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#ご本人様とは一切関係ありません
686
#ご本人様とは一切関係ありません
あんにんどう腐(ゆ腐)
2,751
#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
2,469
※飲酒のシーンがありますが、
本創作の設定は全員成人している設定です※
翌日のスタジオは、いつも通り忙しかった。
大型ライブ前の空気が、朝から床にまで染みついている。
音源チェック、立ち位置の確認、通しの修正。
スタッフの声が飛ぶたびに、五人はすぐ仕事の顔に戻る。
でも、見ていればわかるものはあった。
タイキとルイは、やっぱり少しだけ離れている。
喧嘩したみたいに露骨じゃない。
言葉を交わさないわけでもない。
必要なことは話すし、スタッフの前ではちゃんと同じグループの空気を保っている。
ただ。
前みたいな自然な近さだけが、きれいに消えていた。
カノンはそれを、朝から何度も目で追っていた。
ルイが一人で壁際に立っていること。
タイキがアダムと短く話して、それから自然に立ち位置へ戻ること。
ルイがその様子を、見ていないふりで見ていること。
その全部が、少しずつ気になって仕方ない。
「カノン」
横から低い声がして、カノンは視線を戻した。
ゴイチだった。
ペットボトルの水を一本、無言で差し出してくる。
「ん、ありがと」
受け取ると、ゴイチはそれ以上は何も言わない。
でも、視線だけはちゃんとカノンを見ている。
カノンが何を気にしているか、たぶんもう気づいている。
それでも茶化さないし、問い詰めもしない。
それが少しだけありがたくて、少しだけ気まずい。
「お前さ」
ゴイチが小さく言う。
「気にしすぎ」
「……何が?」
「何でも」
そう言うくせに、ゴイチは視線だけでルイの方を軽く示した。
カノンは一瞬だけ口を噤む。
図星だ。
でも、恋とかそういう話に自分の中でまだ名前はついていない。
ただ、最近のルイを見ていると、妙に胸の奥がざわつく。
タイキと一緒にいないことも。
ルイがいつもより少し静かなことも。
それが、純粋に心配だった。
「ちょっと心配になってさ」
ぽつりとそう言うと、ゴイチは短く頷く。
「知ってる」
その一言だけで、カノンは少しだけ目を細めた。
知ってる、の中に。
お前が何を気にしてるかも、俺は見てる、が全部入っている気がした。
「……やだな、そういうの」
「何が」
「見透かした感じ」
「見透かしてるわけじゃねぇよ」
ゴイチは少しだけ肩をすくめる。
「ただ、お前が気にしてる時の顔、わかるだけ」
その言い方に、カノンは何も返せなくなる。
やっぱり、この人には敵わないと思う。
休憩の声がかかる。
メンバーがそれぞれ散って、水を飲んだり、床に座ったり、鏡の前で動きを確認したりし始める。
ルイはその輪から少し外れた壁際にいて、タオルで首元を軽く拭っていた。
カノンは少し迷ってから、そっちへ歩く。
ゴイチは何も言わない。
でも少しだけ位置を変えて、自然にその様子が見える場所へ移った。
守るみたいに。
放っておくんじゃなく、でも邪魔もしない距離で。
カノンはルイの前まで行って、軽く首を傾けた。
「ねぇ」
ルイが顔を上げる。
「最近、タイキと一緒にいないよね」
軽いトーンで聞いたつもりだった。
でも、自分で思ったより真っ直ぐな声になった。
ルイは小さく息を吐く。
それから言う。
「……喧嘩じゃない」
カノンが「じゃあ?」という顔をする。
ルイは少し間を置く。
そして小さく言った。
「逃げられてるだけ」
カノンが目を丸くする。
「え?」
ルイは壁にもたれ直す。
視線を外す。
でも、声は低い。
「タイキが」
少し間。
「俺から」
カノンは何も言えない。
その言葉が予想外だった。
スタジオの音が遠く聞こえる。
カノンは少しだけルイを見る。
そして思う。
(……逃げてる?)
でも。
その理由はまだ分からない。
ただ一つ。
カノンは気づく。
ルイの声が、いつもより少しだけ低かったことに。
「逃げるって」
カノンはふふっと笑う。
「ルイ、何したの?」
膝に手をついて屈み、ルイと目線を合わせて聞く。
ルイはそこで、少しだけ苦く笑った。
「優しくしたら逃げられた」
カノンの表情が止まる。
「……は?」
思わず素で返してしまう。
ルイはその反応に、少しだけ口元を歪めた。
「なんだよ、その顔」
「いや、するでしょ」
カノンは半分呆れながらも、その場を離れない。
「なんで、優しくしたの?」
少しだけ首を傾ける。
「自覚あるってことはさ、これまでとは違う態度取ってたんでしょ?」
ルイが視線を戻す。
「ん?」
柔らかい顔のまま、近い距離でカノンを見る。
自覚なく。
ただ、信頼してる目で。
それがカノンの言葉を、一瞬で止めた。
近い、と思う。
距離じゃなくて、目の置き方が。
ルイは今、自分を警戒していない。
変に構えてもいない。
ただ自然に、信じて見るみたいな目をしている。
その顔に、カノンは不意に言葉を詰まらせた。
なんで今まで、ちゃんと気づかなかったんだろうと思う。
自分がルイを気にしていたこと。
心配という言葉だけでは足りないくらい、視線を向けていたこと。
ルイが少し静かだと気になること。
タイキのことを見ているルイを見ると、胸のどこかがざらつくこと。
それが今、少しずつ形を持ち始める。
「いや、なんでもない」
軽く首を振るカノン。
それ以上、続けられなかった。
ルイは少しだけ不思議そうにしたけれど、深追いはしなかった。
その優しさすら、今のカノンには少しきつい。
少し離れたところで、ゴイチがそのやり取りを見ていた。
表情は変わらない。
でも目だけはちゃんと、カノンの詰まった一瞬を拾っている。
カノンが立ち上がる。
そのタイミングでゴイチが自然に歩み寄ってきた。
「休憩終わるぞ」
何でもない声。
それが救いみたいだった。
「あ、うん」
カノンが返すと、ゴイチはそのまま隣に並ぶ。
ルイに何か探るような視線は向けない。
ただカノンの歩幅に合わせる。
そのさりげなさが、余計に優しい。
戻りながら、カノンは小さく息を吐いた。
「……ゴイチ」
「ん」
「俺、ちょっと意味わかんなくなってきた」
ゴイチは前を向いたまま、少しだけ笑う。
「今さらかよ」
その言い方が少しだけ優しくて、カノンは困ったように笑った。
「今さらって何」
「別に」
ゴイチはそう言って、それ以上は言わない。
でも、カノンにはわかる。
この人はたぶん、少し前から気づいていた。
自分がルイを見ていることにも。
今ここで、その視線の意味に自分がようやく気づきかけたことにも。
ルイは壁際に残ったまま、少しだけ目を伏せていた。
タイキに逃げられていること。
優しくしたら余計に離れられたこと。
それをカノンに口にしたことで、自分の中でも妙に現実味が増している。
そんなルイを、アダムが遠くから静かに見ていた。
タイキもまた、少し離れたところでストレッチをしながら、こちらの空気を薄く気にしている。
誰も何も知らないわけじゃない。
でも、今はまだ、誰も決定的には踏み込まない。
スタッフの「お願いしますー!」の声で、休憩が終わる。
五人がまた立ち位置につく。
鏡の中に並ぶ姿は、ちゃんとSTARGLOWだった。
だけど。
カノンはその列の中で、自分の胸の奥に生まれた違和感を、もう前みたいに見ないふりはできなかった。
ルイの顔を見て、何で言わなかったのか。
何で言えなかったのか。
その答えに、自分が少しずつ近づいていることに、ようやく気づき始めていた。
練習が終わったあとも、カノンの言葉だけが妙に残っていた。
なんで、優しくしたの?
スタジオを出る頃になっても。
エレベーターを待っている間も。
家に帰って、鍵を回して、玄関のドアを閉めたあとも。
その一言だけが、何度も頭の中で反復する。
ルイは靴を脱いで、そのままリビングまで入った。
照明をつける。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ静けさ。
ソファに座る。
でも落ち着かない。
スマホをテーブルに置いて、また手に取って、意味もなく画面をつける。
誰かから連絡が来ているわけでもない。
タイキから来るはずもない。
それでも、何かしていないと頭の中がうるさかった。
なんで、優しくしたの?
