テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第2話 夜の館に招かれた白花
扉が開いた瞬間、マリは小さく息を呑んだ。
その先に広がっていたのは、夜をそのまま閉じ込めたような大広間だった。
高い天井から吊るされたシャンデリア。深紅の絨毯。壁に並ぶ古い肖像画。そのどれもが長い年月を生きてきたようで、館全体から不思議な静けさが漂っている。
外から見たときも大きな屋敷だとは思ったけれど、中は想像していたよりずっと広い。
マリは黒いレースの向こうから、きょろきょろと辺りを見回した。
セシル:「ようこそ、おいでくださいました。マリ様」
隣に立つ青年が、恭しく頭を下げる。
赤みを帯びた茶色の髪。丸い眼鏡の奥で、鮮やかな赤い瞳が静かに輝いていた。耳元では銀の飾りが、彼の動きに合わせて小さく揺れている。
セシルの立ち居振る舞いには、少しの無駄もなかった。
マリ:「……ここ、すごいね」
セシル:「お気に召しましたか?」
マリ:「うん。こんな大きなおうち、初めて見た」
あまりにも素直な感想に、セシルは一瞬だけ目を細めた。
セシル:「それは何よりでございます。では、館の中をご案内いたしましょう。皆様も、マリ様にお会いできるのを楽しみにしておられます」
マリ:「みんな?」
セシル:「はい。こちらに住んでいる方々でございます」
マリはこくりと頷いた。
これから会う人たちが、どんな人なのか。
それを考えると、ほんの少しだけ胸が弾んだ。
村では、マリに近づこうとする人はほとんどいなかったから。
*
最初に案内されたのは、長い廊下の突き当たりにある図書室だった。
扉を開けると、古い紙と革の匂いが鼻をくすぐる。
天井まで届く書棚には、背表紙の色も形も異なる本がびっしりと並んでいた。窓から差し込む薄い光の中、ひとりの青年が本を読んでいる。
黒い髪。静かな眼差し。傍らには、読みかけの本が何冊も積まれていた。
セシル:「レイ様。マリ様をお連れいたしました」
青年は本から顔を上げた。
レイ:「……君が、マリか」
マリ:「うん。マリだよ」
レイの視線が、マリの顔を覆う黒いレースへと移る。
レイ:「それは、ずっと着けているのか?」
マリ:「これ? うん。ずっとだよ」
レイ:「外すつもりは?」
マリ:「ないよ。だって、外すなって言われてたから」
レイはしばらく黙っていた。
目の前の少年は、何かを隠しているというより、隠すことそのものに疑問を抱いていないように見えた。
レイ:「……そうか」
マリ:「本、いっぱいあるね。全部読むの?」
レイ:「必要なものは読む」
マリ:「必要じゃない本は?」
レイ:「読まない」
マリ:「そっかぁ」
マリは本棚を見上げた。
マリ:「でも、こんなにあるなら、面白い本もありそうだね」
レイは答えなかった。
けれど、マリが部屋を出る直前、彼の手元にあった本の表紙をそっと閉じた。
その本には、古い文字でこう記されていた。
――白花の血。
*
次に訪れたのは、陽の光がよく入る温室だった。
硝子の天井には細い蔓が這い、色とりどりの花が咲いている。その奥で、淡い黄緑色の髪をした青年が花に水を与えていた。
白いフリルのシャツに、柔らかな色合いの上着。淡い緑の瞳は、春の草原を思わせるほど穏やかだった。
ニコ:「あれ。お客様?」
セシル:「ニコ様。こちらが、本日より館でお過ごしになるマリ様です」
ニコ:「へえ……君がマリくんなんだね」
ニコはじっとマリを見つめたあと、ふわりと微笑んだ。
ニコ:「はじめまして。僕はニコ。よろしくね」
マリ:「よろしく。……ねえ、ここ、いい匂いがする」
ニコ:「お花の匂いかな?」
