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ノアがリオンからの電話で今夜の食事の誘いを受けて久し振りに軽くなった心でカメラを構えたいと思える場所を探していた頃、妻を撃った学生時代の友人だった男の裁判が始まり、証人としての務めを果たしたヴィルヘルム・クルーガーは、裁判の間中、最愛の妻を傷付けた親友-だった-の顔を睨み付けるように見ていたが、時折彼と視線が重なることがあり、その瞬間だけは遠い遙かな昔に時が遡ったような錯覚を抱いていた。
大学近くの公園で授業の合間に講義内容について討論をしたり数少ない娯楽であった-今思えばそれらは全く娯楽にもなっていないものだった-テレビの話や、ほんの少しの政治についての話をした事を思い出し、何の伝手も力も無くただこの国を出たい、自由の国で自由に好きな写真を撮影しそれで暮らしていきたいというただその一心で突き進み、本当に運良くあの国から亡命できて自分の手で掴み取った未来を彼女とともに歩いていた己と、友人が亡命した事により秘密警察の聴取を受けて足を痛めつけられた結果、日常生活に支障を来す障害を負い、鬱屈した思いを抱えたまま日々を過ごした後の凶行に、事件の一報を受けてベルリンから駆けつけて父の心身を思って目を真っ赤にした娘とともに日々つましく生きていただろう友人の人生がヴィルヘルムの脳内で錯綜する。
もし己が亡命をしなければ彼は足に障害を負わず、学生の頃夢に描いていたメディアに携わる仕事に就いていたのだろうか。
弁護士の言葉を右から左に流しつつ己の行動が産んだ実が長い時を経た今ここで裁判という形に結実したのでは無いかとどこかで誰かが囁いた気がし、緩く頭を左右に振る。
頭を振ったことでその思考が途切れるが、今度は己の中に永遠に閉じ込めているシュペーアの人生を狂わせた事など些細なことに思える過去が、底なし沼に時折沸き起こっては弾ける気泡のように頭を擡げた気がし、その恐怖に目を見開いてしまう。
それは息子のノアが病室を出て行った後、妻と向かい合う時が来たのかも知れないと話していた自分達の過去から伸びる細い蜘蛛の糸のようなもので、その糸の先では必死の思いで忘れ去っていた端正な若い男と小さな白い手が今まさに沼の底から手を伸ばしてその扉を開くような錯覚に囚われ、真夏の暑い裁判所の中で一気に汗が引いてしまうような寒気に襲われる。
フォトグラファーとして成功している己の足元に二人しか知らない過去が、いつでも思い出せと言うように静かに広がっていて、そこから植物のツタのように這い上がるそれが己の足に絡みついている事を常に思い出すまいとしていた彼だったが、過去を封じるために常に思い浮かべていた妻と息子の笑顔の向こうに、すっと別の男の顔が滑り込み、誰だと目を細めてその顔を確かめる。
それは過去に沈んだ男の顔ではなく、あの時血を流しながら地に伏せた妻を誰よりも早く駆けつけて応急手当をしてくれたリオンという男の顔だった。
「……!!」
まさかという疑問とそんなという後悔に近い思い、そしてそれらを内包した言葉では言い表せない恐怖に身体が震え、隣に座っていた弁護士が大丈夫かと声を掛けてくれるがそれに返事も出来なかった彼は、底なし沼から静かに手招きされ、それに逆らえないように足を向けてしまう己が簡単に想像出来てしまい、身体の震えを抑えることが出来なくなってくる。
もし、もしも彼が、己と彼女とあの男の運命を大きく変えた事件の結果で、己の若い頃や息子のノアに良く似ている理由が、もしもあの事件に関係するのであれば。
脳裏に広がるもしもの世界が彼にのし掛かり、一人で耐える事が出来ないと常に傍にいてくれた妻の存在を思い出して拳を握るが、今覚えた恐怖を堪えたり打ち勝つには力が足りず、組んだ膝頭をぎゅっと握りしめ、込み上げ来る生理的嫌悪感にも近い恐怖を何とか堪える。
