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第0話 願いが燃える前夜
冬木の夜は、静かだった。
海から吹く風は冷たく、橋の灯りは川面に細く伸びている。
遠くで車の音がして、どこかの家から夕食の匂いが流れてきて、街は今日も何事もなく眠りへ向かっていた。
何も起きていない。
誰も、まだ知らない。
けれど、冬木の地下では、すでに何かが目を覚ましかけていた。
それは聖杯ではなかった。
願いを叶える器ではなく。
奇跡を注ぐ杯でもなく。
英雄を招くためだけの儀式でもなかった。
もっと古く、もっと曖昧で、もっと危ういもの。
人の願い。
神の未練。
英雄の後悔。
死者の残響。
それらを区別できなくなった黒い炉が、地下の底でゆっくりと息をした。
まだ炎は小さい。
まだ街は燃えていない。
まだ誰の名も呼ばれていない。
だが、炉の奥から、かすかな声が漏れた。
『願いは、消してはいけない』
それは祈りだった。
かつて、白い器が最初に抱いた小さな願い。
叶わなかった願いはどこへ行くのか。
忘れられた願いは消えてしまうのか。
誰にも届かなかった声は、最初からなかったことになるのか。
その問いに、誰も答えなかった。
だから器は願った。
消えないでほしい。
ただ、それだけだった。
だが、願いは術式に組み込まれ、術式は儀式へ変わり、儀式は炉へ変わった。
優しい祈りは、黒い理屈へ歪んだ。
消えないために、保存する。
保存するために、切り離す。
切り離すために、燃やす。
燃やし続ければ、願いは永遠に消えない。
それが、神杯の始まりだった。
◆
遠坂凛は、深夜の自室で目を覚ました。
時計の針は午前二時を少し過ぎている。
部屋は暗く、窓の外には冬木の街灯りが見えた。
「……最悪」
凛は額に手を当てる。
妙な夢を見た。
いや、夢というには感触が生々しすぎた。
黒い杯。
糸のように引き上げられる願い。
見覚えのない神殿。
そして、燃えているのに熱を持たない白い花。
魔術師としての直感が告げていた。
ただの夢ではない。
凛はベッドから起き上がり、机の上の宝石を手に取る。
魔力を流す。
いつもなら、宝石は静かに応える。
だが、その夜だけは違った。
宝石の内側に、一瞬だけ黒い影が走った。
凛の目が鋭くなる。
「霊脈……?」
冬木の霊脈が揺れている。
大きな地震のような揺れではない。
もっと細い。
もっと深い。
眠っていたものが、寝返りを打ったような微細な変動。
だが、魔術師にとっては十分すぎる異常だった。
凛はすぐに術式盤を展開する。
冬木の霊脈図が空中に浮かぶ。
柳洞寺。
深山町。
冬木大橋。
港湾区。
衛宮邸周辺。
複数の地点に、薄い黒い反応が浮かんでいる。
「なによ、これ」
聖杯戦争は終わったはずだった。
五年前に。
あの夜、すべてが終わったわけではないと凛は知っている。
残ったものはある。
歪んだものもある。
忘れたふりをしているだけの傷もある。
だが、これは違う。
聖杯の残滓ではない。
聖杯に似ているのに、もっと別の方向へ歪んでいる。
凛は唇を噛んだ。
「また、冬木で何か始まるっていうの?」
返事はない。
ただ、術式盤の中央に小さな文字が浮かんだ。
それは凛が入力したものではない。
霊脈側から勝手に浮かび上がった反応だった。
神杯。
凛は一瞬、息を止めた。
「……神杯?」
知らない言葉。
だが、嫌な響きだった。
◆
同じ頃。
衛宮士郎は、土蔵にいた。
特別な理由があったわけではない。
ただ眠れなかった。
布団へ入っても、胸の奥がざわつく。
何かを忘れているような、何かが近づいているような、落ち着かない感覚。
気づけば、彼は土蔵へ来ていた。
古い匂いがする。
木と鉄と埃。
そして、記憶。
五年前、この場所で彼は彼女と出会った。
青い剣士。
黄金の髪。
まっすぐな瞳。
問われた言葉を、今でも覚えている。
