予約が取り難いレストランとして名前が通っている店のオーナー直々のオススメ料理は、お勧めされるだけはあって量も味も彼の心を満足させるものだった。
前回の時にも感じたはずのそれが今回はまた違ったように感じることが不思議だったが、その理由が、料理とビールのグラスを挟んで向かい合わせに座る、実質初対面のようなリオンとウーヴェという自分より少し年上の二人の男のおかげだと気付いたのは、運転手を務めるからか殆ど酒を飲んでいないリオンを除いたウーヴェとノアがほろ酔いになってきた頃だった。
料理を全て平らげてもう入らないと腹を撫でて満足そうにため息を吐くリオンの横で、それに比べれば遥かに量が少ないガレットを食べ終えたウーヴェがスタッフに何やら目配せをするが、その頬に小さな音を立ててキスをされ、眼鏡の下でターコイズ色の双眸を見開き、目の前でそれを見せられているノアも少しの驚きを持って二人の様子を見守ってしまう。
「リオン?」
「残さずに良く食ったな。……ビールでもワインでも好きなだけ飲めよ」
今日は本当に良く食べた、だから今夜は好きなだけ飲んでも良いと食事を始める前とは打って変わった甘い言葉を囁きながら再度頬にキスをすると、ウーヴェの双眸が左右に泳いだ後、若干の照れを覚えながらもリオンの頬にキスをする。
「ダンケ、リーオ」
「どういたしましてー」
そんな嬉しそうな顔を見てしまえば飲むなと言えないと、己の甘さをウーヴェの表情が原因だと言い訳をしつつ促したリオンは、呆気に取られた顔で見つめてくるノアに気付き、些かバツの悪い顔で肩を竦める。
「ホテルまで送ってやるからお前も飲めよ、ノア」
「ありがとう」
二人がごく自然に見せる仲の良さが彼の脳裏では当然ながら己の両親の姿と重なり合い、仲が良いのは本当にいいことだと思うと呟き、オーダーを聞きにきたギャルソンエプロンをつけたスタッフにビールを注文する。
「そうか?」
「そりゃ、顔を突きつければケンカばかりより良いだろ?」
空になったジョッキの取っ手を指先でなぞり頬杖をつきながらの言葉にリオンが蒼い目を見張り、何だ、今の彼女か元カノとそんな関係になって別れたのかと問い返すと、リオンとそっくりな蒼い目が同じように見開かれ、頬づえをつきながらそっぽを向いてしまう。
その様子を黙って見ていたウーヴェだったが、ひと月前に常に頭のどこかで考えていた疑問が再び頭を擡げてしまい、そっと頭を左右に振ってそれを抑え込もうとする。
顔のパーツ一つ一つが似ているのは言うに及ばず、今のようにソッポを向く横顔や向いているのが実は顔だけだと教えるようにロイヤルブルーの虹彩がこちらの様子を伺う様など本当にリオンそっくりだった。
それはウーヴェだから見抜けるそっくりさ加減だったが、ノアが無意識にテーブルの上で手を組み、両手の親指を交互に回転させ始めたのを見た瞬間、さっきは抑え込もうとした疑問に両手をあげて降参してしまう。
リオンが考え事をする際、脳味噌をフル回転させている事を密かに教えるように互いの親指を交互に回転させる癖があったが、ウーヴェの目の前でノアが行っているそれがもしもリオンと同じ癖ならばと考え、初対面同士が偶然にも同じ癖を持っている-しかもウーヴェの周りでは皆無の、考え事の際に指を回転させるという珍しい癖-可能性はどれぐらいだ、もしも二人の血縁関係があった場合のそれはどれぐらいだとドクターの顔で考え込んでしまうが、せっかくの楽しい食事の時間に考え事をしたくないとタイミング良くスタッフがビールを運んできた事で気分を切り替え、ジョッキをノアの前に差し出し、己の白ワインのグラスを受け取りつつ小さく咳払いをした後、ノアに向けて笑いかける。
「ノア、何か考え事でもしているのか?」
「え?」