ルイは小さく息を吐く。
そんなの、簡単だろと思う。
怒ってたから。
タイキがしんどそうだったから。
いつもみたいに押し切ったら、本当に終わる気がしたから。
言い訳なら、いくらでも並ぶ。
でも、カノンのあの聞き方は、そういう表面の理由を聞いていたわけじゃなかった。
“なんで”の中にあったのは、もっと別のものだ。
なぜわざわざ態度を変えたのか。
なぜ今までと違う触れ方をしたのか。
なぜ、タイキが怒っているのに止まれなかったのか。
そこを聞かれていた。
ルイはソファに深く座り直して、天井を見た。
優しくしたかったわけじゃない。
少なくとも最初は。
優しくした、というより。
雑にできなかった、の方が近い。
タイキが怒っていたから。
真正面から「ふざけんなよ」って言ったから。
好きであんなことされてたと思ってんの、って、あの目で見てきたから。
あそこでいつも通りにしたら、本当に終わる気がした。
だから少しだけ止まった。
選ばせるみたいな言い方をして。
肩を抱いて。
乱暴にしないで。
キスだけで離れて。
それで逆に逃げられた。
ルイは目を閉じる。
優しくしたら逃げんのかよ
自分でそう笑った夜のことを思い出す。
あれは半分、本音だった。
腹が立った。
なんでそこで逃げるんだよ、と思った。
こっちは少しだけ変えたつもりだったのに、それで余計に距離を取られるのか、と。
でも今なら、タイキが逃げた理由も少しだけわかる。
優しくしたからだ。
優しくされたら、今までみたいに最低だって思って切れなくなる。
自分でもそういうことだと、たぶん気づいていた。
ルイは片手で顔を覆う。
めんどくさい。
ほんとに、めんどくさい。
タイキも。
自分も。
全部。
でも一番めんどくさいのは、カノンの一言で、自分がそこを考え始めてしまったことだった。
なんで優しくしたのか。
ルイはその問いを、わざと乱暴に処理しようとする。
気まぐれ。
タイキが怒ってたから。
少しだけ歩幅を合わせただけ。
でも、どの答えも薄い。
薄くて、自分で信じられない。
本当はもっとはっきりしているものが、その奥にある気がする。
ルイはスマホを置いて、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けて水を取り出す。
グラスに注ぐ。
透明な水が落ちる音だけが妙に響く。
一口飲んで、流しに手をつく。
脳裏に浮かぶのは、タイキの顔ばかりだった。
撮影の時、モデルの隣で笑っていた顔。
控室で、壁に追い込まれても逸らさなかった目。
「俺、お前の何なの」って言った時の静かな声。
そして最後に、「優しくされないほうが良かった」って言った、赤い目元。
あんな顔、見たくなかった。
見たくなかったのに。
自分がそうさせた。
ルイは喉がつまるような感覚を覚えて、もう一度水を飲んだ。
嫌われたくない、と思う。
その感情だけは、もうごまかしようがない。
タイキに避けられて。
スタジオで少しずつ距離を取られて。
そのくせアダムとはちゃんと話してるみたいな顔をしていて。
あれを見た時、腹が立った。
ただの嫉妬だ。
それくらい、もうわかる。
でも嫉妬だけなら、今までと同じだ。
今までだって、タイキが誰かと近いと腹は立った。
スタッフと笑ってるだけで、妙に気に障ることもあった。
なのに今回が違うのは、そこに別の感情が混ざってるからだった。
怖い。
ルイはその言葉を、頭の中でだけ認める。
タイキが自分から離れていくのが怖い。
アダムみたいに、静かにちゃんと隣に立てる誰かの方へ行くのが怖い。
今さら自分が少し優しくしたところで、もう遅いんじゃないかと思うのが怖い。
それは執着だろうか、とルイは考える。
独占欲。
執着。
依存。
どれも間違ってない気がする。
でも、それだけじゃない気もする。
もし本当にただの独占欲なら、もっと簡単だった。
欲しい時に呼んで、来なくなったら苛立って、それだけで済んだはずだ。
でも実際は違う。
タイキが傷ついた顔をしていると、自分まで嫌になる。
怒らせると腹が立つくせに、同時にちゃんとこっちを見てほしいと思う。
優しくしたら逃げられたのに、それでももう前みたいには戻れない気がする。
ルイはグラスを置いた。
音が小さく響く。
そこまで考えて、またカノンの声が浮かぶ。
なんで、優しくしたの?
ルイは流しに寄りかかったまま、目を伏せた。
答えを言葉にしようとすると、そこで必ず何かが止まる。
優しくしたかったから。
違う。
失いたくなかったから。
それも、近いけどまだ違う。
タイキに、嫌われたくなかったから。
たぶん、それもある。
でも一番近い言葉に、まだどうしても触れられない。
ルイは苦く笑う。
そこまで来てるのに。
ほとんど答えなんて見えてるのに。
それでもまだ、認めきれない。
好きだ、と。
そんなふうに綺麗な一言にしてしまったら、自分がしてきたことまで全部そこに乗ってしまう気がした。
好きなら何してもいいのか。
違う。
そんなわけがない。
好きなら、もっと別のやり方があっただろ。
そう言われたら、何も返せない。
だから認めたくないのかもしれない、とルイは思う。
感情を認めた瞬間、自分の最低さまで確定してしまうから。
ただの気まぐれだと言ってしまえば、まだ逃げられる。
独占欲だと言ってしまえば、まだ誤魔化せる。
でも“好き”は逃げ道がない。
その言葉の先には、責任がある。
説明しなきゃいけないことがある。
タイキにちゃんと向き合わなきゃいけない何かがある。
ルイはそこまで考えて、小さく舌打ちしたくなる。
「……面倒くせぇ」
声に出してみても、少しも楽にならなかった。
面倒くさいんじゃない。
怖いだけだ。
言ってしまったら、戻れない。
言わないままでも、もう前には戻れない。
そのどっちも見えてるから、余計に立ち止まる。
部屋は静かだった。
時計の針の音が、やけに近い。
タイキのいない部屋。
誰にも見られていない時間。
そこでようやく、自分の中の違和感が少しずつ輪郭を持ちはじめる。
タイキが怒っていたこと。
逃げたこと。
避けていること。
その全部が嫌だった。
でも本当に嫌なのは、そうさせた自分の方かもしれない。
ルイはソファに戻って、背もたれに頭を預けた。
目を閉じると、タイキの顔ばかり浮かぶ。
笑ってる顔。
怒ってる顔。
困った顔。
アダムの隣で少しだけ楽そうだった顔。
その中に、答えがある気がする。
なんで優しくしたのか。
タイキに、そうしたかったからだ。
その結論のすぐ手前まで来て、ルイはそこでまた止まる。
言えない。
まだ、言えない。
でもたぶんもう、自分でも誤魔化しきれないところまで来ている。
ルイは天井を見たまま、小さく息を吐いた。
「……最悪」
今度のそれは、自嘲に近かった。
自覚の一歩手前。
ほとんどそこにいるのに、まだ認めきれない。
そんな自分が、いちばん厄介だと思いながら。
それでもルイは、タイキの名前を胸の奥から追い出せないままでいた。
はじめてキスをしたあとも、すぐに何かが変わったわけじゃなかった。
タイキはいつも通りだった。
学校が終われば、レッスンの前後で顔を合わせて、
たまにルイの家に寄って、
ゲームをしたり、映画を見たり、
新しく作った音源を流して、どっちの歌い回しが良かったとか、そんな話をして笑った。
あの頃はまだ、“来る”“来ない”なんて会話もなかった。
来る時は、来る。
帰る時は、帰る。
ただ、それだけだった。
ルイの部屋のソファに並んで座って、
コントローラーを持ったまま無駄に本気になったり、
映画の途中でタイキが「これ絶対こうなるじゃん」と先を読んで、
ルイが「黙って見ろよ」と呆れたり。
音楽を流してる時もそうだ。
「ここ、ちょっと詰めすぎじゃね?」
「いや、お前が遅いだけ」
「は? 違うし」
「録り直して聞けば分かる」
「やる。負けねぇし」
そんな、他愛のない時間ばっかりだった。
ただ、二人きりになった時。
ふとした拍子に、ルイがタイキにキスをすることがあった。
映画のエンドロールの暗い部屋。
ゲームが一段落して、コントローラーを置いたあと。
音源を流し終えて、沈黙が落ちた瞬間。
軽く。
短く。
何でもないことみたいに。
タイキは、何も聞いてこなかった。
「何?」とも、
「どういうつもり?」とも、
一度も言わなかった。
かといって、返してくるわけでもない。
拒絶もしない。
ただ驚いて、少し目を見開いて、でも何も言わない。
その顔を見るたびに、ルイの胸の奥は妙にざわついた。
でも当時のルイは、そのざわつきにちゃんと名前をつけなかった。
他のやつにそんなことする気にもならなかった。
それが、タイキがいたから必要なかったのか。
ただ近くて、甘えていただけなのか。
そこまで深くは考えなかった。
考えなくて済んだ。
タイキが隣にいるのが当たり前で、
自分の部屋にいても自然で、
キスをしても何も壊れなかったから。
少なくとも、ルイはそう思っていた。
⸻
ある日の夜だった。
ルイの部屋で、いつもみたいに映画を見ていた。
内容はもう半分も頭に入っていない。
タイキはソファの端で膝を立てて座っていて、
ルイはその横顔を横目で見ていた。
静かな場面で、部屋の明かりも落としてあって、
二人の間にちょうどいい沈黙が落ちた。
ルイはその流れのまま、タイキに顔を寄せた。
キスをする。
いつもみたいに。
いつもと同じ程度に。
そう思っていた。
でもその日、タイキは少しだけ顔を引いた。
ほんの少し。
本当に、少しだけ。
それだけで、ルイの中の何かが止まる。
タイキは視線を落としたまま、小さく言った。
「ルイ、こんなこともう止めよう」
その声は強くなかった。
責める声でもない。
怒ってもいなかった。
ただ静かで、困っていて、
少しだけ悲しそうだった。
ルイはその瞬間、何も言えなかった。
頭のどこかが冷える。
でも同時に、胸の奥には妙な熱が走る。
止めよう。
その一言が、思っていた以上に深く刺さった。
今さら?