マリ:「うん。なんか、落ち着く」
マリは一輪の白い花に目を留めた。
花びらは薄く、透き通るような白さをしている。
マリ:「これ、きれいだね」
ニコ:「白いお花が好きなの?」
マリ:「うん。白い花って、好き」
ニコの手が、ほんの少し止まった。
ニコ:「どうして?」
マリ:「……なんでだろ。見てると、安心するんだ」
村の片隅にあった、小さな花畑。
誰も近づかない場所で、マリだけが知っていた白い花のことを思い出す。
あの花は、今も咲いているだろうか。
ニコ:「そっか。じゃあ、ここにいる間は、好きなだけ見ていくといいよ」
マリ:「ほんと?」
ニコ:「もちろん。お花は、見てもらえると嬉しいもの」
マリ:「お花って、嬉しいとか思うの?」
ニコ:「ふふ。どうだろうね」
ニコは答えを曖昧にしたまま、白い花の葉をそっと撫でた。
その横顔は優しげで、どこか不思議だった。
*
温室を出た先には、長い回廊が続いていた。
窓の向こうでは、灰色の雲がゆっくりと空を流れている。
壁にもたれていた青年が、こちらに気づいて顔を上げた。
鮮やかな青い髪。耳や顔に光るいくつものピアス。首元には黒いチョーカーがあり、襟元から覗く肌には細い模様が刻まれている。
ジン:「お、噂の新入り?」
セシル:「ジン様。もう少し穏やかなお出迎えをお願いいたします」
ジン:「いやいや、これでも歓迎してるって。なあ、マリ?」
マリ:「……マリだよ」
ジン:「ははっ、知ってる。俺はジン。よろしくな」
ジンは気さくに笑い、マリの顔を覆う黒いレースを眺めた。
ジン:「それ、暑くないのか?」
マリ:「ちょっと暑い」
ジン:「じゃあ、取っちまえばいいのに」
マリ:「だめなんだって」
ジン:「誰に言われた?」
マリ:「……村の人」
その答えに、ジンの笑みがほんの少しだけ薄くなった。
ジン:「ふうん。村の人ね」
それ以上、彼は聞かなかった。
ジン:「まあ、嫌になったら俺のところに来いよ。退屈はさせないぜ」
マリ:「退屈って、なに?」
ジン:「……お前、面白いな」
ジンはとうとう声を上げて笑った。
マリは不思議そうに首を傾げる。
セシル:「ジン様。マリ様を困らせないでくださいませ」
ジン:「はいはい。怖い執事様だこと」
軽い調子で手を振るジンを背に、マリは再び歩き始めた。
*
廊下の曲がり角で、突然、白い影が飛び出してきた。
ルイ:「あっ、見つけた!」
マリ:「わっ」
驚いたマリの前に、白髪の青年が立ちはだかる。
いたずらっぽい笑顔を浮かべた彼は、マリの顔を覗き込むように身を屈めた。
ルイ:「君がマリ? へえ、思ったより小さいんだね」
マリ:「……そう?」
ルイ:「うん。僕はルイ! よろしく!」
マリ:「よろしく、ルイ」
ルイ:「ねえ、君、庭は見た? まだ? じゃあ、あとで僕が案内してあげる!」
セシル:「ルイ様。マリ様はまだ館のご案内の途中です」
ルイ:「えー、いいじゃん。少しくらい!」
ルイは不満そうに頬を膨らませた。
そのとき、後ろから静かな足音が近づいてくる。
レイ:「ルイ。騒がしい」
ルイ:「兄さん!」
黒髪に片眼鏡、胸元には銀色のチェーン。
先ほど図書室で会ったレイが、冷ややかな目で弟を見下ろしていた。
ルイ:「だって、マリが来たんだよ? 気になるじゃん!」
レイ:「だからといって、廊下で騒ぐ理由にはならない」
ルイ:「はーい」
返事だけは素直だったが、ルイはすぐにマリへ向き直った。
ルイ:「ねえ、またあとで遊ぼうね!」
マリ:「遊ぶって、なにするの?」
ルイ:「それは会ってからのお楽しみ!」
ルイは笑いながら、レイの腕に自分の腕を絡めた。
レイは呆れたように息を吐きつつも、弟を振りほどこうとはしなかった。