けれど、その記憶に浸るために来たわけではない。
土蔵の床に、薄い光が走っていた。
士郎は眉をひそめる。
「なんだ、これ」
召喚陣ではない。
少なくとも、彼が知っている聖杯戦争の召喚陣とは違う。
円があり、線があり、文字のようなものがある。
だが、その一部が歪んでいた。
魔術式というより、ひび割れた鏡のようだ。
士郎は膝をつき、床へ手を伸ばす。
構造解析。
瞬間、頭の奥に激しいノイズが走った。
「っ……!」
見えた。
剣ではない。
杯でもない。
空に浮かぶ黒い円。
そこから伸びる無数の糸。
糸の先に、人の手。
神の影。
英雄の背中。
死者の声。
そして、白い少女。
顔は分からない。
ただ、彼女は何かを抱えていた。
願い。
あまりにも多すぎる願い。
士郎は反射的に手を引いた。
息が荒い。
土蔵の床の光は消えていない。
むしろ、さっきより強くなっている。
「……誰かが、呼んでるのか?」
自分でもおかしいと思った。
だが、そうとしか感じられなかった。
助けて、ではない。
来て、でもない。
もっと曖昧な声。
誰かに聞いてほしい。
誰かに止めてほしい。
誰かに、消えないでと言ってほしい。
士郎は胸元を押さえた。
嫌な予感がする。
だが、嫌だからといって背を向けられるほど、彼は器用ではなかった。
「……明日、遠坂に相談するか」
そう呟いた瞬間、右手が熱を持った。
士郎は右手を見る。
令呪ではない。
五年前のそれとは違う。
皮膚の奥に、輪のような赤い痕が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
士郎は目を見開く。
「今のは……」
土蔵の外で、風が鳴った。
冬木の夜は、まだ静かだった。
けれど、何かが始まる音だけは、確かに聞こえた。
◆
時計塔の遠い一室で、ロード・エルメロイⅡ世は煙草を吸おうとして、やめた。
灰皿にはまだ火のついていない煙草が置かれている。
彼の机には、冬木に関する資料が積まれていた。
正式な依頼ではない。
だが、妙な霊脈変動の報告が複数届いていた。
冬木。
その名を見ただけで、彼の眉間には深い皺が刻まれる。
「まったく、あの土地は何度厄介事を起こせば気が済むんだ」
独り言に返事はない。
だが、その時、机の上の古い聖遺物箱がかすかに揺れた。
エルメロイⅡ世は目を細める。
中にあるのは、彼にとって忘れられない縁の品。
かつての戦争。
かつての王。
かつての自分。
箱の中から、低い笑い声が聞こえた気がした。
もちろん、そんなはずはない。
だが、彼は知っている。
魔術師にとって、そんなはずはない、ほど信用ならない言葉はない。
「……まさか」
聖遺物箱の蓋に、うっすらと赤い紋様が浮かぶ。
令呪ではない。
神紋でもない。
そのどちらにも似た、異常な刻印。
エルメロイⅡ世は椅子から立ち上がった。
「冬木で、また何かが起きているのか」
彼は資料を掴む。
そして、ほんの少しだけ、苦い笑みを浮かべた。
「王よ。まさか、また私を笑いに来るつもりではあるまいな」
返事はない。
だが、箱はもう一度だけ揺れた。
◆
冬木教会の地下。
古い記録庫に、一人の男が立っていた。
黒い法衣。
静かな目。
祈る者というより、記す者の眼差し。
鷺宮玄礼。
彼は古い書架の前で、白紙の本を開いていた。
その本にはまだ何も書かれていない。
だが、ページの奥には無数の声が眠っている。
叶わなかった願い。
忘れられた願い。
願ったことすら誰にも知られなかった願い。
玄礼は筆を持つ。
「願いは、消えるべきではない」
彼の声は静かだった。
狂気というには穏やかすぎる。
信仰というには冷たすぎる。
ただ、確信があった。
「人は忘れる。時は奪う。死は断つ。だが、願いそのものが消える必要はない」
彼は白紙へ筆を下ろそうとする。
だが、その前に地下の奥から黒い振動が走った。
玄礼は手を止める。
「……起きましたか」
書架の奥に、黒い杯の影が浮かんだ。