今さら、そんなこと言うのか。
だって今まで何も言わなかった。
拒まなかった。
逃げなかった。
ここに来て、隣に座って、いつも通り笑ってたくせに。
ルイはそこで初めて、はっきりとした苛立ちを覚えた。
それはタイキに向いているようで、
本当は自分の足元を崩される感覚に対する苛立ちだった。
今更、俺から離れる気か?
その問いが、言葉にもならないまま胸の奥に落ちる。
なら、離れられなくするまで。
その感情が、そこから少しずつルイを蝕んでいった。
最初に変わったのは、触れ方だった。
キスだけで済ませられなくなった。
タイキが距離を取ろうとするたびに、余計に近づきたくなった。
言葉で止めようとされると、逆に自分の方が止まれなくなった。
ルイはその変化を、自覚しながら見ないふりをしていた。
好きだからじゃない。
失いたくないだけでもない。
ただ、ここで引いたら本当に終わる気がしたから。
だから少しずつ、やり方が変わる。
キスをするタイミングが増える。
手首を掴む。
肩を抱く。
距離を戻さない。
そうやって、“ただの流れ”だったはずのものを、
タイキが簡単には離れられないものに変えていった。
はじめてタイキの身体に触れた時のことを、ルイは今でも覚えていた。
どんな顔をしていた?
その問いに、今のルイならすぐ答えられる。
ただ、悲しそうだった。
拒絶じゃなかった。
嫌悪でもなかった。
でも、喜んでもいなかった。
ただ、静かに悲しそうだった。
その顔を見た時、ルイの胸は一瞬だけ痛んだ。
でもその痛みより先に来たのは、
ここで手を離したら本当に終わる、という焦りだった。
だから止まらなかった。
止まれなかった。
執着。
支配。
あとから名前をつけるなら、たぶんそういうものだった。
でも当時のルイは、それを認めることもしなかった。
ただ、タイキが離れようとするたびに、
自分の方が深く沈んでいっただけだ。
グループのデビューが決まって、忙しくなった。
学校も、レッスンも、撮影も、取材も。
“二人でただ遊ぶ”みたいな時間は、自然と減っていった。
ゲームをする夜も。
映画を観る夜も。
音楽を流してだらだら話す夜も。
気づけば、なくなっていた。
だから、呼んだんだ。
強制的に。
“来い”
それだけ送れば、タイキは来た。
最初のうちは、まだそれが不自然だと思っていなかった。
忙しいから。
会う時間がないから。
だったらこっちから作ればいい。
そんな言い訳を、自分にしていた。
でも本当は、違った。
もう“遊びに来る”では足りなかった。
曖昧なまま隣にいるだけじゃ、足りなくなっていた。
タイキを、逃がしたくなかった。
だから呼んだ。
来い、って。
来るか来ないかを選ばせる言い方じゃなく、
強制するみたいに。
そこまでしておいて、
ルイはまだ認めていなかった。
何をか。
その理由を。
現在。
ルイはスタジオの壁にもたれながら、ぼんやりと鏡の中を見ていた。
タイキは少し離れたところでアダムと何か話している。
ゴイチはカノンの隣で、何も言わないまま水を飲んでいた。
スタッフの声、音源の確認、床を踏む音。
いつもの練習風景。
なのに、カノンの言葉だけがまだ頭の中に残っている。
なんで、優しくしたの?
ルイは小さく息を吐く。
優しくしたかったわけじゃない。
そう思う。
雑にできなかっただけだ。
あの時、タイキが怒っていたから。
ちゃんと目を合わせて、言葉を返してきたから。
今までみたいに押し切ったら、本当に終わる気がしたから。
だから少しだけ変えた。
そう、自分に言い聞かせる。
でも、その言い訳が薄いことは、自分でもわかっていた。
優しくしたかったわけじゃないなら、
なんであんなに手加減した。
なんで選ばせるような言い方をした。
なんで、最後に肩を抱いた。
ルイはわずかに眉を寄せる。
認めたくない。
そこにある答えを、まだ言葉にしたくない。
好きだから。
そう言ってしまえば簡単だ。
でも、そんな一言で済ませられるなら、
もっと前にまともなやり方ができていたはずだった。
好きなら。
もっと別の触れ方があっただろう。
もっと別の言い方があっただろう。
そう言われたら、何も返せない。
だから認めたくない。
認めた瞬間、自分がしてきたこと全部に、
取り返しのつかない意味がついてしまう気がした。
ルイは自分に苛立つ。
なんで今さらこんなところで立ち止まる。
なんで、タイキに避けられてから気づきかける。
なんで、アダムの隣にいるタイキを見て、あんなに腹が立った。
認めたくないくせに、
感情だけはもうそこまで来ている。
「……最悪」
小さく漏れた独り言は、音源の確認音に紛れて消えた。
少し離れたところで、その様子をカノンが見ていた。
ルイは何も気づいていない。
ただ壁にもたれたまま、いつもより少しだけ黙っている。
その横顔に、カノンはまた胸の奥がざわつく。
さっき自分が言った言葉。
なんで、優しくしたの?
