異常を見ないふりはできない。
守るべきものは、危険が起きた時にだけ現れるのではない。
いつもの茶碗。
いつもの箸。
少し辛い料理。
誰かの笑い声。
また明日と言える夜。
そういうものが、守るべきものなのだ。
食後、大河がこたつで眠り始めた。
凛は呆れながら毛布をかけた。
「本当に自由ですね、先生」
士郎は笑う。
「藤ねえだからな」
桜は茶を淹れる。
その穏やかな時間の中で、凛は静かに言った。
「五年間、ありがとう」
士郎と桜が顔を上げる。
凛は湯呑みを見つめたまま続ける。
「私が冬木を離れている間、記録を続けてくれて。家を守ってくれて。無理しすぎないように、少しは努力してくれて」
士郎は少し困ったように笑う。
「少しは、か」
「そこは自覚あるでしょ」
「ある」
桜は凛を見る。
「姉さんも、帰ってきてくれてありがとうございます」
凛は一瞬、言葉に詰まった。
「帰ってくるって言ったでしょ」
「はい」
桜は微笑む。
「だから、待っていました」
凛は目を伏せた。
「……そう」
それだけ言うのが精一杯だった。
士郎はそのやり取りを見て、静かに茶を飲んだ。
五年。
長かった。
けれど、無駄ではなかった。
何かが解決したわけではない。
むしろ、何かが始まりかけている。
それでも、この五年で彼らは少し変わった。
凛は一人で完璧に背負うことを少しずつやめた。
桜は怖いと言い、怒りを少しずつ言葉にできるようになった。
士郎は、誰かを救う前に誰かの声を聞くことを覚え始めた。
それらは小さな変化だった。
だが、きっと大きな夜に必要になる変化だった。
◆
その夜、凛は遠坂邸へ戻った。
長く空けていた家。
使用人はいない。
広い屋敷に、彼女一人。
昔なら、それが当然だった。
遠坂の当主として、一人で立つことに疑問はなかった。
けれど今は、広さを少しだけ寂しく感じる。
凛は苦笑した。
「弱くなったのかしら」
違う、とすぐに思った。
弱くなったのではない。
一人ではないことを知っただけだ。
地下室へ降りる。
冬木霊脈の監視術式を起動する。
柳洞寺。
港湾区。
冬木大橋。
間桐邸。
衛宮邸。
深山町。
新都。
反応は安定している。
白い点がいくつか浮かんでいる。
黒い空白も、まだ沈黙している。
凛は椅子に座り、五年分の記録をまとめた報告書を開いた。
表紙にはこう書かれている。
『冬木霊脈異常記録 五年目統合版』
その下に、小さく。
『共同管理用』
凛はペンを取る。
最後のページに、今日の日付を書く。
『帰国。冬木全域調査開始。白い反応は拡大傾向。ただし敵性反応なし。港湾区の空白、要警戒。衛宮邸土蔵に受容型白線を確認。今後、継続監視。』
そこまで書いて、手が止まる。
事務的な記録だけでは足りない気がした。
凛は少し迷ってから、追記する。
『士郎、桜ともに変化あり。良い方向。
五年間の記録は無駄ではなかった。
今後、何かが起きるとしても、単独対応はしない。』
書いてから、顔が熱くなった。
「何よ、この日記みたいなの」
慌てて消そうとして、やめた。
記録には、余白があってもいい。
時計塔でそう学んだわけではない。
冬木で、彼らと過ごした時間が教えたのだ。
凛はノートを閉じた。
その瞬間、監視術式の一部がわずかに揺れた。
凛は顔を上げる。
港湾区。
ほんの一瞬だけ、黒い空白の縁に白い光が触れた。
すぐに消える。
凛は目を細めた。
「……また」
だが、警報値には達していない。
今すぐ動くほどではない。
凛は記録だけを追加する。
小さな違和感でも記録する。
それを言い出したのは自分だ。
そして、それを五年間守ったのは士郎と桜だった。
凛は深く息を吐いた。
「明日、もう一度港を見るわ」
そう決めて、術式を閉じた。
◆
同じ頃、間桐桜は地下室にいた。
一人だった。
白い花は、今日も咲いている。
五年前、この場所に一人で立つことなど考えられなかった。
