テラーノベル
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夜と朝の境界線は、いつも曖昧だ。 特に、遮音性の高いボーダー本部の作戦室に籠っていると、外の時間の進み具合なんてものは簡単に分からなくなる。
菊地原士郎は、自席の背もたれに深く体重を預け、手元のスマートフォンを眺めていた。画面の端に表示された時刻は、午前四時十五分。そろそろ、夜と呼ぶには白々しい時間が近づいている。
「……帰ればいいのに」
誰もいない作戦室で、菊地原は小さく呟いた。ここに残っているのは、居残り訓練をしていたからでも、熱心に作戦を練っていたからでもない。ただなんとなく、自室のベッドに戻って目を閉じるのが億億だっただけだ。
ぼくには『強化聴覚』という副作用がある。耳が良い、と一口に言っても、ファンタジー小説に出てくるような「何キロも先のアリの歩く音が聴こえる」だとか「街中の人間の心の声が流れ込んでくる」といった、そんな大層なものではない。ぼくの可聴域は通常の間の数倍程度。防音性の高いこの作戦室に入ってしまえば、外の雑音なんてほとんど遮断できるし、耳を塞げばそれなりに静寂は手に入る。ただ、常人よりも聴こえすぎるのは確かだった。人が呼吸を乱す微かな音、トリガーを起動した瞬間の固有の駆動音、足の裏が床を捉える角度。戦闘においてこれ以上ない武器になるその能力は、日常においては、他人の僅かな動揺や、隠そうとした躊躇いを拾い上げてしまうフィルターになる。それが、時々少しだけ煩わしい。
菊地原はスマートフォンをポケットに放り込み、席を立った。作戦室の自動ドアが開く。廊下に出ると、深夜勤務の職員たち交わす低い話し声や、空調の作動音が薄く鼓膜を叩いた。エレベーターには乗らず、階段を使って屋上へと向かった。重い鉄の扉を押し開けると、冷たい夜風が容赦なく髪を揺らした。
「……あ」
思わず声が漏れた。目の前に広がっていたのは、深い藍色と、東の地平線からじわりと染み出すような薄い橙色が混ざり合う、不思議なグラデーションだった。夜明けだ。空気が信じられないほど澄んでいる。街の明かりはあらかた消え失せ、遠くの幹線道路を走るトラックのロードノイズが、文字通り遠くの音として綺麗に分離されて聴こえてくる。屋上のフェンスに近づき、街を見下ろす。三門市の街並みは、巨大な近界民の脅威に晒されながらも、今は静かに眠りについているように見えた。そのとき、フェンスの根元、植え込みの影で、小さな光が点滅しているのが目に入った。菊地原は目を細める。それは、一匹の小さな虫だった。季節外れの、あるいはこの街の歪な環境のせいか、今にも消え入りそうな光を放ちながら、頼りなく羽ばたいている。蛍だった。こんなコンクリートの塊のようなボーダー本部の屋上に、なぜ蛍がいるのかは分からない。どこかの川辺から風に流されてきたのだろうか。チカチカと、不規則に、けれど懸命に明滅するその光を見つめているうちに、菊地原の脳裏に、不意に古い記憶が呼び起こされた。
――ボーダーに入隊したばかりの頃。まだ風間隊に選ばれる前、自分の能力の使い道が見出せず、周囲の評価もパッとしなかった時期。
『菊地原のサイドエフェクトって、戦闘じゃ使いにくくない?』
『耳が良いだけでしょ』
そんな、悪意の薄い、だからこそ余計に芯に刺さるような言葉が、当時の菊地原の耳には実によく届いた。他人の声のトーンから、自分に対する侮りや諦めを正確に聞き取ってしまう。自分の価値を証明できない焦燥感。底の抜けた杓で水を掬うように、いくら努力しても自信が指の隙間から溢れ落ちていくような感覚。消えてしまいたい、とまでは思わなくても、このまま暗闇の中に溶けてしまえば楽なのに、と考えた夜は一度や二度ではなかった。
「……バカみたい」
菊地原はフェンスに顎を乗せ、蛍から目を逸らして空を見上げた。藍色の空は、刻一刻と明るさを増していく。夜が明ければ、あの小さな蛍の光は、太陽の光にかき消されて完全に見えなくなるだろう。世界が明るくなることは救いのはずなのに、その光が、誰かの小さな存在を塗りつぶしてしまうようでもあった。カチャ、という小さな金属音が聴こえた。距離にして約十メートル。屋上への扉が開く音。菊地原は振り向かなかった。靴底がコンクリートを踏む音のテンポ、重心の移動のさせ方だけで、誰が来たのかは瞬時に分かったからだ。