あれがまだルイの中に残っていることを、なんとなく感じる。
その顔を見ていると、
ルイもまた、自分で自分を持て余しているのだとわかる。
カノンは軽く視線を逸らした。
言わなかった。
さっき、自分が詰まった理由を。
ルイの目を見て、何も言えなくなった理由を。
それを、もう少ししたら自分でもちゃんと認めなきゃいけない気がしている。
少し後ろで、ゴイチがそのカノンを見ていた。
何も言わない。
でも、全部見ている。
ルイが少しずつ壊れかけていることも。
カノンがそれを心配しながら、別の感情に触れ始めていることも。
ゴイチは心の中で思う。
(……これもう、時間の問題だな)
誰かが何かを認めるまで。
誰かがちゃんと口にするまで。
もうそんなに遠くない。
そう思いながら、ゴイチは何も言わずにタオルを首にかけ直した。
スタッフの「お願いします!」で、また五人が立ち位置へ戻る。
鏡の中に並んだSTARGLOWは、ちゃんと一つのグループだった。
でもその内側では、
まだ誰も認めきれていない感情が、それぞれ静かに動き始めていた。
練習が終わる頃には、スタジオの空気も少しだけほどけていた。
大型ライブ前の詰め込みで身体は重い。
スタッフの確認もようやく一区切りついて、メンバーたちもそれぞれバッグをまとめ始めている。
タイキはアダムと何か短く話して、それから先にスタジオを出ていった。
ルイはその背中を、見ていないふりで見送る。
それを、カノンは少し離れたところから見ていた。
ルイは今日も表向きは完璧だった。
ちゃんと笑って、ちゃんと返して、スタッフにもメンバーにもいつもの顔を見せていた。
でもカノンには、わかる。
少しだけ静かだ。
少しだけ、空気の外にいる。
「ルイ」
帰り支度を終えたカノンが、何でもない顔で声をかける。
ルイが顔を上げる。
「ん?」
カノンはバッグを肩にかけたまま、軽く首を傾けた。
「一杯、いく?」
その誘い方は軽かった。
ほんとにただ思いついただけ、みたいな温度。
ルイは一瞬だけ目を細める。
でも、断る気配はなかった。
「いいよ」
あっさりそう返す。
カノンは少しだけ笑う。
「やった」
少し離れたところでそのやり取りを見ていたゴイチが、何も言わずにスマホを取り出した。
スタジオを出て、駅へ向かう途中。
カノンのポケットの中でスマホが震える。
取り出して見ると、ゴイチからだった。
“羽目外すなよ”
それだけ。
カノンは思わず吹き出しそうになる。
「何」
隣を歩くルイが横目で聞く。
「いや」
カノンは口元を隠しながら笑う。
「相棒がうるさいだけ」
「ゴイチ?」
「そ」
ルイはそれを聞いて、小さく笑った。
「心配されてんじゃん」
「お前も含めて、だろ」
そう返しながら、カノンはスマホをしまう。
羽目外すなよ。
たったそれだけの文面なのに、ゴイチらしかった。
止めるでもなく、問いただすでもなく。
でもちゃんと見てる。
お前が何をしようとしてるかも、どこまで踏み込むか迷ってることも、たぶん全部。
カノンは小さく息を吐いた。
その“見てる”に、少しだけ救われる。
⸻
入ったのは、駅前から少し外れた焼き鳥屋だった。
カウンターもあるけど、二人は奥の小さなテーブル席に座る。
木の壁にしみついた煙の匂い。
近くの席から聞こえる会社員たちの笑い声。
グラスの氷が当たる音。
賑やかなのに、妙に話しやすい店だった。
メニューを開きながら、カノンが聞く。
「何食いたい?」
ルイはメニューをざっと見て、少し考える。
「焼き鳥」
「雑」
「焼き鳥屋だろ」
「まあそうだけど」
カノンは笑って、適当に串をいくつか頼んだ。
つくね、ねぎま、皮、砂肝。
あとはポテサラとだし巻き。
飲み物は、ルイがハイボールで、カノンはレモンサワー。
注文が通ると、少しだけ間が空く。
店のざわめきが、その沈黙を不自然にしない。
ルイはテーブルの上の箸袋をいじりながら、ふと聞いた。
「カノン」
「ん?」
「なんで今日誘った」
カノンは少し笑う。
「たまにはいいじゃん」
ルイは少し目を細める。
「嘘」
カノンが笑う。
「バレた?」
ルイも少し笑った。
まだ。
本題は出ていない。
でも。
今夜は、ちゃんと話すつもりだった。
そう思っているのは、カノンの方だ。
ルイはそこまで読んでいない。
ただ、信頼している相手に誘われたから、自然に座っているだけ。
「ルイが寂しそうにしてるからかなー」
カノンはレモンサワーのグラスを指先で回しながら、わざと軽いトーンで言う。
「タイキに相手にしてもらえなくて」
ルイの指が、ほんの少し止まる。
でも表情は崩さない。
「そ」
カノンはなんでもない顔で続ける。
「まぁ、だから俺が励まそうかなって」
ちょうど運ばれてきた焼き鳥を一本取る。
もぐ、と食べて、それからまた笑う。
「別に隣にいるのタイキだけじゃなくても良いだろ。俺だって居るし」
カノンスマイル。
軽い。
冗談っぽい。
聞き流そうと思えば流せる言い方。
でも、その一言はルイの胸のどこかに小さく引っかかった。
ルイはグラスを持ち上げながら、カノンを見る。
カノンは平気な顔をしている。
いつもの調子。
明るくて、少し茶化して、でも空気はちゃんと見ている。
だからルイは、そこに別の意味が混ざっていることに気づかない。
「慰め役?」
「そうそう。優秀ポジ」
「自分で言うなよ」
「言うよ。じゃないとルイ気づかなそうだし」
その返しに、ルイは少しだけ笑う。
「何に」
「色々」
カノンはまたはぐらかす。
本当はもう少し踏み込みたい。
でも、今すぐ全部をぶつけるつもりはなかった。
今日はまず、ルイの話を引き出したい。
ルイが何を考えてるのか、どこまで自覚してるのか、それを知りたい。
そのために、まずは軽く崩す。
「で?」
カノンは串を置きながら言う。
「逃げられてる男の今の気分は」
ルイは苦く笑う。
「最悪」
即答だった。
カノンはそこで少しだけ目を細める。
「へぇ」
その“最悪”は、思っていたよりずっと正直だった。
ルイはハイボールを一口飲む。
氷がグラスの中で鳴る。
「避けられてるのはわかる」
低い声。
「でも、何が地雷だったのか全部はわかってない」
カノンは黙って聞く。
「いや、わかってる部分もあるけど」
ルイは言い直す。
「でもそれを言葉にすると、たぶん余計終わる」
その一言に、カノンの胸の奥が小さく動く。
終わる。
そういう単語が、ルイの口から自然に出るくらいには、タイキのことを深く考えてる。
カノンは焼き鳥を一本取りながら、さりげなく聞く。
「ルイってさ」
「ん」
「タイキに、何て思われたいわけ?」
ルイの視線が少しだけ止まる。
「何て、って」
「別に“好かれたい”でも“分かってほしい”でも、“逃げんな”でも何でもいいけど」
カノンはわざと軽く言う。
でも、問い自体はまっすぐだ。
ルイはすぐには答えなかった。
店の賑やかさの中で、その数秒だけが妙に静かになる。
「……わかんない」
やがて、低くそう言う。
カノンは少し驚く。
ごまかすかと思った。
でもルイは、ちゃんとわからないと言った。
「ただ」
ルイはグラスを置いた。
「他のやつの隣で、あんな楽そうな顔してんの見ると腹立つ」
カノンの箸が止まる。
それはかなり本音だった。
ルイは自分で言ってから、少しだけ眉を寄せる。
言いすぎた、みたいな顔。
でももう引っ込めない。
「俺の前じゃしないのに」
小さく続けた声は、少しだけ掠れていた。
カノンはその横顔を見て、胸が痛くなる。
ルイは本当に、自分で自分がわかっていない。
わかっていないまま、ここまで来てしまってる。
「……それ、もうだいぶ重症じゃん」
カノンはあえて笑って返す。
ルイも少し口元を歪める。
「うるさい」
「いやでもほんとに」
カノンは頬杖をついた。
「自覚あるってことはさ、ルイだいぶタイキにやられてるよ」
ルイはそこで視線を上げる。
「やられてるって何」
「そのまんま」
カノンはにやっと笑う。
「気にして、追って、優しくしたら逃げられて、他のやつの隣にいたらイラつく」
指を折って数えるみたいに言う。
「かなり面倒くさい男だよ、今のお前」
ルイは息を吐いた。
「知ってる」
それがまた、妙に素直で。
カノンは笑うしかなくなる。
