テラーノベル
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第1話 朝を捨てる馬車
朝靄の降りた村は、ひどく静かだった。
屋根の上には薄い霜が残り、石畳を撫でる風は、冬の名残を思わせる冷たさを帯びている。教会の尖塔には一羽の烏が留まり、濁った鳴き声をひとつ落として飛び去った。
マリは、小屋の戸口に立っていた。
手にしているのは、小さな鞄がひとつ。
替えの衣服と、擦り切れた本。それから、昨夜その頁に挟んだ白い花。
十八年を生きた彼の持ち物は、それだけで事足りた。
持っていくものが少ないのではない。
置いていくことを惜しむものが、あまりにも少なかったのだ。
マリは振り返り、住み慣れた小屋を眺めた。
傾いた棚。脚の欠けた椅子。冬の夜に何度も冷え切った寝台。壁に掛けられた古い布は、長い年月のあいだに色を失い、もとの柄さえ判然としない。
どれも美しいものではなかった。
けれど、十八年ものあいだ、マリの暮らしを囲んできたものたちだった。
マリ:「……もう、ここには帰ってこないのかな」
呟きは、朝の空気に溶けていった。
返事をする者はいない。
マリはしばらく戸口に佇んでいたが、やがて静かに扉を閉じた。
鍵は掛けなかった。
どうせ、この小屋を惜しむ者などいないのだから。
*
村の広場には、一台の黒い馬車が停まっていた。
艶やかな車体には、見慣れない紋章が刻まれている。銀の蔓を思わせる意匠が扉の縁を飾り、窓には厚い黒布が垂らされていた。
馬車を引く二頭の馬は、どちらも夜のように黒い。
白い息を吐きながら、微動だにせず主人の指示を待っている。
その傍らに、黒衣の男が立っていた。
年齢の判然としない、痩せた男だった。表情は乏しく、磨き上げられた革靴には泥ひとつ付いていない。
マリが近づくと、男は無言で視線を向けた。
使者:「マリ殿でいらっしゃいますか」
マリ:「うん。おれがマリ」
使者:「お迎えに上がりました。お荷物は、それだけで?」
マリ:「そうだよ」
使者は鞄に目を落とした。
何かを思案するような沈黙が、ほんのわずかに流れる。
使者:「……承知いたしました。では、こちらへ」
差し出された手に、マリは素直に頷いた。
その様子を、村人たちは少し離れた場所から眺めていた。
彼らの顔には、別れを惜しむ色などない。
長年、村に災いをもたらすと信じてきた存在が、ようやく自分たちの前から消える。その安堵を、隠そうとする者さえいなかった。
村人A:「これで、少しは平穏になるだろう」
村人B:「あちらで何があろうと、もう我々には関係ない」
村人C:「吸血鬼たちが引き取ってくださるのだ。ありがたいことではないか」
マリには、彼らの言葉が聞こえていた。
けれど、聞こえないふりをした。
別れ際くらい、何か言ってもらえるかもしれない。
そんな期待を、ほんの少しだけ抱いていたからだ。
けれど、誰も彼に声を掛けなかった。
マリは視線を落とし、鞄の持ち手を握り直した。
マリ:「……じゃあね」
その声は、ひどく小さかった。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからない。
使者は何も言わず、馬車の扉を開いた。
マリは一度だけ村を振り返った。
教会の尖塔。煙の上がる煙突。見慣れた家々の屋根。
その向こうには、北側の石垣がある。
白い花が咲く、小さな花畑。
ここからでは見えない。
それでもマリは、そこに花が咲いていることを知っていた。
マリ:「……元気でね」
風が吹いた。
黒いレースの裾が、頬のそばで揺れる。
マリは馬車へ乗り込んだ。
扉が閉ざされる。
重い音がひとつ響き、それきり、村の声は遠ざかった。
*
馬車の中は、思いのほか広かった。
深い葡萄酒色の座席には柔らかな布が張られ、壁には細やかな彫刻が施されている。窓辺には銀の留め具があり、揺れに合わせて小さな装飾がかすかに鳴った。
マリは座席の端に腰を下ろし、鞄を膝に載せた。
こんな立派な馬車に乗るのは初めてだった。
村を出るときには、もっと乱暴に扱われるものだと思っていた。
荷物のように放り込まれたり、急かされたりするのではないかと。
けれど、使者は終始、彼に丁寧な言葉を使っていた。
マリ:「……あの」
使者:「はい」
マリ:「おれ、どこに行くの?」
使者は向かいの席に腰を下ろし、静かに答えた。
使者:「北の森にございます。そこに、我が主たちのお住まいが」
マリ:「吸血鬼の館?」
使者:「左様でございます」
マリ:「……どんなところ?」
使者は、わずかに目を伏せた。
使者:「古い館でございます。人の暮らす場所とは、少々異なるところもございましょう」