けれど今、桜はそこにいる。
怖さはある。
嫌悪もある。
思い出したくないものもある。
でも、それだけではない。
白い花がある。
自分で見守ると決めた花。
そこに咲いていることにも、意味があるかもしれないと姉が言ってくれた花。
桜は花の前にしゃがむ。
「姉さんが帰ってきました」
白い花は揺れる。
「先輩も、少し変わりました。無茶はしますけど、前より人の話を聞くようになりました」
また、花が揺れる。
「私も、少し変わりました」
そう言って、桜は自分の影を見る。
暗い影。
けれど、そこに白い花の光が少しだけ混ざっている。
「まだ、全部は好きになれません。許せないこともあります。怖い場所もあります。怒り方も、よく分かりません」
桜は静かに続けた。
「でも、それでも明日が来ることを、少し信じられるようになりました」
白い花の先に、小さな光が宿った。
桜はそれを見つめる。
怖くない。
そう思えた。
「また明日」
そう言って、桜は立ち上がった。
地下室を出る。
扉を閉める。
その時、花の光が一瞬だけ強くなった。
けれど桜は振り返らなかった。
それでよかった。
見守ることと、見張り続けることは違う。
それも、この五年間で覚えたことだった。
◆
衛宮士郎は、土蔵にいた。
夕食の片付けを終え、大河を送り出し、桜を家まで送ってから戻ってきた。
土蔵は静かだった。
床の白い線は、今は見えない。
士郎は記録ノートを開く。
五年間で、ノートは何冊にも増えた。
最初の頃は、書き方も雑だった。
『橋の下で変な音』
『卵に白い線』
『柳洞寺に白い花』
『風鈴の音が妙に残る』
凛に何度も書き直しを命じられた。
それでも、続けた。
今では、日時、場所、天候、魔力反応、感覚、桜の所感、凛の返信まで記録できるようになっている。
慣れとは恐ろしい。
士郎は苦笑した。
そして、今日の記録を書く。
『五年目、春。遠坂帰国。冬木全域調査開始。土蔵床に受容型白線。円未満。召喚陣に似るが、召喚より受け止める形。危険感は薄いが、要注意。』
そこまで書いて、少し考える。
そして、もう一文を加えた。
『遠坂が帰ってきた。桜も笑っていた。藤ねえは相変わらず。夕食はうまかった。』
魔術的記録としては不要かもしれない。
だが、消す気にはならなかった。
この五年間の記録は、異常だけを書いたものではない。
日常も一緒に記録してきた。
それはきっと、必要なことだった。
何かが起きた時、守るべきものを忘れないために。
士郎はペンを置き、床へ手を触れた。
構造解析。
木材。
鉄。
埃。
記憶。
魔力の残滓。
白い線は、今日は奥深くに沈んでいる。
眠っているようだった。
士郎は目を閉じる。
「まだ、何も起きてない」
そう呟く。
「でも、何かが起きるなら、今度は見落とさない」
それは決意というより、確認だった。
誰かを救う。
その言葉は、まだ彼の中にある。
消えたわけではない。
けれど、この五年で少しだけ形が変わった。
救う前に、聞く。
手を伸ばす前に、相手が何を望んでいるのか考える。
一人で決めない。
誰かと相談する。
簡単なようで、士郎には難しいことだった。
それでも、少しずつ覚えた。
凛に怒られながら。
桜の言葉を聞きながら。
大河の食卓に救われながら。
士郎は立ち上がる。
土蔵の扉を閉める前に、もう一度だけ床を見た。
何も光っていない。
ただの土蔵だった。
それでいい。
今は、まだ。
◆
翌日、三人は冬木大橋へ向かった。
凛が帰国後、最後に確認したかった場所だった。
橋の上から見える川は、春の光を受けて穏やかに流れている。
車が通る。
自転車が走る。
遠くで学生たちが笑っている。
普通の午後。
凛は欄干に手を置き、霊脈の流れを見る。
士郎は川面を見る。
桜は少し後ろで、風に揺れる髪を押さえていた。
凛が言う。