「知ってるなら早いとこ認めれば?」
「何を」
ルイは聞き返す。
でも、その問いの裏に、薄く逃げる気配がある。
カノンはそれを見て、少しだけ黙った。
好きなんじゃん。
喉元まで出かかる。
でも、言わない。
言ったらたぶん、今夜はそこで終わる。
ルイは笑って流すか、逆に黙るか、そのどっちかだ。
だから今は、まだ言わない。
「……いや、なんでもない」
カノンは軽く首を振る。
ルイが少し不思議そうに見る。
その目が、まただめだった。
無防備で。
信頼していて。
自分には何を言っても大丈夫だと思ってる目。
カノンは一瞬だけ、言葉を失う。
ああ、と思う。
やっぱり自分、ルイのこと気にしてる。
心配とか、面倒見がいいとか、そういうだけじゃないところまで、もう来てる。
でも、それを今ここでどうこうするつもりはない。
少なくとも、今のルイに向けてぶつけるつもりはない。
「何」
ルイが少し笑う。
「さっきから変だぞ」
「変なのはそっち」
「どこが」
「全部」
カノンはそう言って、わざと話を流すようにだし巻きをつついた。
ルイはまだ何か言いたそうだったけれど、結局それ以上は聞かなかった。
その代わり、小さく息を吐いてハイボールを飲む。
少しだけ、肩の力が抜けて見えた。
カノンはその横顔を見ながら、静かに思う。
ルイはまだ認めてない。
でも、かなり近いところまで来てる。
そして自分もまた、別の意味で、もう戻れないところまで来てる気がする。
スマホが机の上で一度だけ震える。
またゴイチかと思って見ると、やっぱりそうだった。
“終電逃すなよ”
カノンは思わず吹き出す。
「何」
ルイが聞く。
「ゴイチが過保護」
そう返すと、ルイは少しだけ笑った。
「いいやつじゃん」
「そうだな」
カノンは小さく呟く。
その言い方に、ルイは何かを感じたみたいだったけど、深くは追わなかった。
店の中は相変わらず賑やかだ。
焼き鳥の匂い。
笑い声。
グラスの音。
その中で、二人のテーブルだけが少しだけ別の熱を持っていた。
まだ本題は全部出ていない。
でも今夜は、確かにルイの中の何かを少し動かしている。
カノンはそれを見届けながら、次にどこまで踏み込むかを静かに考えていた。
焼き鳥を何本か追加した頃には、さっきまでの張った空気も少しだけやわらいでいた。
ルイの話は、そこでいったん途切れた。
カノンもそれ以上は深追いしない。
今夜ここで全部を暴くより、少しだけ呼吸を戻した方がいい。
そんな空気を、二人ともなんとなくわかっていた。
「てかさ」
カノンがレモンサワーを持ち上げながら笑う。
「新曲のサビ前、あれ絶対ライブで跳ねるよね」
ルイがグラスを置く。
「あぁ。あそこ、客席煽り入ったら強い」
「でしょ? あれ、絶対気持ちいいやつ」
「タイキがあそこ上手く空気上げそう」
その名前が出ても、さっきまでみたいな重さはない。
仕事の話の中に混ざると、ちゃんとSTARGLOWの空気になる。
「ゴイチのラップもハマると思うんだよなー」
「わかる。あいつ本番でさらに良くなるタイプだし」
「カノンは?」
「俺?」
「今回、地味に一番おいしいとこ持ってくだろ」
「何その言い方」
「事実」
ルイがそう言って少し笑う。
カノンもつられて笑った。
「いやでも、ほんと今回の曲好きなんだよね」
「うん」
「なんかさ、デビューしてから今の俺らがやる意味ある感じする」
ルイはそれに、すぐには返さなかった。
ハイボールを一口飲んで、少しだけ目を細める。
「あると思う」
低い声。
でも、真っ直ぐだった。
「トレーニーの時だったら、たぶんまだ出せなかった」
「だよね」
カノンが頷く。
「やっと今か、みたいな」
その言葉に、ルイは少しだけ視線を上げた。
やっと今か。
それは曲の話でもあるし、たぶん今の自分たち全体にも当てはまる言葉だった。
「懐かしいよな」
カノンが何気なく言う。
「トレーニーの頃とか、こんなふうにちゃんと“今の自分ら”って感じで曲もらって、ライブ準備してって、想像はしてたけど、実感はなかったし」
「してたけどな」
ルイが短く返す。
「お前はしてそう」
「してた」
「うわ、言い切った」
「してないと無理だろ」
その言い方が妙にルイらしくて、カノンは声を出して笑った。
「そういうとこ、ほんと変わんないよな」
「何が」
「自信あるのかないのか分かんないとこ」
「あるから言ってる」
「はいはい」
くだらないやりとり。
でも、そのくだらなさが心地いい。
カノンもルイも、トレーニー時代から一緒にやってきた。
オーディションの空気も、評価に一喜一憂した夜も、レッスン帰りの疲れた顔も、互いに見てきた。
だからこそ、今こうして肩の力を抜いて話せる。
ルイにとっても、カノンはそういう相手だった。
ルイはそれを、今夜あらためて感じていた。
話題は自然と広がっていく。
新曲の振りの癖。
スタッフの無茶振り。
最近のゴイチの落ち着き方。
アダムの静かな毒舌。
タイキの天然が、最近また変な方向に磨かれてること。
「この前さ」
カノンが笑いながら言う。
「タイキ、“この衣装って家で洗えますか?”って真顔で聞いてて」
ルイが吹き出す。
「やば」
「いや、気持ちはわかるけど」
「誰に聞いたんだよ」
「スタイリストさん」
「最悪」
「しかも聞いたあと、“あ、クリーニングですよね”って自分で回収してた」
「それ余計だろ」
二人で笑う。
店のざわめきに紛れて、その笑い声だけが少し懐かしかった。
ルイは思う。
こういう時間、最近ちゃんと取ってなかったな、と。
タイキのことだけじゃなく。
誰かとこうして、ただグループの話をして、昔の話をして、少しだけくだらないことで笑う時間。
忙しさに押されて、ずっと先送りにしてきた。
カノンはそんなルイの横顔を見ながら、少しだけ安心する。
ちゃんと笑えるんだ、と思う。
少なくとも今は。
タイキのことを頭から消せてるわけじゃないだろうけど、それでも少しだけ、呼吸を取り戻してる顔。
「ルイ」
「ん?」
「今日誘ってよかった」
ルイは一瞬だけ目を止めて、それから少し笑った。
「そうかもな」
その返しが思ったより素直で、カノンは少しだけ胸の奥がくすぐったくなる。
ずるいな、と思う。
こういう時だけ、変に真っ直ぐだから。
店を出る頃には、夜もだいぶ深くなっていた。
外に出ると、焼き鳥屋の煙の匂いが上着に少し残っている。
風が店の中よりずっと冷たい。
「寒」
カノンが肩をすくめる。
「飲んだ後だと余計な」
「風邪引くなよ」
「それ俺に言う?」
「カノン、すぐ油断するだろ」
そう言うルイの声は、さっきよりずっと自然だった。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
夜の街は静かすぎない。
でも、酔った頭にちょうどいいくらいには落ち着いている。
足音が揃う。
信号待ちで止まる。
また少し話す。
「ライブ終わったらさ」
カノンが前を見たまま言う。
「みんなでどっか行きたい」
「どこ」
「温泉とか」
「じじいかよ」
「いやでも、絶対いるでしょそういうタイミング」
「まあ……なくはない」
「タイキ絶対テンション上がるし」
「アダムは静かに楽しむやつ」
「ゴイチは一周して一番楽しみそう」
「わかる」
笑い合う。
こういう未来の話は、いい。
まだ起きていないことなのに、少しだけ本当にできそうな気がするから。
やがてカノンの家が近づいてくる。
駅を越えて、住宅街の方へ少し入ったところ。
街灯の間隔が広くなって、さっきまでより少し静かだ。
分かれ道のところで、二人は自然に足を止めた。
ここでルイは反対方向だ。
いつもなら軽く「じゃあな」で終わるくらいの場所。
でも今夜は、カノンの方に少しだけ間ができる。
ルイがそれに気づいて、首を傾げた。
「何」
カノンは少しだけ視線を逸らして、それからまた戻す。
ほんの一拍。
それくらいの間。
「あのさ」
カノントーンの、何気ない言い方だった。
「うちで飲み直さない?」
何気ない声。
本当に、ただ思いついたみたいな誘い方だった。
ルイは少しだけ黙る。
数秒。
カノンは特に急かさない。
ただ立っている。
それからルイが小さく息を吐いた。
「……いいよ」
カノンが少し笑う。
「マジ?」