マリ:「ふうん」
それきり、マリは黙った。
人の暮らす場所とは違う。
その言葉の意味を、彼はうまく想像できなかった。
食事が違うのだろうか。
眠る場所が違うのだろうか。
それとも、そこに暮らす者たちは、村人のように自分を嫌うのだろうか。
マリ:「……おれ、何かしなきゃいけないの?」
使者:「館に到着されましたら、主たちの指示に従っていただければ結構です」
マリ:「そっか」
使者:「何か、ご不安なことでも?」
マリは少し考えた。
不安というものが何なのか、よくわからない。
知らない場所へ行くことは、たしかに落ち着かない。けれど、それが恐ろしいことなのか、楽しみにすべきことなのか、判断する術を持たなかった。
マリ:「……お花、あるかなって」
使者:「花、でございますか」
マリ:「うん。おれ、花が好きだから」
使者は、わずかに意外そうな顔をした。
十八歳の青年が、これから向かう場所について最初に気に掛けたのは、自分の待遇でも、帰る方法でもなかった。
ただ、花があるかどうか。
使者:「……館の庭には、さまざまな植物がございます」
マリ:「ほんと?」
使者:「ええ。お気に召すものもあるかと存じます」
マリ:「よかった」
その返事には、素直な喜びが滲んでいた。
使者はそれ以上、何も尋ねなかった。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を離れ、土の道を踏みしめる音が響き始めた。
マリは窓の黒布を少しだけ持ち上げ、外を覗いた。
村の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
見慣れた家々が小さくなり、教会の尖塔が遠ざかる。
やがて、村の入口に立つ古い木が見えた。
幼い頃、あの木の下で村の子供たちが遊んでいたことを思い出す。
マリも、一度だけ混ざろうとしたことがあった。
けれど、顔を隠した彼を見るなり、皆が逃げてしまった。
あのとき、どうして逃げるのか尋ねたのだったか。
それとも、何も言えずに立ち尽くしたのだったか。
記憶は、曇った硝子の向こうにあるように曖昧だった。
マリは黒布を下ろした。
村は、もう見えなくなっていた。
*
昼を過ぎる頃、馬車は森へ入った。
木々は高く、枝葉は空を覆い尽くすように重なっている。陽光は細い筋となって地面へ落ち、湿った土の匂いに、枯れ葉の香りが混じっていた。
人の声は、とうに聞こえない。
鳥の囀りも次第に遠のき、代わりに、車輪が小石を踏む音ばかりが続いた。
マリは窓の外を眺めていた。
森を見るのは初めてではない。
けれど、村の近くにある森とは、ずいぶん様子が違っていた。
木々の幹は太く、根は地面を割るように盛り上がり、苔むした岩の隙間には名も知らぬ草花が生えている。
その奥に、見たことのない世界が広がっているような気がした。
マリ:「……すごいね」
使者:「何が、でございますか」
マリ:「木。こんなに大きいの、初めて見た」
使者は窓の外へ目を向けた。
使者:「この森は、長い年月を経ております。人が立ち入らなくなった場所も多くございますから」
マリ:「誰も来ないの?」
使者:「ええ。館に用のない者は、ほとんど」
マリ:「どうして?」
使者:「……恐れられているからでございましょう」
マリは首を傾げた。
恐れられる。
その言葉には、少しばかり聞き覚えがあった。
自分もまた、そういう存在なのだと、ずっと教えられてきたから。
マリ:「吸血鬼って、そんなに怖いの?」
使者はすぐには答えなかった。
馬車の揺れに合わせて、窓辺の銀飾りが小さく鳴る。
使者:「人とは異なるものを、恐ろしく感じるのは自然なことでございましょう」
マリ:「……そっか」
マリは再び窓の外を見た。
人とは異なるもの。
それなら、自分も同じなのだろうか。
けれど、吸血鬼たちが自分を恐れるとは思えなかった。
村人たちは、彼の顔を見ることさえ嫌がった。
けれど、館へ向かう使者は、彼を恐れているようには見えない。
それどころか、ずいぶん丁寧に扱ってくれる。
マリ:「ねえ」
使者:「はい」
マリ:「館の人たちって、優しい?」
使者は、ほんの一瞬だけ沈黙した。
使者:「……それは、実際にお会いになってから、お確かめくださいませ」
マリ:「うん。そうする」
それ以上、彼は尋ねなかった。
窓の外では、白い蝶が一匹、木々の間を漂っていた。
馬車の速度に合わせるようにしばらく飛んでいたが、やがて枝葉の向こうへ消えていく。
マリは、その姿を見送った。
いつか、自分もあんなふうに、好きなところへ行けるのだろうか。
誰かに許しを乞うことなく。
