東側の棟に食堂があり、食堂にはもちろん厨房が併設されている。アクティアと共に厨房の様子を確認する。道具も食器も一通り揃えてある。立派な竈がいくつかあり、井戸もすぐ近くにあった。
そしていくつもの壺に様々な食料があった。肉、魚、卵、野菜、果物。塩や牛酪。質の良い小麦粉に麺麭種まである。幽閉されている人物に用意された食料としては十分に贅沢だ。あとは料理を作りにくる料理人がいつもなら来ているのだろうけれど、とユカリは想像する。このような状況で躊躇われているのだろう。
しかし少しおかしいことにユカリは気づく。魚や肉、野菜は乾物でもなければ塩漬けでも蜜漬けでもない。どれもが生で、それでいて新鮮だった。魚は今釣れたばかりのようで、肉は血が滴っている。腐っていない。黴びていない。少しも傷んでいない。食物を新鮮に保つおまじないはあるが、限度というものがある。パーシャのために毎日のように新鮮な食物を運んできているということだろうか。
そのことを井戸と厨房を何往復かしたベルニージュに伝えると、「分かってきたかもしれない」と言って生卵を一つ手に取る。「パーシャ姫を起こしてくるよ」
「え? ちょっと、ベルニージュさん。ちょっと待ってください」ユカリは不穏な言葉と共に立ち去ろうとする赤髪の少女を鋭く呼び止める。不思議そうな顔をするベルニージュと彼女が手に持った卵を交互に見る。「一体何をしようとしているんですか?」
「え? ああ、卵は別件だよ。さすがのワタシも生卵を叩きつけて王女様を起こしたりしないって」と笑いながら言って、ベルニージュはパーシャを起こしに行った。
ユカリは不安に苛まれながらベルニージュの背中を見送る。
「ユカリさん。どうかなさいました?」とアクティアは軽やかな気持ちを滲みださせつつ尋ねた。
ユカリは気を取り直して答える。「いえ、それでは始めましょうか」
「はい。よろしくお願いします。わたくし、全身全霊を込めて取り組みますわ」
二人は厨房で見つけた前掛けを身につけ、料理を始める。
義母に教えてもらった様々な料理を全て叩き込む、というわけにもいかない。ユカリはアクティアにまずは基本的な調理道具の使い方を覚えてもらうことに注力した。それでもアクティアは食材の下拵えや様々な調理法を貪欲に学ぼうと教えを乞うてくる。料理に限らず努力家なのだろうことがユカリにひしひしと伝わった。放っておけばこの図書館の料理に関する本を貪るように読み始めそうだ。
そうして用意された四人分の食事は倍の八人前はあった。堅果と胡麻の麦粥。豚肉の炒め物。鱒の窯焼き。蕪の汁物。胡瓜や南瓜の野菜の和え物。蜂蜜水。
全てを皿に盛り付け、机に並べ、すっかり目を覚ましたベルニージュもまだ眠たげなパーシャも含め、全員が同じ食卓につく。
「多すぎじゃない?」とベルニージュは視界に収まらない食卓を眺めて言う。
「朝食にしては多かったかもしれませんね」とユカリは誤魔化すように言った。
「でもわたくしお料理がとても楽しかったですわ」とアクティアは今にも歌い出しそうな声で言った。
「そもそもワタシ、そんなにお腹空いてない」とベルニージュは呟く。
「私もです」とユカリは同意する。
「わたくしもですわ」とアクティアは申し訳なさそうに言った。
気まずい雰囲気になる。おそらく四人前でも多かったのだと気づく。
「でも作ってしまいましたし」ユカリは三人の顔を見て言う。「とにかく食べられるだけ食べましょう」
四人はそれぞれの神に祈りを捧げると、あまり楽しくない食事を始めた。つまり会話の少ない食事だ。間違いなく味は美味しいのに、とユカリは心の中で愚痴る。量の問題ではない。思いのほかユカリたちは空腹ではなかったのだった。
そしてユカリは、パーシャが一口も手を付けていないことに気が付く。
「殿下、どうかされましたか? 蜂蜜水しか飲まれていないじゃないですか。殿下もお腹が空いていないとか?」
「蜜だけなんて蝶々みたい」と呟いたベルニージュの机の下の太ももをユカリは引っぱたく。
パーシャは机の上の食事を見つめたり、申し訳なさそうな面持ちで三人を盗み見るように視線を向けたりする。
「あの……怒らないでくださいね」とパーシャは呟く。