「ここで最初に報告があったのよね」
士郎は頷く。
「橋の下の声みたいな音と、卵の白い線」
「卵は今でも意味不明だけど」
「俺もだ」
桜が小さく笑う。
凛は少しだけ口元を緩めた後、すぐに真面目な顔へ戻る。
「でも、あれが最初の広域反応だった可能性がある」
「ここから何か流れたのか?」
「流れたというより、反応が表に出た。柳洞寺、間桐邸、衛宮邸、港湾区。全部を繋ぐ中間点がこの川筋にある」
士郎は川を見る。
穏やかに見える。
だが、構造解析をすると、地下に細い流れが見える。
魔力。
霊脈。
街の記憶。
そして、その奥に白いものが混ざっている。
「……まだ声じゃない」
士郎が言う。
凛は振り返る。
「何?」
「前から感じるやつ。声になる前の息みたいなもの。今もある」
桜も静かに言った。
「私にも、少しだけ分かります」
凛は二人を見る。
「怖い?」
桜は少し考える。
「怖いです。でも、全部が怖いわけではありません」
士郎も言う。
「嫌な感じはする。でも、助けを求めてるのとは違う。まだ何も言ってない。だから、こっちも決めつけちゃいけない気がする」
凛は小さく頷く。
「そうね」
それは、五年前の彼女なら言わなかった言葉かもしれない。
魔術師としては、異常は分類し、対処し、封じるべきものだ。
けれど、この白い反応はまだ敵ではない。
危険かもしれない。
しかし、危険と断じてすぐ潰せば、何かを取り返しのつかない形で壊してしまう可能性もある。
凛は川面を見つめた。
「監視を続ける。判断は急がない。ただし、発動の兆候があれば即対応」
士郎と桜は頷いた。
三人の影が、橋の上に並ぶ。
五年前は、こんな風に並んで調査する日が来るとは思わなかった。
凛は遠坂の当主として。
士郎は正義の味方を目指す少年として。
桜は影の中にいた少女として。
それぞれが別の場所にいた。
けれど今は、同じ川を見ている。
それだけで、何かが変わったのだと思えた。
◆
その夜、衛宮邸で凛は泊まることになった。
大河が当然のように布団を敷き、桜も夕食後しばらく残った。
四人で過ごす夜は、どこか懐かしかった。
大河がテレビを見ながら笑う。
凛がそれに呆れる。
桜が茶を淹れる。
士郎が台所で明日の準備をする。
何も起きない夜。
何も起きないことが、こんなにも大切だと誰が教えてくれただろう。
夜更けになり、桜が帰る時間になった。
士郎が送ろうとすると、桜は首を横に振った。
「今日は、一人で帰れます」
士郎は少し心配そうに見る。
桜は微笑んだ。
「無理はしていません」
凛が横から言う。
「途中まで私が行くわ」
桜は少し驚いた。
「姉さん?」
「散歩よ、散歩」
「夜にですか?」
「ロンドンより安全よ」
士郎が言う。
「俺も行く」
凛が即座に睨む。
「あんたは片付け」
「俺だけ?」
「そう」
桜がくすっと笑う。
「先輩、お願いします」
士郎は観念した。
「分かった」
凛と桜は夜道を歩いた。
春の夜風が、二人の髪を揺らす。
しばらく、会話はなかった。
けれど沈黙は重くなかった。
以前の沈黙とは違う。
言葉を探している沈黙。
隣にいることを確かめる沈黙。
やがて、桜が言った。
「姉さん」
「何?」
「帰ってきてくれて、嬉しいです」
凛は足を止めそうになった。
けれど止めずに歩いた。
「そう」
「はい」
「……私も」
小さな声だった。
「帰ってこられて、よかった」
桜は微笑んだ。
「はい」
二人は並んで歩く。
夜の冬木は静かだった。
けれど、以前ほど冷たくなかった。
間桐邸の前まで来ると、桜は門の前で振り返った。
「姉さん」
「うん」
「明日、地下の花を一緒に見に行きませんか」
凛は頷いた。
「行くわ」
桜は少しだけ嬉しそうに笑った。
「はい」
凛はその笑顔を見て、胸の奥が痛くなった。
痛い。
けれど、その痛みから逃げたくなかった。
「桜」
「はい」
「これからも、少しずつ聞かせて」