聖杯ではない。
もっと歪で、もっと暗い。
その底から、いくつもの神話の影が立ち上がる。
海。
空。
死。
雷。
戦。
智慧。
愛。
鍛冶。
狩猟。
太陽。
月。
酒。
豊穣。
境界。
終末。
神々の気配。
本来、冬木の儀式が繋ぐべき座ではない場所。
玄礼は目を伏せる。
「英霊の座ではなく、神々の座へも接続した。やはり、通常の聖杯戦争では済まない」
彼は本を閉じた。
「ならば、記しましょう」
黒い杯の影が揺れる。
「英霊と神格。人の願いと神の未練。死者と生者。すべてが交錯する戦争を」
玄礼は静かに告げる。
「神杯戦争、と」
◆
その夜、冬木の複数の場所で、異常な召喚反応が起きた。
港湾区では、海が月もないのに盛り上がった。
波の中から、巨大な三叉の影が見えた。
誰かが海の底から叫ぶ。
沈めろ。
戻せ。
陸などなかったことにしろ。
海王の気配が、冬木の岸辺に触れた。
深山町の上空では、空が一瞬だけ裂けた。
星のない黒い天幕の奥から、天を覆う何かがこちらを見下ろした。
空そのものが、冬木を小さな箱庭として観測していた。
雷が、雲もない夜に走った。
雷霆の欠片が霊脈へ落ち、王権の残滓が街の灯りを一瞬だけ支配した。
山中では、狩りの気配が目覚めた。
誰かを見つけるための矢。
誰かを逃がさないための月光。
そして柳洞寺のさらに地下では、終末の庭が小さく開いた。
白い雪のような光。
黒い終わりの花。
その中心に、少女の輪郭。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
死んだはずの少女の魂の残響が、黒い杯に拾われた。
彼女はまだ目を覚ましていない。
ただ、眠りながら呟いた。
「……終わりたい」
その言葉を、神杯は聞いた。
そして、間違えた。
終わりたいという願いを、終わらせるための願いとしてではなく、永遠に燃やすための燃料として認識した。
黒い糸が、少女の魂へ伸びる。
終末神の影が、その糸に触れた。
神杯戦争の最初の駒が、静かに配置されていく。
◆
英霊の座にも、異常は届いていた。
それは呼び声だった。
だが、通常の召喚の呼び声ではない。
魔術師が触媒を用意し、聖杯が座へ手を伸ばし、英霊を選ぶ。
本来なら、そういう流れがある。
しかし今回は違う。
呼んでいるのは杯ではない。
燃えている願いだ。
叶えられなかった願いが、座へ届いている。
それは英霊たちの記録を乱した。
剣士の記録が揺れる。
弓兵の記録が応える。
騎兵、槍兵、裁定者、復讐者、盾兵、観測者、影武者、漂流者。
複数の英霊の記録が、同時に冬木へ引かれていく。
その中で、青い剣士の影が目を開けた。
アルトリア・ペンドラゴン。
彼女はまだ召喚されていない。
だが、声を聞いた。
士郎の声ではない。
凛の声でもない。
もっと奥から来る声。
願いは消してはいけない。
その声に、彼女は眉をひそめた。
優しいようで、ひどく危うい声だった。
願いを消さないことと、願いを縛ることは違う。
彼女はそれを知っている。
王として、多くの願いを背負った。
叶えられなかった願いもある。
守れなかったものもある。
だからこそ、感じた。
この呼び声は、危険だ。
そして、その危険の先に、見覚えのある少年の背中があった。
成長した少年。
それでも危なっかしく、人の願いに手を伸ばそうとする背中。
アルトリアは静かに目を閉じた。
「また、貴方は」
まだ召喚は始まっていない。
けれど、彼女は知った。
もし呼ばれるのなら。
もし再び剣を取るのなら。
今度は王としてだけではなく、アルトリアとして剣を振るうことになる。
◆
赤い弓兵もまた、異常を感じていた。
エミヤは座の中で、深く息を吐く。
「懲りないな、あの男は」
見えたのは衛宮士郎。
まだ何も始まっていないのに、すでに面倒事の中心へ近づいている。
いつものことだ。
呆れるほどに。
だが、今回はいつもと違う。