*
館の奥には、洋館の雰囲気とは少し違う一室があった。
障子の向こうに淡い光が透け、畳の香りが静かに漂っている。
部屋の中では、紫色の髪をした青年が静かに茶器を並べていた。淡い紫灰色の瞳が、訪問者へと向けられる。
セシル:「朔様。マリ様をお連れいたしました」
朔:「……そうか」
朔は手を止め、マリに向き直った。
繊細な柄の和装。指先を覆う黒いレースの手袋。言葉は少ないが、その姿には不思議な落ち着きがあった。
朔:「朔だ。よろしく頼む」
マリ:「うん。よろしく」
マリは部屋の中を見回した。
マリ:「ここ、ほかの部屋と違うね」
朔:「……落ち着くからな」
マリ:「朔も、ここが好きなの?」
朔:「ああ」
短い返事だった。
けれど、その声には飾り気がなく、マリにはそれが心地よく感じられた。
朔:「困ったことがあれば、遠慮なく言うといい」
マリ:「うん。ありがとう」
朔は小さく頷き、再び茶器へ目を落とした。
それ以上、無理に話しかけてくることはなかった。
マリはその静けさを、少しだけ好きだと思った。
*
最後に案内されたのは、館の西側にある書斎だった。
重厚な机の向こうに、ひとりの青年が腰掛けている。
整えられた衣服。無駄のない姿勢。机の上には数冊の本と、細かな文字が書かれた書類が並んでいた。
青年はセシルたちに気づくと、手元の書類を閉じた。
ルカ:「……その子が、マリか」
セシル:「はい。ルカ様。ご紹介が遅くなり、申し訳ございません」
ルカ:「構わない。案内の途中だったのだろう」
ルカは立ち上がり、マリへと視線を向けた。
その目には、ほかの者たちとは少し違う、慎重な光があった。
ルカ:「初めまして。ルカだ」
マリ:「マリだよ。よろしくね」
ルカ:「ああ。……長旅で疲れているだろう」
マリ:「ちょっと。でも、もう平気」
ルカ:「そうか」
ルカはマリを見つめた。
顔を覆う黒いレース。小さな荷物。擦り切れた鞄の隙間から覗く古い本。
何より気になるのは、目の前の少年がこの館を恐れていないことだった。
知らない場所に連れてこられたというのに、彼は怯えるどころか、目に映るものをひとつずつ確かめている。
ルカ:「マリ。君は、この館に来た理由を聞いているか?」
マリ:「うん。ここで暮らすんだって」
ルカ:「それだけか?」
マリ:「……ほかにもあるの?」
ルカはわずかに眉を動かした。
セシルもまた、黙って二人のやり取りを見守っている。
ルカ:「いや。今は、それでいい」
マリ:「そっか」
マリはあっさりと頷いた。
マリ:「ねえ、ルカは本を読むの?」
ルカ:「読むが……なぜだ?」
マリ:「その本、難しそうだなって思って」
机の上には、古い文字が並ぶ分厚い本が置かれていた。
ルカは表紙に手を置いた。
ルカ:「古い伝承について調べている。君には、まだ関係のない話だ」
マリ:「ふうん。難しいお話なんだね」
ルカ:「……そうだな」
それ以上、ルカは何も語らなかった。
けれど、マリがセシルに促されて部屋を出たあとも、彼の視線はしばらく扉に向けられたままだった。
あの少年は、自分の価値を知らない。
それがどれほど危ういことなのかも。
*
案内の終わりに、セシルはマリを二階の一室へと連れていった。
扉を開けると、柔らかな白い寝具と、窓辺に置かれた小さな花瓶が目に入る。
花瓶には、一輪の白い薔薇が飾られていた。
マリ:「……わあ」
セシル:「こちらが、マリ様のお部屋でございます。必要なものがございましたら、いつでもお申しつけください」
マリ:「このお花、きれいだね」
セシル:「お気に召しましたか。お部屋に彩りがあったほうがよろしいかと思い、ご用意いたしました」