親指をくるくると回転させるのは考える時の癖かと、グラスを持つ指を一本立ててノアの手を指し示したウーヴェの言葉に蒼い二対の双眸が彼の組まれた手に向けられ、気付いていなかったとノアが己の癖に驚いてしまう。
「顔立ちだけじゃなくて癖まで似ているなんて、本当にどこまで似ているんだ」
己が発見したことが世紀の大発見だというようにウーヴェが珍しくくすくすと笑みを零し、そんなウーヴェの様子にリオンが驚いたように目を見張るが、常に笑顔を望んでいるウーヴェが心底楽しそうに笑っていることが嬉しくて、笑み崩れる頬を指の背で撫でた後、小首を傾げて見つめてくるウーヴェのワインに濡れた唇にそっとキスをする。
「……お前が楽しそうにしてるの、すげー嬉しい」
リオンの低い囁きにウーヴェがさっきのように一瞬羞恥を覚えたように目を泳がせるが、二人にしか分からない事を教えるようにリオンの蒼い石のピアスに口を寄せて何かを囁きかける。
「……本当に、仲が良いよな」
俺の両親、ウィルとマリーみたいだと、目の前で見せつけられるそれに面白くないと伝える代わりの言葉をぼそりと零したノアに二人が顔を見合わせ、詫びる代わりに両親の仲は良いのかとリオンが問えば、ノアのくすんだ金髪が上下する。
「良いね。ウィルがマリーにベタ惚れしてる」
亡命する少し前に大学で初めて出会い意気投合するだけではなくて互いの人生を賭けても良いと思えたから二人で亡命したと、ほろ酔いの二人が互いの顔を見つめながら語った夜を思い出し、独り身の男の前で仲の良さを見せつけるのも程々にしてくれと思わず過去と現在の光景から苦言を呈する。
「大学生二人がよく亡命できたな。家族の反対は無かったのか?」
ウーヴェが何気なく問いかけリオンも興味を示して頬づえをつくが、ノアの様子が変化したことに気付いて再度二人が顔を見合わせる。
「ノア?」
「……家族」
「どうした?」
ウーヴェの一言にノアがこのひと月の間、意識的にも無意識的にも考えていた両親に連なる家族の姿を脳裏に浮かべ、やはり両親から連なるのが己だけだと確認をし、それは本当なのだろうかと呟くと、今日の午後、真夏の蜃気楼が見えるかもと思いながら街路樹の陰で一休みした時に考えていた事が思い出され、様子を見守っているリオンをまじまじと見つめてしまう。
「……その……気分を悪くするような事を聞くかもしれないが……」
ノアの遠慮がちな、それでも己の好奇心を抑えきれない様子にリオンが何を言わんとするのかを察して蒼い目を細めるが、からかいや冗談半分ではないことにも気付いてスタッフにミネラルウォーターを注文し、気にしないで話してみろと先を促す。
「どうした?」
「……その、リオンは教会の児童福祉施設で育ったと、ヒンケル警部から聞いた」
「ああ。教会に捨てられてたんだよ」
ノアの躊躇いつつの言葉にリオンが皮肉を込めつつも何でもないように返すが、テーブルの上の手にそっとウーヴェが手を重ねるとリオンの顔から皮肉な色が薄れていく。
「……親とか兄弟については……」
「そーだな、ガキの頃は知りたかったけど、今は特に知りたいとは思わねぇなぁ」
ガキの頃ならば喉から手が出るほど知りたいことだったが、今ではもうどうでも良いことだと肩を竦めた後、重ねられていたウーヴェの手を逆に握ると己の口元に引き寄せる。
「そう、なのか……」
「ああ。今は……オーヴェがいる。俺を育ててくれたマザーもいる」
それで十分だと笑うリオンだったが、その双眸の深い場所に揺蕩う感情を見抜けたのはウーヴェだけで、ノアがそうなのかと再度呟くのを前にテーブルの下でリオンの膝頭にウーヴェが己のそれを触れさせる。
「家族がどうした?」
「う、ん…………ウィルとマリーの家族が、俺以外にいないことが不思議だなって」