空調など効いていない真夏の裁判所、その暑さを感じない、それどころか真冬に裸で放り出された時の様な寒さを感じつつ、今日の裁判の終わりを告げる声をどこか遠くのもののように聞いているのだった。
裁判がひとまず終わり、蒼白な顔のまま裁判所を出た彼を待っていたのは、ひと月前に世間の耳目を騒がせた事件の一区切りになる報告が成されると期待していたマスコミだった。
今の彼にマスコミを相手に上手く話せる自信が全く無く、それどころか足下も覚束無い為に弁護士に後は任せると告げ、心配そうに見つめてくる友人でもある彼に頷いたヴィルヘルムは、マスコミのフラッシュとがやがやと煩い声が耳の奥で木霊するうるささに顔を顰め、後のことは弁護士に一任している、申し訳ないが僕への取材は止めてくれと言い放ち、さすがに顔色の悪さなどに不安を感じたマスコミが弁護士にマイクとカメラを向けたため、その隙に裁判所から妻のいる病院に戻ろうとするが、このまま戻れば彼女を心配させてしまう恐れがあると気付き、彼女の看護をする為に借りた部屋に戻ろうと決めてふらふらの足取りのままトラムに乗り、病院や街から離れた郊外に向かう。
トラムの規則正しい揺れに疲労感が癒やされること無く増していく気持ちの悪さを感じてハンカチで口を押さえた彼は、原因が分からない気持ち悪さと悪寒に身体を震わせていたが、大丈夫ですかと心配そうに問われて俯き加減だった顔を上げる。
彼が座っている席と向かい合わせの座席にシスターと教会などにある天使像そっくりな顔をした男性が座っていたようで、彼の顔色の悪さについ声を掛けてしまったと告げながら顔を覗き込んでくる。
「随分と顔色が悪いようですが?」
「あ、ああ、いえ、ありがとうございます。大丈夫です」
家に帰って横になれば落ち着きますと返した彼だったが、裁判所で覚えた悪寒と吐き気に勝てずに前屈みになって咳き込んでしまう。
咳き込む背中をシスターが撫でつつ同行の男性を見上げ、トラムの停車駅に着いたことに気付いて彼に立てるかどうかを問いかけながら半ば強引にトラムから降ろす。
「……大丈夫ですか?」
先ほどの様子からあのままトラムに乗っていると大変なことになりそうだったとシスターが心配そうに告げ、どうかこの人の調子が良くなりますようにと祈ってくれたため、ありがとう、もう大丈夫ですと返すが、停車駅のベンチに座り込んだまま立ち上がることは出来なかった。
そんな彼を見かねた様子で男が何やらシスターに囁きかけ、当然のように同意した彼女に天使像そっくりな男が少し先に我々の教会があるのでそこまで頑張ってくれと告げながら彼の身体を支えるように腕を回す。
「……ありがとう」
「気にしないで下さい」
先ほどよりも悪くなっている顔色を自覚できないまま大丈夫だと言い募ろうとする彼を優しい手が制し、どうか教会に来て下さいと手だけでは無い声でも優しく誘われて素直に頷いた彼は、何となく雰囲気であまり治安が良くない地区に入ったことを察するが、教会に連れて行くと言っている以上、まさか金品や命を奪うことは無いだろうと腹を括り、天使像そっくりな男の肩を借りて何とか歩いて行く。
そうして一時間も歩いているような錯覚に囚われた彼の身体が根を上げそうになった時、彼方此方が破れているフェンスに囲まれた古くて小さな教会とその母屋の建物が見えてくる。
胸のむかつきや悪寒を何とか堪えながら建物同様の古い門を潜った彼は、右手に見える礼拝堂らしき小さな建物の扉を見、己の中の記憶に引っかかるものを覚えてもう一度扉を凝視する。
視界が霞む中で扉の模様が鮮明に浮かび、どこかで見たことがあると脳味噌が己自身では無いような声を発する。
そしてその声は、これ以上先に進むな、進んでしまえば戻れなくなるぞと悲鳴を上げたのだ。
それに驚いた身体がびくりと揺れて支えてくれている男にも伝わったのか、どうかしましたかと顔を覗き込まれ、いえ、何でもありませんと答えるのが精一杯だった。