「やっぱりここにいた」
少し呆れたような、けれど落ち着いた声。歌川遼だった。歌川はぼくの数歩隣まで歩いてくると、同じようにフェンスに手をかけた。
「風間さんが探してたぞ。作戦室に上着が置きっぱなしだったって。三上先輩も、朝一のミーティングに遅れたら怒るって言ってた」
「……まだ四時半だし。ミーティングは九時からでしょ。大げさなんだよ、みんな」
「おまえが連絡もなしに夜通し戻らないから、みんな心配するんだろ。オレだって探したんだからな」
歌川の声には、非難の響きはなかった。ただ事実を淡々と告げるような、身内に対する慣れた調子だった。ぼくはフンと鼻を鳴らし、再び東の空に目をやった。
「歌川」
「ん?」
「あそこに、蛍がいる」
菊地原が指差した先を、歌川は目を凝らして見つめた。一般の視力では、明け方の薄暗がりの中で小さな虫を探すのは難しい。
「……ああ、本当だ。珍しいな、こんなところに」
「もうすぐ夜が明けるから、見えなくなるけどね」
菊地原の言葉に、歌川は少しだけ沈黙した。それから、いつも通りの穏やかなトーンで言った。
「見えなくなっても、そこにいるのは変わらないだろ」
その言葉が、菊地原の耳に、すとんと綺麗に入ってきた。歌川の声の波形には、何の嘘も、飾った本音も混ざっていない。彼はただ、自分が思った通りの事実を口にしているだけだった。
「……相変わらず、真面目だね」
#米屋陽介
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「褒め言葉として受け取っておくよ。オレとしては普通のことを言ったつもりだけど」
歌川は苦笑しながら、菊地原の肩を軽く叩いた。
「風間さんも言ってたぞ。おまえの耳は、オレたちの目であり、盾だ。余計な雑音まで拾う必要はない。オレたちが聴かせる音だけを信じていればいいって」
風間蒼也という男は、口数の多い上司ではない。けれど、彼が口にする言葉には、一切のブレがない。ぼくの能力を「使えない」と切り捨てず、むしろ風間隊の戦術の核として組み込んでくれたのが風間だった。ぼくの耳は、他人の嘘を聞き分けるのと同時に、彼らの「本物の信頼」をも、正確に捉えることができるようになっていた。
「風間さんも、歌川も、過保護すぎ。ぼく、そこまで弱くないし」
「自覚がないのが一番困るんだよ。ほら、冷えてきたから戻るぞ」
歌川が歩き出す。その後ろ姿を追いかけながら、菊地原は最後にもう一度だけ、足元の植え込みを見た。蛍の光は、すでに白み始めた朝の空気の中に溶け込み、肉眼ではほとんど判別できなくなっていた。けれど、彼には聴こえる。小さな羽が空気を刻む微かな振動の音が。見えなくなっても、消えたわけじゃない。世界がどれだけ明るくなろうと、自分たちの居場所は、確かにここに構築されている。
屋上の扉を閉めると、再びボーダー本部の日常の音が菊地原を迎えた。三上のキーボードを叩く音、風間が書類をめくる音、そして隣を歩く歌川の安定した足音。相変わらず世界はそれなりに騒がしいけれど。
「……まあ、悪くはないか」
菊地原は小さく呟き、ポケットの中で冷たくなったスマートフォンを握り直した。夜明けの終わりを告げるように、遠くで朝のサイレンが静かに鳴り響いていた。
コメント
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感想、読ませていただきました🌷 この第1話、静かでとても美しい一夜の話ですね。「夜と朝の境界線」というタイトルが、菊地原のサイドエフェクト「強化聴覚」や、彼自身が抱える他者との距離感——見えすぎる/聴こえすぎることの孤独——とぴったり重なって、もうそれだけでぐっと来ました。 特に好きなのは、屋上で蛍を見つける場面です。小さな、消え入りそうな命の光が、かつて自分を証明できずにいた頃の自分と重なって、「見えなくなっても、そこにいるのは変わらない」と歌川がさらりと言うところ。嘘のない声色だからこそ、菊地原の耳にすとんと落ちたんでしょうね。風間さんの「俺たちが聴かせる音だけを信じていればいい」も、胸に沁みました。 最後、蛍の羽音がかすかに聴こえる感覚——「見えなくても、消えたわけじゃない」——この一文に、この話の全てが詰まっている気がします。 さんまさんの、静かな夜明けの空気を切り取るような描写が本当に素敵です。続きもとても気になります!