子供の頃から三人だったためにそれが当たり前だと思っていたが、この間の事件で初めてリオンに会って父や己とよく似ているのを目の当たりにし、そういえば二人に両親や兄弟はいないのかと不思議に思うようになったと今度は自信なさげに呟くノアにウーヴェが一つ目を瞬かせ、家族がいないのかと心底不思議そうに呟くと、己を含めた家族三人のそれぞれの記念日に届けられるカードや誕生日祝いの中にどちらかの家族を示す名前など一切なかったと呟き、溜息を零しながら真夏でまだ明るい窓の外を見る。
子どもの頃、友人の誕生日会などでその友人の両親や祖父母からバースデーカードが届けられているのを不思議な思いで見ていた事を思い出し、俺に祖父母はいないのかなとぽつりと呟く。
「両親に聞いてみればどうだ?」
ノアの諦め混じりの呟きにリオンがひょいと肩を竦めて親に聞いてみろと言った後、残念ながら俺には捨てられた経緯を教えてくれるような人はいないとこの時ばかりは寂しそうに笑うリオンにノアが目を見張り、己の言葉がリオンに与えた傷を思って咄嗟に口を片手で覆い隠すが、そんな彼を救うように小さな笑い声を出したのもリオンだった。
「気にするなって言っただろ、ノア。……本当に気にしてるなら最初から言わせねぇよ」
ただもしも今の一言が俺を傷付けたと思うのなら次からは気を付ければいいと、日頃ウーヴェがリオンに言い聞かせているようなことを告げ、どうだ偉いだろう褒めろとウーヴェの横顔に笑いかけたリオンは、ウーヴェの眼鏡の下の双眸が意外なほど真剣な色を浮かべていることに気づき、どうしたと顔を覗き込む。
「…………従兄弟、か」
「は?」
「確かに従兄弟ならいてもおかしくないと思わないか?」
確かリオンとノアの年の差は十歳ほどだろう、従兄弟ならばそのぐらいの年の差が開いていたとしてもおかしくはないと顎に手を当てて考え込むウーヴェにリオンとノアがそれぞれ違う表情に目を見張る。
「オーヴェもしつこいな。親兄弟がいないってのに従兄弟がいるはずがねぇだろうが」
「いるかも知れないぞ?」
リオンがいつかの会話を彷彿とさせる事を呟き全くしつこいんだからと器用に片方の肩を竦めるが、ノアも確かに従兄弟ならばいてもおかしくないと頷いたため、お前まで何を言っているんだと呆れたように二人を交互に見つめる。
「お前の両親に家族がいないってたった今お前が言ったばかりだろうが」
「いや、今日家族の話をしたんだけど、話を逸らされたなぁって」
「そうなのか? ……残してきた家族には顔を合わせにくいのかも知れないが、もしかすると……」
ノアの言葉にウーヴェが前のめりになって頬杖を着くが、テーブルを手の甲で一つ叩く音が意外なほど大きく二人の間に響き、ウーヴェの肩がびくりと揺れる。
「……俺に親兄弟も従兄弟もいねぇって言ってるだろ、オーヴェ?」
人の話を聞く気がないのかそれとも聞きたくないのかどっちだと滅多に見ない冷たい目で睨まれて一瞬で酔いが覚めてしまったウーヴェだったが、左右に目を泳がせた後にそっと眼鏡を外してテーブルに置き、その手をリオンの頬に宛がったあと、不機嫌に閉ざされている唇に触れるだけのキスをする。
「……悪かった、リーオ」
「……帰ったら覚えてろよ」
軽口にみせかけた本音にウーヴェの背筋に嫌な汗が流れ落ちるが、ノアを同じ目で一瞥したリオンが席を立ち、タバコを吸って頭を冷やしてくるからお前らも下らないことばかり言うなと言い残して店を出る。
「……調子に乗りすぎた、か?」
「いや、大丈夫だ。ああは言っているが親兄弟や従兄弟がいるかどうかを一番知りたいのはリオン自身だ」
ただそれを素直に認める事が出来ずにあんな態度を取っているだけだと自分たちが座っているテーブル近くの壁にもたれてタバコに火をつけるリオンを店内から見守っていたウーヴェは、ノアが肩を落とす様子に微苦笑し、あいつが本当に怒ったのならば今頃このテーブルの上の食器などは全て床の上に散らばっている、だから今は本気で怒っていないと安心させるように小さく笑みを浮かべ、何事だとカウンターの向こうから心配そうに見つめてくるベルトランに手を上げていつものことだから心配するなと伝える。