この教会というよりは門を潜った右手に礼拝堂、正面に関係者が暮らす母屋、その母屋につながる小さな建物と雨がかからないように設えられた各建物を繋ぐ廊下に見覚えがあり、どこで見た、地元のそれなりに大きな教会に毎週妻とともに通っているが、そことそっくりなのか、それとも妻とともに旅先で訪れた教会の記憶と混ざっているのかを思い出せと、脳味噌を目まぐるしく働かせた結果、気持ちの悪さを一瞬で吹き飛ばしてしまうような衝撃に体に雷が落ちたようにびくりと跳ねる。
思い出せと叫んだ脳味噌がこの先に進むなと悲鳴を上げた心と一つになって記憶が繋がった瞬間、己の足に絡みついていた蔦や過去から伸びる細い蜘蛛の糸が脳内で実体化し、衝撃となって体内を駆け巡る。
「……こ、ここは……っ!」
「ご存知ですか?」
天使像そっくりな男の腕を振り払ってガタガタと震える彼にシスターと男が顔を見合わせてうちの教会を知っているのかと問いかけると、ヴィルヘルムが何も答えられずにへなへなとその場に座り込んでしまう。
「……ブラザー・ヤーコプ……」
震える声で決して意識野に上がらせることの無かった旧知のブラザーの名を呼んだ彼は、二人が再度顔を見合わせた後にヤーコプをご存知ですかと問われて頭を上下か左右か自身では判別出来ない程激しく振ってしまう。
「……ヤーコプはもう……?」
「もう何年になりますか。病で神の御許に旅立ちました」
教会にとっては無くてはならない人だった為に彼が亡くなった後は何かと大変でしたと、祈りを捧げながらシスターが目を伏せ、その姿に石畳を引っ掻くように手を握りしめる。
この教会に覚えがあったのは当時の西ベルリンにあった亡命者の支援施設から仕事を求めてこの街にやって来た時に案内された場所であり、彼の中では忘れたことにして記憶の引き出しに厳重に鍵を掛けたある出来事に連なる場所だったからだった。
あの日、西ベルリンから小さな荷物と少しの現金だけを手にこの古い小さな教会へとやって来たのは、彼とまだ恋人であったハイデマリー、そして支援施設で知り合ったヨハンだった。
その後、生きていくだけで精一杯の日々を過ごしていた自分達だが、三人の中を壊すだけではなく彼女の精神をも壊しかねない決定的な事件が起き、その頃には足が遠のいていたここに彼が再び姿を見せたのは、粉雪が降りしきるクリスマスイブを迎えた深夜だった。
ブロンドにブルーアイズという端正な顔をしたヨハンの名前と結びつく記憶が赤く染まった消し去ってしまいたいものだった為、赤い粉雪が降りしきる中、コーヒーを運搬するような麻袋に毛布にくるんだそれを何らの感情を覚えることも無く入れてこの教会に運んだ時の光景がまるで昨日の出来事のように思い出され、今度は息苦しさに胸を喘がせてしまう。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ、……ヨハンが……マリーを……!」
大丈夫かと身を案じてくれるシスターの声が物質的なものとして迫ってくる感覚に恐怖を覚え、後退りながら片腕で顔を覆い隠した彼は、大丈夫かと天使像そっくりな男が近付く事にも心底恐怖を感じ、寄るなと拒絶の声を上げる。
「寄る、な……っ! 僕やマリーは悪くない……っ!」
全てはヨハンが悪いのだと叫んだヴィルヘルムだったが、それが限界だったのか、ぶつりと音を立てて彼の世界が暗転する。
「大丈夫ですか!? アーベル、ドクを呼んでください!」
「分かりました!」
遠くで響く医者と人を呼んで来てくれの声に誰も呼ぶなと告げたつもりの彼だったが、声として流れ出したのは意味のないあぁという音だけで、ひと月前に妻が狙撃されて微かに口を動かしたのと同じぐらいしか口が動かず、次いで意識もフェードアウトしてしまうのだった。
その日は雪ではなく止む事のない雨が降り続く日で、体を動かす事が辛くなって来た身重の妻に代わって日用品の買い出しに出かけていた彼は、両手に新生児用のおむつに使う布や肌着などの荷物を抱えながら自宅ドアを開け、決して広いとは言えない部屋に入って濡れたコートを玄関横の壁に引っ掛ける。