ルイが肩をすくめる。
「どうせ帰っても暇だし」
カノンが軽く頷く。
「じゃ、こっち」
二人は分かれ道を曲がる。
少し歩くと、住宅街に入る。
静かな通り。
遠くで犬の鳴き声。
カノンの家はすぐだった。
マンションのエントランス。
オートロックを開ける。
「どうぞ」
ルイが軽く頷く。
エレベーター。
短い沈黙。
カノンは特に何も言わない。
ただ、いつもの顔。
部屋の前。
ガチャ、とドアが開く。
「適当に座って」
カノンは靴を脱ぎながら言う。
ルイも靴を脱ぐ。
部屋の中は、思ったよりシンプルだった。
ソファ。
ローテーブル。
スピーカー。
壁に立てかけられたギター。
生活感はあるのに、散らかってはいない。
カノンらしい、無駄の少ない部屋だった。
カノンが冷蔵庫を開ける。
「ビールでいい?」
ルイはソファに腰を下ろす。
「あぁ」
カノンが二本持ってくる。
テーブルに置く。
プシュ、と缶を開ける音。
「乾杯」
軽く缶を合わせる。
一口。
部屋には小さく音楽が流れている。
カノンがスピーカーの音量を少し上げた。
落ち着いた曲だった。
ルイは部屋を少し見回す。
「……いい部屋」
カノンが笑う。
「でしょ」
ソファの反対側に座る。
少し沈黙。
でも、気まずくない。
カノンがビールを一口飲んでから言う。
「で」
軽くルイを見る。
「さっきの続きだけど」
少し笑う。
「ルイ」
間。
「なんで優しくしたの?」
まさかの質問に、ルイの胸が小さく跳ねた。
「また、その話かよ」
思わずそう溢し、缶に口をつける。
カノンはその横顔を見て、心の中で思う。
(あ、逃げようとしてる)
ルイは喉を鳴らしてビールを飲み込む。
でも、カノンの視線からは逸れたままだ。
「今、逃げようとしたでしょ」
くすっと笑いながら言うと、ルイは缶を置いて低く返した。
「うるせぇ」
その言い方は、いつもの軽い返しに似ている。
でも、少しだけ本気が混じっていた。
カノンはソファの背にもたれたまま、口角を上げる。
「大事な話だろ」
それから、少しだけ身体を傾けてルイの顔を覗く。
「どう見ても、悩んでる顔してる」
ルイはその視線を受けて、少しだけ目を細めた。
「なんで悩んでるってわかったんだよ」
ボソッと落ちた疑問。
カノンは一度、目を瞬かせる。
ほんの一拍、間を置く。
それから、あまり構えずに言った。
「それは、俺が」
少しだけ肩をすくめる。
「ちゃんとルイを見てたからじゃないかな」
カノンスマイル。
ルイはそこで、ほんの少しだけ動きを止めた。
その言葉の意味を深く取る前に、まず先に届いたのは、妙な静けさだった。
冗談みたいに笑っているくせに、カノンの目だけはぶれていない。
ルイは缶を持ったまま、少しだけ視線を落とす。
「……見られてんの、気づかなかった」
「そういうとこあるよね、ルイ」
「何が」
「人のことは見てるくせに、自分のこと見てるやつには鈍い」
その返しに、ルイは少しだけ苦く笑った。
「悪かったな」
「別に責めてない」
カノンはそう言って、またビールを飲む。
でも視線はまだルイから外れていなかった。
部屋の中に流れる音楽が、二人の沈黙を薄く埋める。
外は静かで、時々車の走る音だけが遠くを過ぎていく。
ルイは小さく息を吐いた。
「優しくした理由なんて」
低い声。
「俺が知りたいくらいだよ」
カノンは黙って聞く。
ルイは続ける。
「いや、理由はあるんだと思う」
缶の表面についた水滴を親指でなぞる。
「でも、言葉にしたら終わる気がしてる」
「何が」
「色々」
その曖昧な言い方に、カノンは少しだけ眉を上げる。
「便利な言葉だよね、“色々”って」
ルイが小さく笑う。
「お前もよく使うだろ」
「使うけど、今は俺の話じゃないし」
軽く返してから、カノンはほんの少しだけ真面目な声になる。
「タイキのことになると、お前さ」
そこで言葉を切る。
ルイが目だけで続きを促す。
「ちゃんと怖がってるよね」
その一言で、ルイの喉がわずかに動いた。
否定が、すぐに出てこない。
カノンはその反応を見て、静かに続ける。
「失うのが怖いとか」
「嫌われるのが怖いとか」
「自分が何思ってるか認めるのが怖いとか」
一つずつ並べるたび、ルイの表情がほんの少しずつ静かになる。
逃げない。
でも、受け止めきれてもいない。
「……お前、今日やけに鋭いな」
ようやくルイが言う。
カノンは笑った。
「今日だけじゃないだろ」
「ただ、今日はちゃんと聞く気なだけ」
その言い方に、ルイはまた少し黙る。
信頼している相手に見透かされるのは、思っていたよりずっと落ち着かなかった。
なのに、完全に嫌なわけでもない。
それが余計に面倒だった。
「優しくしたら逃げられた」
ルイがぽつりと呟く。
「それ、まだ引っかかってんだ」
「引っかかるだろ」
少しだけムキになるみたいに返す声。
それが妙にルイらしくて、カノンは小さく笑う。
「だって、今までと違うことしたのに」
ルイは言う。
「それで余計距離取られたら、そりゃ引っかかる」
カノンはそこで少しだけ顔を傾けた。
「でもさ」
「ん?」
「タイキって、優しくされたから逃げたんじゃないの」
ルイの視線が上がる。
カノンはその目を受けながら、静かに言った。
「優しくされた意味、考え始めたから逃げたんじゃない?」
部屋の空気が、少しだけ変わる。
ルイは何も言わない。
でも、缶を持つ指先がわずかに止まる。
カノンは続けない。
そこから先は、ルイが自分で飲み込むしかない話だから。
数秒、沈黙。
それからルイが低く言う。
「……それ、余計面倒だな」
「でしょ?」
「笑い事じゃねぇ」
「笑ってないとやってられないだろ」
その返しに、ルイは少しだけ息を吐いた。
笑ったわけじゃない。
でも、さっきより少し肩の力が抜ける。
カノンはそんなルイを見ながら思う。
この人、ほんとに一歩手前なんだな、と。
ほとんど答えは見えてる。
なのに、まだそこに触れない。
触れたら全部変わると、どこかでわかってるから。
「ルイ」
「ん」
「俺、さっき言ったの冗談じゃないよ」
ルイが目を向ける。
カノンは、少しだけ笑ったまま言う。
「別に隣にいるの、タイキだけじゃなくてもいいだろって話」
軽いトーン。
でも今回は、ほんの少しだけ本気が混じっていた。
ルイはそこに気づかない。
ただ、不思議そうに目を細めるだけだ。
「励まし役ってこと?」
「まあ、それもある」
カノンはわざとそこを濁す。
「ルイ、放っとくと一人で拗らせるし」
「うるさい」
「事実でしょ」
ルイは缶を持ち直して、少しだけ笑った。
その笑いを見て、カノンは胸の奥がまた小さくざわつく。
でも今は、それを口にはしない。
まだ早い。
少なくとも、今夜は。
今夜はルイの夜だ。
ルイが自分の中の何かと向き合うための。
だからカノンは、そこに余計な形を与えない。
「でも」
カノンはソファに少し深く座り直す。
「俺、ちゃんとルイの味方でもあるから」
ルイが、ほんの少しだけ目を止める。
その一瞬だけ、いつもの余裕が少し薄れた。
「……知ってる」
小さく返ってくる。
その二文字が、思っていたより真っ直ぐで。
カノンは少しだけ、困るみたいに笑った。
ゴイチの部屋は、風呂上がりの熱がまだ少し残っていた。
髪を半分乾かしたまま、ソファに腰を下ろす。
テーブルの上に置いたスマホを何気なく手に取って、LINEを開く。
カノン。
既読はついている。
でも、返事は来ていない。
ゴイチはその画面を数秒見たまま、小さく息を吐いた。
(大丈夫だろうな……あいつ)
別に、カノンが誰かと飲みに行くのが珍しいわけじゃない。
ルイ相手ならなおさら、変な心配をする組み合わせでもない。
それでも今日は、少しだけ気になった。
スタジオでのカノンの目。
ルイを見ていた時の、あの静かな引っかかり。
自分ではまだ言葉にしていないくせに、たぶんもう、気づきかけている顔。
ゴイチはスマホを膝の上に置いた。
まあ、明日スタジオ午後からだしな。
返事来るまで起きてるか。
そう思って、リモコンを手に取る。
テレビをつけると、バラエティ番組の明るい音が部屋に流れた。
でも、視線は時々またスマホへ戻る。
⸻
カノンの部屋。
音楽が静かに流れている。
ローテーブルの上。