行きたい場所へ行き、見たいものを見て、好きなものを好きだと言えるように。
そんなことを考えたのは、初めてだった。
*
日が傾くにつれ、森の色は深まっていった。
木々の隙間から差し込む光は黄金から琥珀へと変わり、やがて赤黒い影が地面を覆う。
馬車は、まだ止まらない。
マリは膝の上の鞄を開き、古い本を取り出した。
擦り切れた表紙を撫で、頁をそっとめくる。
そのあいだに挟まれた白花は、少しずつ水分を失い始めていた。
花弁の端がかすかに丸まり、瑞々しかった白に、乾いた色が差している。
マリは花を見つめた。
マリ:「……大丈夫かな」
誰に向けた言葉でもない。
花が枯れてしまうことが、少しだけ惜しかった。
あの花畑には、ほかにも花が咲いている。
けれど、この一輪は、自分が摘み取ったものだ。
自分の手で選び、自分の本に挟んだもの。
マリは本を閉じ、鞄へ戻した。
マリ:「また、花を見つけられるといいな」
使者は何も言わなかった。
ただ、窓の外へ目を向け、森の奥を見つめている。
*
夕闇が森を満たした頃、馬車はゆるやかな坂道を上り始めた。
それまで絶え間なく続いていた車輪の音が、少しずつ鈍くなっていく。
馬の蹄が、石を打つ。
乾いた音が、静まり返った森に響いた。
マリは窓の黒布を持ち上げた。
木々の隙間に、何かが見えた。
最初は、闇の一部だと思った。
けれど、馬車が坂を上るにつれ、その輪郭は次第に明らかになっていく。
高い尖塔。
黒い屋根。
森の奥にそびえる、巨大な建物。
まるで、夜そのものが石造りの姿を得たかのような館だった。
窓には灯りがともっている。
その光は温かさを感じさせるものではなく、深い闇の中に浮かぶ、無数の瞳のように見えた。
マリは、息を止めた。
マリ:「……あれが?」
使者:「はい。あれが、我が主たちのお住まいでございます」
馬車は、なおも進んでいく。
館へ続く道の両脇には、古い石像が並んでいた。
欠けた翼を持つ天使。
顔の削れた聖人。
蔓に覆われた獣の像。
どれも長い年月のうちに風化し、何を象ったものなのかさえ定かではない。
その向こうには、黒い鉄門がそびえていた。
門の上部には、銀の蔓を模した装飾が絡み合っている。
その中央には、見知らぬ紋章が刻まれていた。
馬車がゆっくりと速度を落とす。
マリは、膝の上で指を組んだ。
これから、自分はあの中へ入る。
そこで、知らない人たちと暮らすことになる。
どんな人たちなのだろう。
怖いのだろうか。
優しいのだろうか。
それとも、村の人たちと同じなのだろうか。
マリ:「……ねえ」
使者:「はい」
マリ:「おれ、ちゃんと挨拶できるかな」
使者は、意外そうに彼を見た。
マリは黒いレースの結び目を確かめながら、少し困ったように首を傾げている。
使者:「ご心配には及びません。ご自身の言葉で、お話しになればよろしいかと」
マリ:「……そっか」
それなら、きっと大丈夫だ。
そう思うことにした。
やがて、馬車が完全に停止した。
外では、重い鉄門が軋みを上げながら開き始めている。
その音は、長い眠りから目覚める獣の唸りにも似ていた。
マリは窓の外を見つめた。
門の向こうには、広い庭が続いている。
枯れた薔薇の蔓。
夜露を帯びた白い石畳。
そして、その先にそびえる、巨大な館。
あそこには、花があるだろうか。
そんなことを考えていた。
自分の血が、古い書物に記された伝説のものであることも。
その血を求めて、七人の吸血鬼が彼を待ち望んでいることも。
マリは、何ひとつ知らない。
ただ、黒いレースの向こうから、静かに館を見つめていた。
やがて、扉の外で足音がした。
使者:「マリ様。到着いたしました」
マリは、ゆっくりと顔を上げた。
マリ:「……うん」
差し出された手を取り、彼は馬車を降りる。
冷たい夜風が、頬を撫でた。
館の高窓では、蝋燭の灯りが揺れている。
その奥に、誰かの影が動いたような気がした。
マリは、そっと目を細める。
けれど、まだ何も見えない。
扉の向こうに誰がいるのかも。
彼らが何を望んでいるのかも。
これから自分に何が起こるのかも。
何も知らぬまま、マリは館の前に立っていた。
十八年を過ごした村を背に。
白い花を挟んだ古い本を、胸に抱いて。
その足元へ、館から漏れた灯りが、細長い影を落としていた。
コメント
1件
第2話、読み終えました…! マリが村を離れて館へ向かう道中がとても丁寧に描かれていて、胸がぎゅっとなりました。特に、お世話になったわけでもない小屋の鍵を掛けなかったところや、「お花、あるかな」と尋ねるシーンが、彼の純粋さとこれまでの孤独を感じさせて切なかったです。静かな筆致なのに、登場人物たちの空気感がひしひしと伝わってきました。次話が待ち遠しいです…!