マリ:「ありがとう、セシル」
マリが笑った。
その笑顔を見た瞬間、セシルはわずかに言葉を失った。
それは、相手の顔色を窺うための笑みでも、何かをねだるためのものでもなかった。
ただ、嬉しかったから笑った。
そんな、ごく当たり前の表情。
セシル:「……どういたしまして、マリ様」
セシルはいつものように微笑み、丁寧に一礼した。
セシル:「それでは、夕食の時間までごゆっくりお過ごしくださいませ」
マリ:「うん。ねえ、セシル」
セシル:「はい?」
マリ:「ここに来てよかったかも」
何気ない言葉だった。
マリにとっては、きれいな部屋と白い花をもらえたことが嬉しかった。それだけのことだった。
けれど、セシルの胸には、その言葉が静かに残った。
扉が閉じる。
ひとりになったマリは、鞄から古い本を取り出した。
ページの間には、村を出る前に挟んだ白い花がある。
少し色褪せ、かすかに崩れかけた花びら。
マリ:「……元気かな」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
マリは花を本に戻し、窓辺の薔薇を見つめた。
この館でなら、また花を好きでいられるかもしれない。
そんなことを考えながら、彼は柔らかな寝台へ腰を下ろした。
*
夜。
館の奥にある食堂には、七人の吸血鬼が集まっていた。
大きな窓の外では、月が雲の切れ間から顔を覗かせている。
テーブルの上には、誰も手をつけていない食器が並んでいた。
ルカ:「……本人は、自分の血について何も知らないようだ」
レイ:「伝承の存在だという自覚もないらしい」
ジン:「へえ。あれだけ珍しい血を持ってるってのに?」
ニコ:「知らないままのほうが、幸せなのかもしれないね」
ルイ:「ねえ、兄さん。マリって明日も会えるよね?」
レイ:「同じ館にいるのだから、当然だろう」
ルイ:「やった」
朔:「……騒ぐな。まだ夜は長い」
それまで黙っていたセシルが、静かに口を開いた。
セシル:「皆様。マリ様は、私たちが考えている以上に何もご存じありません。どうか、急かすことのないようお願いいたします」
ジン:「おやおや。もうずいぶん気に入ったみたいじゃないか」
セシル:「私は、あの方のお世話を任されておりますので」
ジン:「はいはい。そういうことにしておこうか」
ジンは楽しげに笑った。
ルカはその様子を眺めながら、テーブルの上に一冊の古書を置いた。
ルカ:「いずれにせよ、確かめる必要がある。あの血が伝承どおりのものなのか」
誰も反対しなかった。
彼らにとって、マリはまだひとりの少年ではない。
長い年月を経て、ようやく目の前に現れた、伝説の血を持つ存在。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
少なくとも、この夜までは。
七人の視線が、古書の表紙へと集まる。
そこには、白い花を抱く少年の姿が描かれていた。
その花の名を、彼らはまだ知らない。
そして、彼らの誰ひとりとして気づいていなかった。
この小さな白花が、やがて長い夜を生きてきた吸血鬼たちの心に、消えることのない痕跡を残すことを。
コメント
1件
第2話、じっくり読んだよ! マリが館に着いてからセシルに案内されながら、個性的な吸血鬼たちと出会っていく流れがすごく自然で、世界観にスッと入り込めた。 白いレースで顔を隠したマリの素直さと、それぞれの住人が抱える複雑な空気の対比がいい。特に「そっか」ってあっさり返すマリの無垢さが、逆に彼らの真剣さを際立たせてたなあ。 「白花の血」ってキーワードも気になる!マリがこの館でどんな関係を築いていくのか、すごく楽しみだよ!