士郎だけではない。
遠坂凛もいる。
間桐桜もいる。
イリヤの気配まである。
そして、神。
英霊ではなく、神格が混ざっている。
エミヤは眉をひそめた。
「聖杯戦争ではないな」
ならば何だ。
その答えは、黒い杯の底から聞こえた。
神杯戦争。
エミヤは皮肉げに笑った。
「名前からしてろくでもない」
だが、彼の記録はすでに引かれ始めている。
召喚される。
おそらく凛のもとへ。
五年ぶりに。
エミヤは目を閉じた。
再会は、いつも厄介だ。
過去と未来が顔を合わせる時、人は平静ではいられない。
それでも、行くしかない。
なぜなら、そこにはまだ間違える前の衛宮士郎がいる。
そして、間違えながらも進もうとする遠坂凛がいる。
「まったく」
エミヤは呟いた。
「今回も、説教が必要そうだ」
◆
夜明け前。
冬木の空に、月はなかった。
だが、一瞬だけ空が黒く欠けた。
日食でも月食でもない。
空そのものが、誰かの願いに覆われたような黒い欠け。
Divine Eclipse。
神の食。
神話と人類史が重なる時、光は一度、欠ける。
その欠けた光の下で、冬木の街はまだ眠っていた。
衛宮士郎は土蔵の床に残った光を見つめている。
遠坂凛は霊脈図を前に、出かける準備を始めている。
ロード・エルメロイⅡ世は冬木行きの資料をまとめている。
鷺宮玄礼は白紙の本を閉じている。
イリヤは終末の庭で、まだ眠っている。
神々は冬木へ影を落とし始めている。
英霊たちは、呼び声に応じようとしている。
そして、黒い神杯は地下で静かに脈打った。
『願いを、集める』
『願いを、消さない』
『願いを、燃やす』
その声は、まだ誰にも届いていない。
届いたとしても、誰も意味を理解できなかっただろう。
だが、やがて一人の少年がその声に手を伸ばす。
やがて一人の少女が「生きたい」と言う。
やがて白い器は名を得る。
やがて未定の存在は未来と呼ばれる。
やがて願いは畑へ還り、返事の庭に芽が出る。
そして最後に、沈黙の冠へ返事が書かれる。
けれど、それはまだ先の話。
今はまだ、第零夜。
願いが燃える前夜。
◆
土蔵の床の光が、ふたたび強くなった。
士郎は立ち上がる。
胸の奥で、何かが鳴っている。
鈴ではない。
まだ名前のない音。
未来でいつか、返事の庭に響くことになる音。
士郎は右手を握る。
赤い輪の痕が、また一瞬だけ浮かんだ。
「……何が始まるんだ」
その問いに、夜は答えない。
ただ、土蔵の床に刻まれた異常な召喚陣が、静かに回り始めた。
遠くで、凛の宝石が黒く光る。
英霊の座で、剣士が目を開ける。
弓兵が溜息をつく。
神々の座で、海が轟く。
死者の残響が、終末の庭で震える。
黒い神杯が、初めて冬木の空へ影を伸ばす。
その瞬間。
まだ誰も知らない戦争の名が、霊脈の奥で刻まれた。
Fate/Divine Eclipse ― 神杯戦争 ―
神と英霊。
願いと記録。
死者と生者。
沈黙と返事。
すべてが交わる夜が、始まろうとしていた。
そして、夜明けの直前。
土蔵の中で、士郎は確かに聞いた。
誰かの声を。
『願いは、どこへ行くの?』
士郎は答えられなかった。
まだ、その答えを知らなかったから。
けれど彼は、声のした方へ手を伸ばした。
それが、この物語の最初の返事だった。
――第一話「神杯、開幕」へ続く。
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ちょうど読み終わったところです……いや、これ第0話で42話も公開されてるのか。でも「願いが燃える前夜」ってタイトルがもう刺さる。聖杯じゃなくて「神杯」って呼び方が新しくて、しかも願いを消さないために燃やすって逆説がすごく好き。凛が深夜に目覚めるシーンの生々しさと、士郎の土蔵で赤い輪が浮かぶ場面、映像が浮かぶようだったわ。それに、イリヤが出てきたところでグッときた。これからどう交わっていくのか、本当に楽しみ。