テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第5話:ファインダー越しの日常
若井side
夜は驚くほど静かで、都会の喧騒に慣れた俺はなかなか寝付けなかったが、早朝には深く眠りについていた。
ドンドン、という遠慮のない音が、薄い障子越しに響いたのは、まだ夜が開けきれないような時間だった。
「若井ー!起きてるー?朝だよ!」
涼架の、やけに元気で甲高い声が聞こえてくる。俺は重い瞼をこじ開け、壁時計を見た。
「…は?午前5時半?」
俺は飛び起きた。夏休みだぞ。こんな時間に起こされるなんて、写真部の朝練でもない限りありえない。
「ちょっと、涼架!何なんだ、こんな朝早くに!」
俺が低く唸るような声で抗議すると、涼架は躊躇なく障子を開けた。
朝霜が差し込む中、涼架はTシャツに半ズボンで、長靴を手に持って、完全に農作業スタイルで立っていた。
「やっと起きた!早く着替えて!ばあちゃんの畑仕事、手伝いに行くよ!」
「畑仕事?聞いてないぞ、そんなこと」
「え?言ってなかったっけ。ごめん!でも、せっかくだから若井も一緒に行こうよ。早朝の畑、すっごく気持ちいいんだ!」
俺は頭を掻きむしった。昨夜は疲れていたのか、涼架がそんな予定を話していた記憶は全くない。
あるいは、涼架が言うのを忘れていただけかもしれない。どちらにせよ、最悪の目覚めだ。
「俺は、撮影に来たんだ。農作業をしに来たんじゃない」
「えー、いいじゃん!畑の露のついた野菜とか早朝の光を浴びた山の稜線とか、絶対いい写真撮れるよ!ほら、カメラ持って!」
涼架は俺の畳まれたカメラバックを指差した 。
俺は半信半疑だったが、涼架の言う「早朝の光」というキーワードに、写真部の血が騒いだ。
確かに、夜明け直後の柔らかな光は、最高のシャッターチャンスを生む。
「…わかった。撮るだけだぞ。土いじりはしない」
俺は渋々ベッドから出た。
「やった!じゃあ、これ着て!」
涼架は俺に、どこから持ってきたのか、少しダボついたジャージと、サイズの大きな麦わら帽子を押し付けてきた。
「なんだこれ。サイズ合ってないだろ」
「ばあちゃんが、若井ように出しれくれたんだって。気にしない気にしない!さあ、行くよ!」
俺たちは薄暗い廊下を歩き、玄関に出た。外はひんやりしていて、濃い朝霧が視界を覆っていた。
「寒いな…」
「すぐ汗かくよ!ほら、これ持って」
涼架は祖母が準備していたらしい、収穫用の小さな籠を俺に手渡した。
「本当に撮るだけだからな。この籠は持っておくだけだ」
「はいはい。じゃあ、先いくよ!」
涼架は元気に駆け出し、俺は眠い目を擦りながらその後を追った。
畑は家の裏手の、なだらかな斜面にあった。祖母はすでに黙々と作業を始めていた。
「おはよう、ばあちゃん。若井も連れてきたよ!」
「おや、りょうちゃん、若井くん。おはようさん。こんな朝早くからごめんね」
祖母は笑顔で迎えてくれた。
「いえ、涼架に誘われたので。写真の素材探しに」
俺は祖母にだけは丁寧に対応する。
「そうかい。でも、せっかく来たんだからりょうちゃんの手伝い、見てあげてね。まあ、すぐだらけるだろうけど」
祖母は笑った。
「ばあちゃん!僕は今日は頑張るよ!」
涼架はそう宣言し、きゅうりの畝に向かって元気よく腰を下ろした。
そして、俺はカメラを構えた。
霧に包まれた畑、静かに作業をする祖母、そして、慣れない作業にぎこちない手つきで取り組む涼架。光はまだ弱く、幻想的な雰囲気だ。
俺は夢中でシャッターを切り始めた。
涼架は、真面目に作業しようとしているのだがきゅうりの葉っぱについた水滴に気を取られたり、長靴についた土をじっと眺めたり、すぐ焦点が外れる。
その度に、祖母が優しく注意されている。
「涼架、ちょっと手を止めろ」俺は声をかけた。
「ん?どうしたの、若井。あ、写真撮る?」
涼架は籠からきゅうりを取り出し、ポーズを取ろうとした。
「違う。ポーズなんかいらない。お前、そこのきゅうり、とるふりして、顎に麦わら帽子の影が落ちるように、少し下向いて座ってろ」
「こう?」涼架は言われた通りに、きゅうりの葉を見つめるように座った。
俺は急いでレンズを向けた。薄い朝日に、涼架の顎から首筋にかけて、麦わら帽子の編み目の影が落ちている。
朝日に湿った空気の中で、彼の顔が妙に色っぽい。その瞬間、俺の中に電流が走った。俺が撮りたかったのは、こういう一瞬の光と、感情がこうさする瞬間かもしれない。
涼架は俺がシャッターを切るまで、じっと動かなかった。
「……よし、いいぞ。ありがとう」
「どういたしまして!若井、今の写真、絶対いいやつでしょ?」
涼架は立ち上がり、屈託のない笑顔を見せた。その笑顔は、さっきファインダー越しに見た表情とは全く違い、無防備に明るい。
俺は無言で、撮った写真が焼き付いているはずのフィルムカメラを見つめた。
この瞬間、俺の被写体は、風景から完全に藤澤涼架へと移行したことを、俺自身が自覚し始めていた。
「さあ、若井も手伝うよ!さっき撮らせたモデルのお礼!」
涼架は俺の手から籠を取り上げ、有無を言わさず作業に引きずり込んだ。
「おい、ちょっと待て!」
結局、俺は午前5時半起きで、泥まみれになりながら、涼架と共に畑仕事をすることになったのだった。
次回予告
[朝の朝食と、祖母の微笑み]
next→300
コメント
1件
続きが楽しみ!