桜は驚いた顔をした。
凛は続ける。
「怒っていることも、嫌だったことも、嬉しいことも。すぐに全部じゃなくていいから」
桜はゆっくり頷いた。
「はい。姉さんも、聞かせてください」
「私も?」
「はい。時計塔のこととか、怖かったこととか、寂しかったこととか」
凛は目を丸くした。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「……考えておく」
「そこは言い切ってください」
桜の返しに、凛は思わず笑った。
「士郎みたいなこと言うようになったわね」
「そうでしょうか」
「そうよ」
二人は少し笑い合った。
桜は門を開ける。
「おやすみなさい、姉さん」
「おやすみ、桜」
その言葉が、夜に静かに残った。
◆
凛が衛宮邸へ戻る頃には、士郎は片付けを終えていた。
居間にはまだ灯りがついている。
大河は帰った後で、家は静かだった。
士郎は台所で米を研いでいた。
「遅かったな」
「桜と少し話してた」
「そっか」
凛は流し台の横に立つ。
「明日、間桐邸の花を見に行くことになった」
「桜から?」
「ええ」
士郎は少し笑った。
「そうか」
「嬉しそうね」
「いや、よかったと思って」
「本当に、あんたは……」
凛は呆れたように言いながらも、どこか穏やかだった。
士郎は米を研ぎ終え、炊飯器に入れる。
「遠坂」
「何?」
「帰ってきて、どうだ?」
凛は少し考えた。
「変な感じ」
「変?」
「懐かしいのに、昔と違う。安心するのに、緊張する。帰ってきたのに、始まる感じがする」
士郎は頷いた。
「分かる気がする」
凛は士郎を見る。
「何か起きると思う?」
士郎はすぐには答えなかった。
それから、正直に言う。
「分からない。でも、何かが近づいてる気はする」
「そう」
凛は窓の外を見る。
「なら、今度はちゃんと見ていましょう」
「ああ」
「一人で突っ込まない」
「分かってる」
「本当に?」
士郎は少し笑った。
「本当に」
凛はしばらく士郎を見る。
そして、ようやく頷いた。
「なら、信じる」
士郎は少し驚いた。
「珍しいな」
「失礼ね」
「いや、嬉しい」
凛は顔を逸らした。
「そういうの、真顔で言わない」
「何でだよ」
「困るからよ」
五年前と似たやり取り。
けれど、少し違う。
二人はもう、あの頃のままではない。
変わった。
傷もある。
後悔もある。
言えなかった言葉もある。
それでも、こうして同じ台所に立っている。
それが答えの一つなのだと、士郎は思った。
◆
深夜。
衛宮邸が静かになった後、士郎は眠れなかった。
理由は分からない。
胸の奥がざわつく。
何かを忘れているような。
何かが近づいているような。
誰かがまだ言葉になる前の息を吐いているような。
士郎は布団から起き上がった。
廊下へ出る。
家の中は静かだった。
客間では凛が眠っているはずだ。
いや、眠っているといい。
士郎は土蔵へ向かおうとして、足を止めた。
今日は行かなくてもいい。
そう思った。
凛と約束した。
一人で突っ込まない。
だから、土蔵へは行かない。
士郎は縁側へ出た。
庭には月明かりが落ちている。
白い光。
一瞬だけ、庭の隅に何かが見えた気がした。
小さな花。
しかし、瞬きすると消えていた。
士郎は息を吐く。
「……記録だけしておくか」
彼は部屋へ戻り、ノートに書いた。
『五年目、春。深夜、衛宮邸庭に白い花のような光。一瞬。土蔵へは行かず。明日、遠坂と確認。』
書き終えて、少しだけ笑った。
土蔵へ行かなかった。
それだけのことが、妙に大きな進歩のように思えた。
士郎は布団へ戻った。
その夜、何も起きなかった。
少なくとも、彼が起きている間は。
◆
遠坂凛は、夢を見た。
冬木の坂道を登る夢。
五年前から、時計塔で何度も見た夢だった。
けれど今回は、少し違った。