今帰った、雨が降ってて寒いと言いながら荷物を廊下に降ろし、キッチンのテーブルに買って来たパンなどを置いた時、買い物に出かける前はキッチンでテレビを見ていた妻の姿が見えないことに気付いてベッドを置いた部屋のドアを開けると、目の前に広がった光景が俄かには信じられずにただ妻の名を呼ぶ。
『マリー?』
彼と窓際に置いたベッドの間の床に、予定日が近付いていた為にふくよかになった白い身体の彼方此方に浮かぶ見るも無残な数々の痣や、お気に入りの花柄のパジャマだった布が破かれて周囲に散らばっている様とその中央で放心したように天井を見上げている彼女を見た瞬間に何があったのかを理解した彼だったが、そんな異様な空気が満ちた室内にある意味似つかわしい全裸でベッドで足を組んでたばこを吸う男の姿を発見し限界まで目をみはる。
『何をした……?』
『妊娠してご無沙汰だっただろう? だからお前の代わりに抱いてやったんだよ』
気の毒に腹が大きくなってからは満足することが出来なかったようで、その欲求不満を解消する為に抱いてやったんだと余裕の笑みを浮かべようとして失敗したように頬を引き攣らせる男の言葉を聞いた彼の視界が真っ赤に染まる。
安物の指輪を嬉しそうに受け取ってプロポーズを受けてくれた彼女だったが、ただがむしゃらに働いていたのを妊娠が分かってからは夢を追うことを一時的に休むかのように仕事もセーブし、自分だけのものではなくなった体を労わるようになっていたが、自分が買い物に出かけている間に自分以外の男を家に引き込むような女性ではないことは当然分かっていたし、もしも万が一本当にそうだとすれば、何故今己の声に反応もせずに全裸で糸の切れたマリオネットのように床に寝ているのか。
そして、何故床に広がるくすんだ金髪に止まることのない涙が吸い込まれていくのか。
口の端に微かに残る血の跡と頬や目尻に滲み出す紫や青のあざが意味するものはただ一つで、その事実に目の前が赤く染まった彼は、手を伸ばして触れた固いものが何であるのかを確かめることなく、己では虚勢を見破られていないと思って笑みを浮かべる男の顔めがけてそれを振り下ろす。
怒りによって染まった視界が飛び散る鮮血の赤と混ざり合い、見たことのない赤へと変化を果たしたのにも気付かずに肩で息をした彼は、人が発するものとは思えない断末魔の声に意識を取り戻したようにのろのろと起き上がる彼女を呆然と見つめ、スローモーションのように男が床に倒れる事を気にも留めずに起き上がった妻の暴行の痕跡を残す体をただだまって抱きしめ、降りしきる雨の音だけがやけに鮮明に彼の耳に響くのだった。
「……!!」
夢の中で脳裏に響く男の悲鳴と彼女のか細い震える声と止まない雨が現実でも響いた気がした彼は、まだ己の手が固いものを握り締めている錯覚にとらわれ、力任せに腕を振りながら声を張り上げる。
「……ウィル! 落ち着け、ウィル!」
聞こえてくる声が脳内で響いていたものとは違うが確実に毎日のように聞いていた声だと気付いて振り上げた腕を下ろせば間近で安堵の溜息が落ちる音が聞こえ、そちらに顔を向ける。
彼の目が向いた先、心配そうに顔を曇らせた息子の顔が見え、情けないと思いつつも涙が滲みそうになる。
あの辛い日々を二人で乗り越えた先に授かった、自分たちにとっては何にも代えがたい、新たな世界へと導いてくれる存在である息子がいる安堵に息を零してしまう。
「ノア……? どうしてここに……?」
「詳しいことは後で話す。大丈夫か?」
気分が悪くなった所をここの人たちに介抱してもらったと聞いたが気分が悪いのはもう落ち着いたのか、どこか痛いところなどは無いのかと幼い頃からの優しさを遺憾なく発揮する息子の言葉に一つ一つ頷き、記憶の中の頃と比べればほんの少しマシになっているがそれでも粗末なシーツを握りしめる。
