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『別れ』
「……帰る」
れんがそう言った。
その言葉に。
なぎの肩がぴくりと揺れる。
「……帰るって」
「みすずを連れて帰る」
「……嫌だ」
「なぎ」
れんの声が低くなる。
「もう決めろ」
「……」
「みすずが自分で選べる場所に戻すんだ」
なぎは俯いた。
しばらく何も言わない。
俺も、何を言えばいいのか分からなかった。
ここから出たい。
ずっとそう思っていたはずなのに。
今、なぎの顔を見ると。
胸の奥が妙に重くなる。
「……なぎ」
「何?」
「俺を帰して」
その言葉を口にした瞬間。
なぎの表情が歪んだ。
「……うん」
「……」
「分かった」
思っていたよりも。
ずっと静かな返事だった。
なぎはゆっくり立ち上がる。
そして俺の前まで来ると。
ポケットから鍵を取り出した。
「これ」
小さな鍵が、なぎの手のひらに乗っている。
「部屋の鍵?」
「うん」
「……渡してくれるの?」
「僕が持ってたら、また閉じ込めたくなるかもしれないから」
「……」
なぎは俺の手に鍵を乗せた。
指先が触れそうになって。
けれど。
すぐに離れる。
「みすずが自分で持ってて」
「なぎ……」
「僕はもう、みすずの行動を決めない」
そう言って。
なぎは少しだけ笑った。
「……できるか分からないけど」
「それでも、やってみる」
俺は鍵を握りしめた。
「ありがとう」
その言葉に。
なぎの目が揺れる。
「……ありがとう、って言われるようなことしてないよ」
「分かってる」
「じゃあ……」
「でも、今はありがとうって言いたい」
なぎは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ顔を背けた。
「……れん」
「ん?」
「みすずを頼む」
れんが一瞬、驚いた顔をする。
「お前は?」
「僕は……」
なぎは部屋を見回した。
ここには。
俺を閉じ込めるために用意したものがいくつもある。
その一つ一つを見つめながら。
「片付ける」
「……全部?」
「全部」
「一人でできるのか?」
「やる」
れんはしばらくなぎを見ていた。
やがて。
「……そうか」
短く答えた。
そして俺を見る。
「行くぞ」
「……うん」
俺は歩き出した。
扉の前まで来る。
ずっと開かなかった扉。
その前で。
俺の足が止まった。
後ろを見る。
なぎは少し離れたところに立っていた。
追いかけてこない。
「……みすず」
「何?」
「僕が嫌になったら」
なぎは一度、息を吸った。
「ちゃんと、そう言って」
「……」
「無理に優しくしなくていい」
「なぎ……」
「僕は今まで、みすずの気持ちを無視してたから」
泣きそうな顔で。
それでも笑おうとしている。
「これからは、みすずの言葉を聞く」
俺は何も言えなかった。
ただ。
小さく頷いた。
そして。
扉を開けた。
外の空気が流れ込んでくる。
それだけで。
胸がいっぱいになった。
自由だ。
そう思った。
なのに。
一歩外へ出たところで。
俺は振り返ってしまった。
なぎがそこにいる。
一人で。
何も言わずに。
俺を見ている。
「……なぎ」
「うん」
「また会える?」
なぎの目が見開かれた。
「……え?」
「俺が、自分で会いたいと思ったら」
「……」
「そのときは、会ってくれる?」
なぎは唇を噛んだ。
そして。
ゆっくり頷く。
「もちろん」
「……約束?」
「約束」
俺は今度こそ歩き出した。
れんの隣を歩く。
しばらく。
誰も何も言わなかった。
外に出てから。
冷たい風が頬を撫でる。
その瞬間。
ようやく実感した。
俺は帰れる。
それなのに。
胸の奥には。
なぎの泣きそうな顔が残っていた。
「……みすず」
「ん?」
「大丈夫か?」
「……分からない」
正直に答える。
「怖かった」
「うん」
「今でも、ちょっと怖い」
「……そうだよな」
「でも」
俺は後ろを振り返った。
もう。
なぎの姿は見えない。
「……あいつのことを、完全に嫌いにはなれないみたい」
れんが黙る。
「それって、おかしいかな」
「おかしくない」
「……そう?」
「好きと許すは別だ」
れんは前を向いたまま言った。
「それに、同情することと、もう一度あいつを信じることも別だ」
「……」
「時間をかけて決めればいい」
俺は鍵を握りしめた。
手のひらに食い込むほど。
強く。
「……うん」
その日の夜。
自分の部屋に戻って。
ベッドに横になっても。
眠れなかった。
目を閉じると。
なぎの声が聞こえる。
――初めて見たときから、ずっと。
――好きだった。
胸が苦しくなる。
俺は枕元に置いた鍵を見る。
小さな鍵。
なぎが最後に俺へ渡したもの。
俺を閉じ込めるための鍵だったはずなのに。
今は。
俺自身が自由になるための鍵になっている。
「……なぎ」
小さく名前を呼ぶ。
返事なんて。
あるはずがない。
それでも。
少しだけ。
会いたいと思ってしまった。
そして。
その気持ちに気づいた瞬間。
俺は自分自身が怖くなった。