坂の上にある扉は、時計塔の扉ではなかった。
衛宮邸の門だった。
その向こうに、光がある。
台所の灯り。
食卓の湯気。
桜の声。
士郎の背中。
大河の笑い声。
凛は門を開ける。
すると、景色が変わった。
柳洞寺の白い花。
港湾区の黒い水面。
間桐邸地下の白い光。
衛宮邸土蔵の床に走る薄い線。
それらが一瞬だけ繋がりそうになり、またほどける。
凛は夢の中で眉をひそめた。
まだ繋がっていない。
でも、近い。
誰かが、何かを呼ぼうとしている。
いや、違う。
呼ぶ前に、聞いてほしいのかもしれない。
凛は目を覚ました。
時計は午前二時前。
客間は暗い。
外は静かだった。
凛は額に手を当てる。
「……嫌な夢」
けれど、ただの夢ではない。
魔術師としての直感が告げている。
凛は起き上がり、枕元の宝石を手に取った。
魔力を流す。
宝石は静かに応える。
だが、その内側を、一瞬だけ白い影が走った。
黒ではない。
白。
凛は息を止める。
すぐに術式を展開したい衝動に駆られる。
しかし、彼女は手を止めた。
深呼吸。
今は深夜。
士郎も桜も眠っている。
警報値はまだ出ていない。
自分一人で判断しない。
凛は宝石を握ったまま、低く呟いた。
「明日、全員で確認する」
それが、この五年間で得た答えだった。
一人で完璧に対処しない。
記録する。
相談する。
それから動く。
凛はノートを開き、夢の内容を記録した。
そして最後に書く。
『まだ発動ではない。だが、近い。』
◆
朝が来た。
冬木の空は青かった。
拍子抜けするほど普通の朝。
士郎は台所に立ち、味噌汁を作った。
凛は眠そうな顔で居間に座り、桜は少し早めにやって来た。
大河はいつも通り騒がしく現れた。
「おはよう! 今日も朝ご飯の匂いにつられて来ました!」
「藤ねえ、それは堂々と言うことじゃない」
「堂々とすることで許されることもある!」
「ない」
凛がぼそっと言う。
桜が笑う。
朝食は普通だった。
普通だからこそ、全員が少しだけ大切に食べた。
食後、凛は昨夜の夢のことを話した。
士郎も、庭の白い光のことを報告した。
桜も、間桐邸地下の花が昨夜少し強く光ったと話した。
三つの報告は、同じ夜に起きていた。
凛はすぐに地図を広げる。
「今日、柳洞寺と港湾区をもう一度見る。午後は土蔵。夜は各自単独行動禁止」
士郎は頷いた。
「分かった」
桜も頷く。
「はい」
大河だけが首を傾げる。
「何か大掃除?」
凛は一瞬返答に困った。
士郎が言う。
「冬木の点検みたいなものだ」
「ほほう。ならご飯はしっかり食べないとね!」
大河は何も知らない。
それでも、彼女の言葉はいつも正しいところを突いてくる。
凛は苦笑した。
「そうですね。食べます」
「よろしい!」
朝の光が居間に差し込む。
その中で、凛は思った。
何かが近づいている。
けれど、今度は一人ではない。
◆
その日の調査では、大きな異常は出なかった。
柳洞寺の白い花は静かに咲いていた。
港湾区の空白も、昨日と変わらず沈黙していた。
間桐邸地下の花は、桜が見守る中でほんのりと光を宿したが、それ以上の変化はない。
衛宮邸土蔵の白い線も、床の奥に沈んだままだった。
拍子抜けするほど、何も起きなかった。
凛はそれを喜ぶべきか迷った。
何も起きないことは良いことだ。
だが、魔術師としては、何も起きない異常ほど厄介なものはない。
夕方、三人は衛宮邸の縁側に座っていた。
桜が茶を淹れ、士郎が夕食の献立を考え、凛が記録をまとめている。
風が吹く。
庭の木々が揺れる。
「今日は何も起きなかったな」
士郎が言う。
凛はノートを閉じた。
「何も起きなかった、も記録よ」
「そうだな」
桜が庭を見つめる。
「でも、少し近くなった気がします」
凛が顔を上げる。
「何が?」
桜は少し考えた。
「分かりません。でも、白い花の光が、前より遠くない気がしました」
士郎も頷く。