空いた焼き鳥のパック。
ビールの缶。
少しだけずれた箸袋。
ルイはソファの背にもたれたまま、缶を指で軽く回していた。
カノンの言葉が、まだ頭に残っている。
——ちゃんとルイを見てたからじゃないかな
ルイは小さく息を吐いた。
(……ちゃんと見てた、ね)
少しだけ苦笑する。
ルイは自分のことを話すタイプじゃない。
それは自分でも分かっている。
だから。
誰かにこうやって言われると、少し居心地が悪い。
でも。
嫌ではなかった。
ルイはビールを一口飲む。
それから、ぼそっと言う。
「……カノン」
カノンが「ん?」と顔を上げる。
ルイは視線をテーブルに落としたまま言う。
「さっきの話」
少し間。
「優しくした理由」
カノンは何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
ルイは少しだけ顔をしかめた。
「正直」
小さく笑う。
「わかんねぇ」
カノンの目が少し動く。
ルイは続ける。
「たださ」
ビールの缶を軽く揺らす。
「いつもなら」
少し間。
「そのまま続けてた」
カノンは黙っている。
ルイは言葉を探すみたいに少し間を置いた。
それから言う。
「でもあの日」
目を細める。
「なんか」
短く息を吐く。
「……止めたくなった」
カノンはその言葉を静かに受け止める。
ルイは続ける。
「で」
小さく笑う。
「次の日」
視線が少し遠くなる。
「タイキがモデルと笑ってて」
ビールを一口飲む。
それから低く言う。
「……腹立った」
カノンは少しだけ口角を上げる。
でも何も言わない。
ルイはソファに背中を預ける。
天井を見る。
「意味わかんねぇだろ」
少し笑う。
自嘲気味に。
「俺もわかんねぇ」
部屋に音楽だけが流れる。
ルイは目を閉じる。
それから、ぽつりと漏らした。
「……あいつが」
少し間。
「アダムといるのも」
声が少し低くなる。
「なんかムカつく」
ルイはその言葉を言ったあと、少し黙った。
それが何を意味するのか。
分かりかけているから。
でも。
まだ、はっきりとは言葉にしなかった。
カノンはそんなルイを見たまま、グラスじゃなく缶を持ち上げる。
一口だけ飲んで、それから静かに言った。
「じゃあ、質問、変えようかな」
ルイが目を開ける。
カノンは少しだけ首を傾ける。
「ルイが優しくした時に、タイキはどんな反応だったの?」
その問いに、ルイは一瞬だけ眉を寄せた。
「……驚いてた」
低く返す。
「戸惑ってた。で、そのまま逃げた」
カノンは頷く。
「うん」
「それが?」
ルイが聞く。
カノンはすぐには答えない。
ルイの顔を見て、言葉を選ぶみたいに少しだけ間を置く。
「それを見て、ルイはどう思った?」
ルイは缶を持ったまま黙る。
カノンは続ける。
「よく、考えてみて」
その言い方は柔らかい。
でも、逃がさない問い方だった。
ルイは目を伏せる。
どう思った。
腹が立った。
それは本当だ。
なんでそこで逃げるんだよ、と思った。
せっかく少しだけ変えたのに。
こっちは今までと違うつもりだったのに。
でも、それだけじゃない。
ルイの喉が小さく動く。
「……わかんねぇ」
最初に出たのは、またその言葉だった。
カノンは責めない。
ただ待つ。
沈黙が落ちる。
音楽の低いベースだけが、部屋の空気を薄く揺らしていた。
ルイは缶をテーブルに置く。
金属が木に触れる、小さな音。
「逃げたの見て」
そこまで言って、少し口を閉じる。
何かに触れそうで、わずかに躊躇うみたいに。
「……焦った」
ようやく落ちた声は、思っていたより低かった。
カノンの目が少し動く。
ルイは続ける。
「なんで逃げんのか、意味わかんなかったし」
「腹も立ったし」
「でも」
そこでもう一度止まる。
カノンはまだ何も言わない。
ルイは唇の端を少しだけ噛んで、それから吐き出すように言った。
「そのまま、本当に来なくなる気がした」
その一言で、部屋の空気が少し変わる。
カノンはそれを聞いて、わずかに息を止めた。
ルイは視線を上げない。
「今までは、来いって言えば来たから」
低い声のまま、続ける。
「呼べば来るし、来たら帰るまでそこにいるし」
「それが当たり前みたいになってた」
自分で言いながら、その歪さを今さら飲み込むみたいに、ルイの眉が寄る。
「でも、あの日は違った」
少しだけ声が掠れる。
「俺が少し変えたら、逃げた」
そこでようやく、ルイは小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「意味わかんねぇだろ」
カノンは首を横に振る。
「わかるよ」
ルイがそこで初めて、まっすぐカノンを見る。
カノンはその視線を受けたまま、静かに言う。
「ルイさ」
「ん」
「それ、逃げたことに腹立ったんじゃなくて」
少し間。
「失うかもって思って怖かったんじゃないの」
ルイの表情が、ほんの少しだけ止まる。
その沈黙だけで、カノンには十分だった。
図星を突かれた時の顔。
いつもみたいに、すぐ言い返してこない。
笑って流すこともしない。
ただ、言葉の置き場をなくしたみたいに黙る。
ルイはゆっくりと背もたれに頭を預けた。
「……怖い、とか」
ぽつりと落ちた声。
「そういうの、俺っぽくねぇだろ」
カノンは少し笑う。
「いや、結構ぽい」
「どこが」
「見えないだけで、そういうとこある」
ルイは鼻で笑うように息を吐く。
でも否定はしない。
カノンはその横顔を見ながら、静かに続ける。
「ルイって、自分が欲しいものほど雑に扱うとこあるよね」
ルイの目が、わずかに細くなる。
「悪口?」
「分析」
「ひでぇ分析」
「でも外してないでしょ」
その問いに、ルイは答えなかった。
答えないこと自体が、答えみたいなものだった。
カノンはビールを飲む。
少しだけ喉を鳴らしてから、また言う。
「タイキが逃げたのって、優しくされたからだと思うよ」
ルイが視線だけを向ける。
「いつもと違ったから」
「意味を考え始めたから」
「だから逃げた」
カノンはそこで少しだけ笑った。
「逆に言えば、ルイの優しさ、ちゃんと効いてたんじゃない?」
ルイは何も言わない。
でも、その言葉を完全には否定できていない顔をしていた。
しばらく沈黙。
やがてルイが、低く呟く。
「……効いてたなら」
少し間。
「なんでアダムの方行くんだよ」
その言い方が、あまりにも素直で。
カノンは思わず小さく息を漏らした。
「それは」
言いかけて、少しだけ目を細める。
「タイキが今、ルイのとこに行くのしんどいからでしょ」
ルイはまた黙る。
カノンはそこへ、さらに柔らかく言葉を置いた。
「でも、しんどいってことはさ」
「何とも思ってない相手じゃないってことでもあるよ」
ルイの指先が、空いた缶の縁を軽くなぞる。
思っている。
その可能性は、もう何度も浮かんでいる。
でも、そこに希望を持つには、ルイは自分のしてきたことを知りすぎていた。
「……勘違いしたくない」
不意に、ルイが小さく言う。
カノンが少しだけ目を見開く。
ルイは視線を落としたまま、続けた。
「俺に都合いい方に考えたくない」
その言葉は、ルイにしては珍しくまっすぐだった。
カノンはそれを聞いて、ほんの少しだけ胸が痛くなる。
この人、ちゃんと分かってるんだ。
自分が何をしてきたかも。
その上で、まだ答えを口にできないことも。
「じゃあ」
カノンは少しだけ身体を寄せる。
「都合いい方じゃなくて、ちゃんと聞けばいいじゃん」
ルイは苦く笑った。
「今の俺が聞いたら、また逃げられるだろ」
「それは」
カノンはそこで少しだけ言葉を選ぶ。
「今のままだと、そうかもね」
ルイが小さく眉を寄せる。
「でも」
カノンはその先を、あえて軽くした。
「まずは自分が何思ってるかくらい、自分で認めないと始まんないんじゃない?」
その言い方に、ルイはまた黙った。
部屋の中の音楽がちょうどサビに入る。
穏やかなメロディが、今の沈黙には似合わないくらい綺麗だった。
ルイは天井を見たまま、小さく息を吐く。
「……めんどくさ」
またそれだ。
カノンは笑う。
「それもう答え出かけた時の口癖じゃん」
「違う」
「違わない」
ルイが少しだけ笑う。
本当に少しだけ。
その笑いを見ながら、カノンは思う。