「なあ、ノア。リオンとの間に血縁関係があるかどうかを知りたいか?」
「え? そりゃあ知りたいけど……」
不安を払拭できない様子のノアに目を細め、眼鏡をシャツの袖で拭きながらノアに問いかけたウーヴェは、驚きに見開かれる蒼い双眸に、ああ、本当に良く似ていると内心で溜息を零し、どうすると更に問いかける。
「検査をすればほぼ確定させられる。どんな結果が出ても受け入れられるか?」
先ほどきみが言ったようにもしかするとリオンが遺伝子上の従兄弟だと確定するかも知れないし、神か悪魔の悪戯で文字通りの他人の空似の可能性もある、それでも調べてみたいかとノアの真意を確かめるように低く問いかけ、曇りが取れた眼鏡を掛けて頬杖をつく。
「知らなければ良かったと思う結果が出るかも知れない。それでも知りたいか?」
ウーヴェの言葉に無意識に唾を飲み込んだノアは、己の脳裏で倒れた母の傍で初めてリオンと対面した時、どうしてこんなにも己に、ひいては父に似ているのだろうかと咄嗟に思案したことを思い出すが、確かにウーヴェの言葉通り他人の空似の可能性が高かった。
何しろ世界には己に似た人間が最低でも三人はいるらしいのだ。この街に縁もゆかりも無い己とそっくりな年上の男がこの街で暮らしていたとしても何の不思議も無い事だった。
ただその不思議を遙かに上回る、言葉でも感情でも言い表せないものがノアの胸の中でひと月前から居座り、いつまでも居場所を与え続けるのも尻のあたりがもぞもぞとするし何よりも父自身、何故自分に似ているのかが分からないと呟いた事もあり、どうせならば己の胸のもやもやと父の疑問を一気に解消させたい思いから、テーブルの上で手を組んで一つ溜息をそこに落とした後、ウーヴェの目を真正面から見つめる。
「……知りたい。どんな結果が出ても構わないから調べたい」
ノアのその言葉に秘められた思いを総て読み取ることは出来ないが、それでも強い思いがこもっていることだけは当然ながら理解出来た為、己も腹を括るかと先ほど己が思い浮かべた疑問に諸手を挙げて降伏した事も思い出したウーヴェが小さく吐息を零す。
「分かった。……リオンを説得するのに時間が掛かるかも知れないが何とかしよう」
さっきの話でリオンと文字通り膝を突きつけて腹を割って話をする時が来たのかも知れないと、ひと月前には漠然と感じていた不安が今ではしなければならない事となって再度姿を見せたのだと気付いたウーヴェは、この検査がどんな結末をもたらすのかが分からずに不安に怯え、事実そのものから目を背けるよりは真正面から向き合う強さをリオンならば持っていると信じている為、DNA検査は知人の病院に頼めばすぐに行ってくれるが、検査の結果を元にした法的手段についてはお互い放棄することが条件だと伝えると、ノアの目がこれ以上は無理と言うほど見開かれる。
「それは……」
「きみの両親が家族は自分たちだけだと言っていたのを考えると自分自身の親兄弟について話をしたくないのだろう。今回の検査がきみだけの胸に納まるものなら問題は無い。ただ、両親に話をするとなると色々絡んでくる」
もしリオンがそれに巻き込まれる様な事になるのであれば申し訳ないが今回の検査については反対させて貰うと、リオンが物心ついた時から抱えている根源への悩み、それを解消できるかも知れないまたとない機会だと分かっていても、今、己の家族はウーヴェとマザーらだと断言するリオンの心が傷を負うような事態になるのなら例えきみがどれ程懇願したとしても反対させて貰うと白ワインのグラスの縁を指先でなぞり、リオンのために運ばれてきたミネラルウォーターに口を付けたウーヴェは、それでも検査を受けたいかと再度問いかける。