「俺も似た感じがする。声じゃないけど、息みたいなものが近い」
凛は二人の言葉を聞き、記録に書き加えた。
『主観的接近感あり。士郎、桜ともに同様の所感。』
書きながら、凛は思った。
科学的ではない。
魔術的にも曖昧だ。
だが、無視できない。
この五年間、そうした曖昧な所感が何度も正しかった。
凛は空を見る。
夕焼けが冬木の街を染めている。
何も起きていない。
まだ。
それでも、夜は来る。
◆
その夜、衛宮邸では穏やかな夕食があった。
食後、大河は満足そうに帰っていった。
桜も、凛と少し話した後、間桐邸へ戻った。
凛は遠坂邸へ帰ると言ったが、士郎が「遅いから泊まっていけばいい」と言い、大河が置いていった布団を見て、結局泊まることになった。
「まったく、計画性が崩れるわ」
「泊まる準備はあるだろ」
「あるけど」
「じゃあいいだろ」
「そういう問題じゃないのよ」
そう文句を言いながらも、凛は客間へ荷物を置いた。
夜が深くなる。
家の中が静かになる。
士郎は台所で明日の米を研いだ。
凛は居間で記録ノートを確認していた。
二人は特に会話をしなかった。
けれど、沈黙は気まずくなかった。
士郎が米を研ぎ終えた頃、凛がふと口を開いた。
「士郎」
「何だ?」
「五年間、よく続けたわね」
士郎は少し首を傾げる。
「記録?」
「それも。家も。日常も」
士郎は少し考えた。
「一人じゃないからな」
凛は目を伏せる。
「そう」
「遠坂が手順書作った。桜が一緒に見てくれた。藤ねえが騒いでた」
「最後のは関係ある?」
「かなりある」
凛は少し笑った。
士郎は続ける。
「一人だったら、多分続かなかった」
凛はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「私もよ」
士郎が見る。
凛はノートを閉じる。
「時計塔でやってこられたのは、冬木に記録が続いてたから。帰る場所があるって分かってたから」
士郎は少し驚いた顔をした。
凛は照れ隠しのように言う。
「何よ」
「いや。遠坂がそういうこと言うの、珍しいなって」
「五年も経てば、少しは言うようになるわよ」
「そっか」
「そうよ」
二人は少しだけ笑った。
その時、遠坂邸に置いてきた監視術式から、凛の携帯端末へ微細な通知が届いた。
凛の表情が変わる。
士郎もすぐに気づいた。
「異常か?」
凛は画面を見る。
「警報値じゃない。微細変動。港湾区と土蔵周辺……それと柳洞寺」
「同時か」
「ええ」
凛は立ち上がりかけた。
だが、すぐに止まる。
今すぐ飛び出すべきか。
いや、数値は低い。
夜間単独行動禁止と自分で決めた。
全員で確認するなら明朝。
凛は深呼吸した。
「明日の朝、確認する」
士郎は頷く。
「分かった」
その返事に、凛は少しだけ安心した。
以前なら、士郎はすぐに「見てくる」と言ったかもしれない。
今は違う。
少しずつだが、彼も変わっている。
凛は端末を閉じる。
「寝ましょう。明日は早いわ」
「遠坂がそれ言うのか」
「何よ」
「いや、成長したなって」
凛は士郎の足を軽く蹴った。
「調子に乗るな」
「痛い」
でも、二人とも笑っていた。
◆
深夜。
冬木の夜は静かだった。
衛宮邸の庭では、風が木々を揺らしている。
土蔵の床の奥で、白い線がほんの少しだけ光った。
遠坂邸の地下では、監視術式が微弱な反応を記録している。
間桐邸の地下では、白い花が静かに揺れている。
柳洞寺では、境内の白い花が一斉に月のない空へ向かって咲いている。
港湾区では、黒い水面の下に白い反射が沈んでいる。
それらはまだ繋がらない。
まだ円は閉じない。
まだ声は言葉にならない。
だが、五年間の沈黙は少しずつ形を得ていた。
誰かが見つけたから。
誰かが記録したから。
誰かが怖いと言ったから。
誰かが待っていると言ったから。
誰かが帰ってきたから。