「……トラムの中で気分が悪くなったって聞いたけど、裁判所の帰りだったんだろう?」
マリーに連絡を入れたのかと問われて力なく首を左右に振る彼だったが、心配なのは分かるが今はこれでも飲んで落ち着いてくださいと柔らかな声が同じ姓を持つ二人の男に投げかけられて同時にそちらへと顔を向けると、ヴィルヘルムらとさほど変わらない年のシスターが二つのマグカップを載せたトレイを持ち小さく笑みを浮かべる。
「……ありがとうございます、シスター」
「いいえ。大丈夫ですか?」
起き上がっても気分が悪く無いのならそのままで大丈夫なのでこれを飲んでくれとマグカップを一つヴィルヘルムに渡し、もう一つを心配そうに見守るノアに差し出す。
「ハチミツと白ワインとレモンが入っています。アルコールは大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「良かった」
ヴィルヘルムが寝かされている部屋は古い木のデスクと椅子、壁際の小さな本棚があるだけでベッドの上も当然ながら部屋にふさわしい質素ぶりだった。
この質素な部屋もここで出される食事も質素と呼ぶのも気が引けるほどのものだったことを思い出したが、それはこの教会の敷地に足を踏み入れたヴィルヘルムの記憶の引き出しから半ば強引に引き摺り出されたもので、三人でここを訪れた夜の様子がありありと蘇り、決して思い出したく無い血に染まる顔も思い出されてしまう。
「……っう……」
「ウィル!?」
血に染まった顔が何故お前だけが成功するのだと叫び、友人であった自分がこんな目に遭ったのもお前のせいだと、今日の午後裁判所で壁が壊れる以前に別れたきり会っていなかった友人の顔に変わっていく。
皆が不満を抱えつつも体制など変わるはずもないと諦め日々を過ごしていた中、伝手もコネも何もない若い男女が本当に運良く亡命できた結果、叶えた夢の先で成果を認められて表彰されるなんて許されて良いのかと二人の男に糾弾された気がしたヴィルヘルムは、マグカップを持つ手から力が抜けてシーツに中身を零してしまうのを止められず、床に音を立てて落ちるカップに気を配る余裕もなく、ただ脳内で響く過去からの糾弾に両手で頭を抱えてしまう。
あの頃自分たちは若く、あの辛気臭い国でただ年を重ね周囲の大人と同じような陰気な大人になるのかと思うと居ても立っても居られない程で、自分たちには輝かしい未来がありその未来を享受できて当然だと思っていた。
だからその為に家族や友人を泣かせようとも恨まれようとも己のやりたいことをするだけで、実際にそれを実行に移しただけだった。
その結果が忘れ去っていた友人だった男の凶行で、それが己の夢を叶えるために誰かを傷付け犠牲にしてしまった結末なのだろうか。
ベッドの上で膝を抱えて体を震わせる父の姿に衝撃のあまり何も言えずにいた息子は、シスターがマグカップを拾い、雨も止まないことだし急ぐこともありませんからしばらく一人にしてあげましょうと耳打ちされてただ従うことしか出来ず、向こうの部屋にいるからと震える父の背中に告げて静かに部屋を出て行く。
出て行った息子の言葉にも何も返せなかった父は脳内で響く糾弾の声とそんなに悪い事をしたのかという己の叫びから耳を塞ごうと両耳を押さえるが、その声の中に遠い昔に聞いた乳児の声が混ざり、ああ、ノアが泣いていると思った瞬間、その声が暗闇の中に浮かんだ麻袋の中から響いている事に気付いて呼吸を忘れてしまう。
ぼんやりと闇に浮かぶ粗末な麻袋の中には毛布に包んだ捨て去ってしまったものが入っていたはずで、呼吸が止まった世界で彼は唐突に理解する。
罪を犯し被害者面をして新たな罪を重ね、正気を失ったように叫ぶ彼女を見たくない一心で何も考えずに彼女の言葉に従った結果、何をした。
麻袋の中から響く泣き声は忘れ去っていたものを思い出せと教える為に放たれた再度の産声のようで、ああ、思い出してしまったと脳味噌が呟いた瞬間、音にも言葉にもならない悲鳴が身体全体に響き渡り、その衝動で呼吸を再開するが、荒い呼気とともに吐き出されたのは断末魔のような声だった。