「全員が似たような状況ですから。ご心配なく」とユカリは励ますように答える。
三人は辛抱強くパーシャが口を開くのを待つ。
「パーシャはずっとお腹いっぱいなのです。だからずっと食事を摂っていません」
やはりパーシャ姫なのだ、とユカリとベルニージュは確信を持った。
「ずっと、というのはどれくらいですか?」とユカリが尋ねる。
「六年くらいです」とパーシャは申し訳なさそうに答えた。「ここに来てから、図書館に閉じこもって、しばらくしてから、ずっとです」
「その間、一度として食事を摂っていないというのですか!?」アクティアは驚きのあまり口を半分開いて固まっている。「そんな、まさか、そんなことがありうるのでしょうか?」
ユカリとベルニージュは目配せをする。
「私たちに一つ心当たりがあります」ユカリはそう言って背筋をただす。
「心当たり?」とアクティアは繰り返す。「パーシャ様が空腹にならないことについて、ですか?」
「はい」ユカリは真摯な面持ちで頷く。「おそらく魔導書がパーシャ姫に憑りついていると思われます」
「魔導書!?」アクティアは思いもかけない話に驚き、パーシャを食い入るように見つめる。
一方パーシャの方はきょとんとした顔でユカリの顔を見つめる。多くとも六年という歳月をたとえ知の宝庫である図書館で過ごしたとはいえ、まともに他者と会話する機会のなかったパーシャには魔導書という存在の脅威を実感することはできなかったのだった。
「はい」ユカリはパーシャにも呑みこみやすいように言葉を選ぶ。「簡単に言うと、強力な魔法の込められた本といったところでしょうか」
パーシャは恐々と尋ねる。「それが、パーシャの中にあるのですか?」
「ええ、おそらく。ここからは現状からの推測になりますが。パーシャ姫は空腹や飢饉を退ける奇跡そのものになっていると言えば良いかもしれません。確認できている現象として、西の土地の畑が再生し、東の土地の花畑が再生していないこと。食堂の食品が一切の保存処理がされていないにもかかわらず新鮮さを保っていたこと。私たちがさほど空腹にならず、パーシャ王女殿下に至っては一切食事をせずに済んでいることなどです」
「そのような力がパーシャ様の中に」アクティアは何かを受け入れ、覚悟した表情になっていた。「お可哀そうに。では、六年もの間、何も美味しいものを味わえていないのですか?」
パーシャは寂しげにこくりと頷く。
「そしてようやくハウシグ王国とテネロード王国の意図が分かりました」とベルニージュが淡々と説明する。「魔導書のことまで把握している可能性は低いです。しかしその奇跡の噂は確かに大河の向こうまで届いたのでしょう。そうしてパーシャ姫を欲するに至った。テネロード軍が畑を焼き尽くしたのは奇跡の効果やその範囲を調査しようとしたのかもしれません。しかし畑が再生したのなら、今度こそ侵攻を再開するでしょう。いくら囲んでも兵糧攻めなんて出来ないのですから。いよいよ覚悟を決めなくてはならない」
最後の言葉は自分に向けられているのだとユカリには分かった。パーシャの意思に関係なく連れ出さなくては、テネロードの侵攻は止まらず、ベルニージュの母はその強力無比な一番槍となる。
アクティアはため息をつき、目を伏せる。
「確かに、食料の安定供給は国家の重大な責務ですが、その為に戦争をするというのですか?」
「お気持ちは理解できますが、これは仕方がありません、殿下」とベルニージュは頑なに言う。「安定供給などという言葉には収まりません。言うなれば完全保証。神の奇跡に勝るとも劣らない魔法です。永遠に飢饉を恐れることが必要ない、そんな力があることを知って、確保しようとしないことの方が国主としての能力を疑われます」
限定的とはいえセビシャスに宿っていた不老不死の奇跡に比べれば地味だな、とユカリは思っていたが考えを改めた。
「パーシャは」とパーシャは言いかけて口を噤むが、もう一度口を開く。「そういうわけで食事が出来ません。その、気を遣わせるのも忍びないので、あとは皆さんで」
立ち去るパーシャを止める言葉をその場の誰も持ち合わせてはいなかった。
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