願いは、まだ燃えていない。
けれど、燃える前の白い息が、冬木の地下で静かに震えていた。
◆
翌朝。
衛宮士郎は、普段より少し早く目を覚ました。
まだ空は薄暗い。
台所へ行き、米を炊く準備をする。
味噌汁の具を選ぶ。
豆腐。
葱。
わかめ。
いつもの朝。
だが、胸の奥にかすかなざわめきがあった。
凛もすぐに起きてきた。
髪は少し乱れているが、目は覚めている。
「おはよう」
「おはよう。寝られたか?」
「そこそこ」
「遠坂基準だと?」
「少し」
「寝ろよ」
「今夜寝るわよ」
「それ昨日も聞いた」
そこへ桜がやって来た。
「おはようございます」
「桜、早いな」
「少し気になって」
三人は顔を見合わせた。
誰も、何がとは言わなかった。
言わなくても分かっていた。
朝食を食べる。
普通に。
それを飛ばさない。
凛がそう決めた。
「調査は朝食後。空腹で霊脈を見ると判断を誤るわ」
士郎は少し笑った。
「藤ねえみたいなこと言うな」
「先生は時々正しいのよ」
桜も笑った。
朝食は静かだったが、重くはなかった。
誰も急がなかった。
味噌汁を飲み、卵焼きを食べ、茶を飲む。
それから、三人は立ち上がった。
まずは土蔵。
次に柳洞寺。
その後、港湾区。
そう決めた。
しかし、玄関を出る直前、凛の端末が震えた。
監視術式の反応。
凛は画面を見る。
表情が固まる。
士郎が尋ねる。
「どうした?」
凛は画面から目を離さずに言った。
「反応が消えた」
「消えた?」
「白い反応が一斉に消えた。柳洞寺も、港湾区も、間桐邸も、土蔵も」
桜が息を呑む。
「全部、ですか」
「ええ」
凛は眉を寄せる。
「まるで、息を止めたみたいに」
その言葉に、士郎は胸の奥が冷えるのを感じた。
息を止めた。
誰かが、何かを言う前に。
三人はしばらく黙った。
そして凛が言う。
「予定通り確認する。焦らない。記録する。判断はその後」
士郎と桜は頷いた。
その日の調査では、何も見つからなかった。
土蔵の白い線も消えていた。
柳洞寺の白い花も、普通の花のように沈黙していた。
間桐邸地下の花も光らなかった。
港湾区の空白も、いつも以上に静かだった。
何も起きない。
ただ、静かすぎる。
まるで、街全体が夜を待っているようだった。
◆
その夕方、凛は遠坂邸へ戻り、再び監視術式を調整した。
士郎は衛宮邸へ戻り、夕食の準備をした。
桜は間桐邸へ戻り、地下の花へ「また明日」と言った。
大河は何も知らず、夕飯を食べに来て騒いで帰った。
夜が来る。
冬木の街に灯りがともる。
川面に橋の光が伸びる。
遠くで車の音がする。
どこかの家から夕食の匂いが流れる。
街は今日も何事もなく眠りへ向かっていた。
衛宮士郎は、台所を片付けながらふと手を止めた。
遠坂凛は、自室で宝石を並べながら窓の外を見た。
間桐桜は、部屋の机に白い花の写真を置いた。
三人とも、理由のない予感を抱えていた。
何も起きていない。
誰も、まだ知らない。
けれど、冬木の地下では、すでに何かが目を覚ましかけていた。
それはまだ、声ではない。
祈りになる前の息。
願いになる前の震え。
燃える前の白。
この五年間、彼らはそれを見落とさなかった。
だが、それが何であるかまでは、まだ知らない。
知らないまま、夜は深くなる。
そして、その夜。
冬木の地下で、黒い何かが初めてゆっくりと息をした。
願いが燃える前夜が、始まろうとしていた。
――前日譚「祈りの五年間」完結。
――第0話「願いが燃える前夜」へ続く。
コメント
1件
凛、帰ってきたんだね……🥀 「ただいま」に五年かかったってところ、すごく刺さった。 桜も少しずつ自分の足で立てるようになってて、姉妹の距離が縮まる感じが切なくてあったかい。 白い花と黒い空白の不気味さも、日常の食卓の温かさと並んで描かれるから、余計に心に残る。 次、何が起きるのか——ちゃんと見届けたい🌙✨