ウーヴェの言葉に己が考えていたものがフィクションの世界で描かれている程度の気軽なものと同等だったと教えられたノアだったが、確かに両親が家族の話になると話題を逸らしたり敢えて聞かせなかった事を思えば、親兄弟のことについて話したくないと思っているのは簡単に想像出来た。
ウーヴェが言ったように両親共々ベルリンに壁が存在している時代の祖国から亡命し、それ以降祖国とは関わりを持たないように暮らしていた事は折に触れ聞かされていた事だった。
その関わりの中に祖国に残してきた親兄弟や友人がいて当然で、その彼らから自分たちだけ亡命したことで恨まれたりしているかも知れなかった。
現にその当時父の友人だった男がついひと月前に母を狙撃し、その裁判が今日開かれたところなのだ。
己がここでリオンとの血縁関係を調べる事で裁判沙汰になどならないだろうが、ウーヴェの提案を総て受け入れない限り父と己の疑問が晴れない事にも気付いていた為、変わりない決意を表すようにしっかりと頷く。
「構わない。この検査の結果でリオンを訴えたり誰かを訴えたりすることは無い」
「……分かった」
じゃあ後であいつを説得するがこの街にはいつまでいるつもりだと今度は己の白ワインのグラスに口を付けたウーヴェだったが、一週間休みを取ったが必要ならばまた戻ってくると答えられて小さく笑みを浮かべる。
「そうか……時間があればさっきの名刺に書いてあるクリニックに来てくれないか?」
「あ、ああ」
精神科医なんだなともらった名刺を取り出して矯めつ眇めつするノアに苦笑したウーヴェは、口元に小さな笑みを浮かべつつ戻ってきたリオンから感じ取ったものに目を細め、何かあったのかと小さく問いかける。
「……アーベルから電話があった」
「マザーに何かあったのか?」
リオンの感情の在処を誰よりも素早く正確に見抜けるウーヴェに感心しつつ腰を下ろして水を一気に飲んだリオンは、居たたまれない顔つきで見つめてくるノアに気付いて肩を竦めた後、気にするなと伝える代わりに己とそっくりな金髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「……!」
親以外からこうして子どものように頭を撫でられることなど今では滅多に無い為に軽い驚きに呆然としたノアは、ガキ扱いしてしまったわけじゃ無いがついやってしまうと口早に言い訳をするリオンに何も言えなかった。
リオンにとっては何気ない行動であってもつい今し方ウーヴェと話し合っていた事が事だけに、どんな結果が出たとしてもリオンとならば友人として付き合えるとの確証が生まれ、他人の空似であろうが血縁関係があろうとも関係ないと宣言したくなってしまう。
だが、リオンはと言えば席を立つまでの雰囲気とは全く違う雰囲気になっていて、何事か問題が起きたのだと直感で察したノアは、ホテルに送っていく申し出を断ろうと口を開くが、ウーヴェが呟いた言葉に動きを止めてしまう。
「……確かそうだったはずだ。まさか彼がホームにいるのか?」
「ああ。トラムの中でマザーとアーベルが会ったって。すげー具合が悪そうだったからホームに連れて帰ってドクに診せたらしいけど、まだ意識が戻ってないって」
「誰か調子が悪くなったのか?」
リオンとウーヴェが声を潜めて交わす内容が気に掛かり、話に割って入って申し訳ないと思いながらも誰の意識が戻っていないんだと問いかけ、二人に心配そうに見つめられて交互に顔を見る。
「……ノア、お前の親父、確かヴィルヘルムって名前だったな?」
「あ、ああ、そうだけど……」
今日はハイデマリーを撃った男の裁判の日で、午後から裁判所に行くと言っていたことを思い出して頷いた彼は、父がどうかしたのかと二人の顔を再度交互に見つめ、何かあったのかと顔を青ざめさせる。
「今ホームにいるって連絡が入った」
「ホーム?」