「……あ、ぁあああ……っ!!」
あの時聞いた断末魔が乳児の小さな泣き声と重なり合い脳味噌の中だけではなく鼓膜の外でも響いた気がし、恐怖から耳を抑えようとするものの、さっきまでの震えとは比べられないほどの震えが身体を襲い、どれだけ力を込めて身体を抱きしめても感覚が分からず、見開いた目が乾燥して痛みを訴えていることにも気付けず、ただベッドの上で身体を震わせながら言葉にならない悲鳴をか細く流し続けたヴィルヘルムは、その声に驚いた息子やシスターの他に人が集まってきたことにも気付かずにいたが、ノアが駆け寄って大丈夫かと問いかけながら身体を揺さぶった事で顔が上がる。
そんなに心配そうな顔をする必要はないと己の現状が理解できていないようなヴィルヘルムが息子の頬に手を伸ばそうとするが、ドアのすぐ横の壁に背中を預けて室内を見つめている男に気付き、伸ばしかけた手が石化したように動きを止める。
そこにいたのは、ノアが礼を言うために会いに行くと言っていたリオンだった。
何故リオンがここにいるのかが分からなかったヴィルヘルムだったが、このひと月間の出来事を逆再生するように思い出し、己の若い頃やノアに良く似ているのか理解出来なかったことも思い出すが、じっと見つめてくる己に良く似た顔を見ていると、罪人を裁く聖ミカエルの剣のように彼が無意識に考えることを拒否していた言葉が脳天から爪先まで貫通していく。
「ああ……」
自分たちが罪を犯したあの日以降、起き上がることが出来ずにただベッドで涙を流すことしか出来なくなった彼女と己の苦痛を救ってくださいと祈ることも出来ずに忘れたい一心で時を過ごした日々が蘇り、身体の震えも恐怖感も一瞬で喪失したヴィルヘルムは、ノアの声もシスター達が心配する声も何も聞こえない、耳が痛くなるような静寂の中でじっと彼を見つめる。
あの夜、安いボロアパートの一つしか無いベッドで罪を具現化したように生まれ落ちた乳児を床に落ちていたボロボロの毛布に包み、己と彼女がこれまでのように二人で手を繋いで生きていく為にはこうするしかないんだと、産まれたばかりで一切の罪悪など関係のない乳児に総ての過去を背負わせ、見ることすら疎んじた自分達によって真冬の世界に捨てられ死ぬ運命にあった筈だが、今ここにいるということは助かったのかと、今まで押し殺してきた全ての罪に繋がる扉から小さなか細い産声を上げる乳児が顕在化した恐怖と、もうそれに怯える必要がないと分かった安堵から笑みを浮かべてしまう。
「生きて……いた、んだな……」
粉雪が降るクリスマスイブの夜、古い小さな礼拝堂で聖母マリアが見守る長椅子に己と彼女の過去の総てを背負わせて置き去りにした、泣くことすら諦めたような小さな命が文字通りの聖夜を乗り越えて生きていたんだなと、一気に実年齢よりも老けたように呟くヴィルヘルムに、ノアが狼狽する己を抑えきれずにどうしたんだと父の肩を揺さぶってしっかりしてくれと悲痛な声をあげる。
「ウィル、さっきから何を言ってるんだ!?」
「……ノア……マリーとお前を、愛している……」
今にも泣きそうな顔で己の腕を揺さぶる息子に目を向けた父は、まっすぐに己を見据える己そっくりな双眸と妻譲りの髪を持つリオンにもう一度顔を向け、遥か遠い昔、生まれてくる子どもが男のならばレオかレオンと、女の子ならばエルザにしたいのと笑ったいつかの光景を思い浮かべるが、真夏の激しい夕立のように発覚した事実に心身ともに耐えられなくなったのか、蒼白な顔で名を呼ぶノアの前でそのまま意識を手放してしまうのだった。
意識がブラックアウトする寸前、毛布に包んだ一人では絶対に生きていけない小さな命を捨てる罪悪感を、自分たちこそが被害者だと言い訳する事で誤魔化した過去の己の呟きが、真夏の通り雨の音とともに聞こえた気がした。