リオンが言うところのホームが何処のことかが分からず、俺の父に何があったんだと身を乗り出すノアを落ち着かせるように肩に手を載せたリオンは、俺が育った児童福祉施設にいる人達がトラムの中で具合の悪そうにしているお前の父を見つけて連れて帰ったそうだと教え、ノアの身体から力が抜けたことを確認すると溜息を吐きながら前髪を掻き上げる。
「マザーが来て欲しいって言ってるんだけどな……」
「どうした?」
「せっかくノアとメシ食っててお前もすげー楽しそうなのにさ」
実家とも言えるホームの用事で帰らなければならないのが何だか癪に障ると呟くリオンにウーヴェが不機嫌さの理由を察し、リオンの右手を掴んで己の顔の前に持ってくると、気持ちを宥めるようなキスを薬指に一つ。
「リーオ。マザーが来て欲しいと言っているんだろう?」
「ああ」
「じゃあ行こう。ノアのお父さんの様子も気になる」
ガキじゃあるまいし目が覚めたら勝手に一人で帰らせれば良いのにとも小さく呟き、ウーヴェがそれに対して平穏を保った声で名を呼びリオンの苛立ちを抑え込む。
「リーオ」
「……ノア、それを飲んだらホームに行くぞ」
「あ、ああ」
ノアの前とウーヴェの前のグラスにはそれぞれ注文した酒が残っていて、二人とも早くそれを飲めと若干の苛立ちを込めて促すリオンに二人は何も言わずに酒を飲み、テーブルの様子が変わったことに気付いたベルトランが厨房の奥から出てくると、急遽ホームに行かなければならなくなったことをウーヴェが伝え、明日にでもクリニックにタルトを届けてやると教えられて感謝の思いを込めて頷く。
「悪ぃな、ベルトラン」
「気にするな。何があったか分からんが気をつけて行けよ」
お前のその様子からするとあまり良いことでは無いのだろうが安全運転で行けと腕を組むベルトランにリオンも頷き、ノアがビールを飲み干したのを見届けてから再度立ち上がってウーヴェの髪にキスをする。
「先に車を取ってくる」
「ああ。……バート、明日クリニックに来てくれ」
「分かった」
後で出されるはずだったリンゴのタルトだが明日クリニックに持って行くと教えられ、その時に今日の支払いをすることも伝えたウーヴェは、やけに苛立っているリオンを気に掛けつつも車を取りに駐車場に向かった背中を見送り、不安そうに見つめてくるノアを安心させるように小さく頷く。
「ホームに一緒に行こう」
「あ、ああ……」
程なくして車が窓際に些か乱暴に止まった事に気付いたウーヴェは、ステッキをついてスタッフが開けてくれているドアを潜り、車から慌てて飛び降りるリオンと一言二言言葉を交わして助手席に乗り込み、リオンがドアから顔だけを店内に突き出してノアを呼ぶ。
「行くぞ、ノア」
「ああ」
慌てて店を出ようとするノアだったが、心配そうに見守ってくれるベルトランに今日の料理は本当に美味しかった、一週間ぐらい滞在しているからまた食べに来ると伝えると、はにかみながらも料理を褒められたことが嬉しい顔でベルトランが頷きノアが差し出す手をしっかりと握る。
「また来てくれ」
「ありがとう」
スタッフが開けたドアを一足先に潜ったリオンとウーヴェを追うように店を出た彼は、漸く暗くなり始めた真夏の空を見上げるが、クーペタイプの車のために運転席のシートを倒して彼が乗り込むのを待ってくれているリオンに礼を言い、後部シートにもたれかかって溜息を吐く。
ホームとリオンが呼ぶ児童福祉施設への道中、車内には小さく流しているラジオとエンジン音が流れるだけで、時折リオンがウーヴェとの間で何やら小声で話す以外の音はなく、一体何があったんだと胸中で誰も答えられない問いを発することしかノアには出来ず、さっきまでの楽しい時間もリオンとの血縁関係を調べるための検査についてウーヴェと詳しく話をする暇もなくなったと、二人に気付かれないようにそっと溜息を零すのだった。
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