今夜、ここまで来たなら。
ルイはたぶん、もう自覚の一歩手前にいる。
でも、まだそこで止まっている。
怖いから。
認めたら戻れなくなるとわかっているから。
その臆病さが、少しだけ愛おしいと思ってしまう自分に、カノンはまた何も言わなかった。
ただ、もう一口ビールを飲んで、ルイの横顔を静かに見ていた。
(俺、優しすぎ)
カノンは心の中でそう思う。
ルイの話を聞いて。
問いを変えて。
答えの手前まで連れていって。
それでもまだ、自分の本音は飲み込んでいる。
でも。
それでいいとも思っていた。
少なくとも、今までは。
部屋の中には音楽が静かに流れている。
ローテーブルの上には、空いた焼き鳥のパックと、飲みかけのビール缶。
ルイはソファの背にもたれたまま、缶を指先で軽く回していた。
黙っている。
考えているのか。
考えないようにしているのか。
そのどちらかも、今のカノンには分からなかった。
カノンは少しだけ身体を前に出す。
膝の上で手を組む。
「ルイがさ……」
少し声が掠れる。
ルイが顔を上げる。
「その気持ち認めないなら」
カノンはそのまま、まっすぐルイの方に顔を向けた。
ルイがカノンを見る。
また、なんの疑いもない目で。
その目が、今夜は少しだけ痛い。
「俺、ルイの隣」
少し間。
「本気で取りに行くけど」
視線を逸らさずに言う。
「どうする?」
そのトーンは、いつものカノントーンじゃなかった。
軽くもない。
茶化してもいない。
逃げ道を残さない、まっすぐな声。
ルイが固まる。
ビールの缶を持った手、そのまま止まる。
肩も、呼吸も、ほんの一瞬だけ凍るみたいに。
「……」
数秒。
部屋には音楽だけが流れている。
ルイはゆっくり顔を上げた。
カノンを見る。
カノンの視線は、真っ直ぐだった。
逃げない。
揺れない。
「……お前」
ルイの喉が少し動く。
言葉を探すみたいに。
「それって……」
その先が出ない。
でも、意味は分かっている。
カノンは何も言わない。
ただ、ルイを見ている。
目を逸らさない。
ルイも、その視線から逃げられない。
逃げたら、たぶん全部変わる。
分かっているから。
ルイは目を細める。
胸の奥がざわつく。
さっきまでとは違う種類のざわつき。
タイキの時とは違う。
でも、軽くはない。
「……マジかよ」
ようやく落ちた声は、少し掠れていた。
カノンはまだ何も言わない。
ただ、ルイを見ている。
その真っ直ぐな目。
いつものカノンじゃない。
ふざけてない。
逃げてない。
ルイはその視線を受け止めたまま、ぼそっと言う。
「……お前」
少し間。
「そんな顔」
眉を寄せる。
「初めて見た」
カノンは小さく息を吐いた。
それでも、視線は外さない。
今は、冗談に戻るつもりはなかった。
「まぁ」
少しだけ口元を上げる。
「本気だし」
そう言って、カノンは少しだけルイに顔を寄せた。
ピクッと、ルイの肩が動く。
(この空気は……)
カノンは顔をわずかに傾ける。
瞼を少しだけ伏せて、ゆっくり近づく。
近い。
ルイは動けない。
止めるのか。
受けるのか。
自分でもわからないまま、その一瞬だけ身体が固まる。
カノンの呼吸が触れる距離。
そこで。
ルイの頭に、はっきりと顔が浮かぶ。
(タイキ)
その瞬間、ルイははっとした。
心臓が一度、強く鳴る。
次の瞬間には、ルイの手が動いていた。
カノンの両肩を、優しく押す。
強くじゃない。
拒絶だと分かるくらい、でも傷つけない力で。
「ごめん」
低い声。
ルイは口元を手の甲で押さえたまま、カノンから顔を逸らす。
目を瞬かせるカノン。
「……」
それから、ゆっくりと優しく笑った。
「気付いちゃった?」
その一言に、ルイの肩がわずかに揺れる。
カノンはスッと身体を離す。
なんでもない顔でビール缶を手に取る。
もう、きちんといつものカノンに戻っていた。
軽くて、柔らかくて、さっきの緊張なんて最初からなかったみたいな顔。
でも、その切り替えができるくらいには、カノンは最初から分かっていたのかもしれない。
(惜しかったな……)
そんなことを、カノンは心の中で思う。
惜しい、の意味は、自分でもまだ全部整理できていない。
ルイを試したかったわけじゃない。
奪いたかったのも本当。
でも同時に、はっきりさせたかった。
ルイの中に、誰がいるのかを。
その答えは、今、ちゃんと出た。
ルイはまだ口元を押さえたまま、しばらく何も言えないでいた。
さっきまで、自分でも認めきれずにいたものが、今のであまりにもはっきりしてしまったから。
タイキ。
近づかれた瞬間に浮かんだ顔。
躊躇いもなく、反射みたいに出てきた名前。
それが全部だった。
カノンは缶を傾けながら、平然とした声で言う。
「大丈夫だよ」
ルイが少しだけ顔を向ける。
カノンは笑ったまま続ける。
「別に今、答え合わせしたかっただけだし」
「……お前」
ルイがようやく声を出す。
でも続かない。
カノンは肩をすくめた。
「責めてないって」
その言い方が、余計に優しい。
ルイはそこで目を伏せた。
今夜ずっと、カノンに付き合ってもらっていたつもりだった。
少し話を聞いてもらって、気を紛らわせてもらって、それだけのつもりで。
でも気づけば、自分の方がずっと見抜かれていた。
そして今、逃げようのない形で突きつけられた。
「……最悪」
ルイが小さく呟く。
カノンはそれを聞いて、少しだけ笑う。
「ようやく?」
その問いに、ルイは返事をしない。
返事の代わりに、深く息を吐く。
認めたくない。
でも、もう誤魔化せない。
カノンはそれ以上、追い詰めなかった。
「ほら」
空いた缶を振る。
「飲み直しに誘ったの、別に口説くためだけじゃないし」
「だけじゃない、って何だよ」
ルイが低く返すと、カノンはにやっと笑う。
「そこ拾う余裕あるなら平気そうじゃん」
その軽さに、ルイはようやく少しだけ苦く笑った。
張り詰めていた空気が、そこでほんの少しだけほどける。
でももう、さっきまでとは違う。
ルイの中では、はっきりと一つの顔が浮かんでしまった。
近づかれた瞬間に、条件反射みたいに。
それはもう、執着とか独占欲とか、そういう言い換えでは逃げられないところに来ていた。
カノンはそんなルイを見ながら、ビールを一口飲む。
少しだけ胸は痛い。
でも、それ以上に思う。
よかった。
やっと気づいた。
そう思える自分がいることにも、カノンは少しだけ笑いたくなった。
「さーて」
カノンは軽く伸びをした。
それから、手にしていたビールの缶を傾ける。
残っていた一口を飲み干して、喉を鳴らす。
「気付いちゃったなら」
空いた缶をローテーブルに置く。
「あとはお家でひとり考えなさいな」
軽い言い方。
いつものカノントーン。
わざと、そうしているのが分かる。
そう言って、カノンはソファから立ち上がった。
空いた缶。
皿。
箸袋。
テーブルの上を手際よく片付け始める。
いつもの動き。
いつもの空気。
さっきまでの張りつめた空気を、無理に残さないように。
これ以上ルイを追い込まないように。
ルイはソファに座ったまま、その背中を見ていた。
何も言えない。
頭の中はまだ、さっきのままだった。
カノンが近づいた瞬間。
呼吸が触れそうな距離。
そこで、はっきり浮かんだ顔。
(タイキ)
ルイは小さく息を吐く。
カノンはテーブルを拭きながら振り返った。
「な」
短く言う。
そして、ルイに優しく微笑んだ。
責めない笑顔。
いつものカノンの笑顔。
でも。
その優しさが、少しだけ胸に刺さる。
ルイは視線を落とした。
何も言えない。
カノンはそれ以上何も言わない。
ただ、流しに皿を置いて、手を拭いてから、軽く顎で玄関を示す。
「玄関こっち」
それだけだった。
⸻
「おつかれ〜」
玄関で、カノンが軽く手を上げる。
ルイは靴を履き終えて、ドアノブに手をかけた。
そのまま出ていくかと思った。
でも。
ドアを開けたところで、ルイが止まる。
少しだけ振り返る。
「カノン」
カノンが首を傾ける。
「んー?」
ルイは一瞬だけ目を逸らした。
それから、ぼそっと言う。
「話、聞いてくれて」
小さく息を吐く。
「ありがとな」
カノンは一瞬だけ目を瞬かせた。
ほんの少しだけ、素の顔になる。
でも、すぐにいつもの顔に戻る。
「はいはい」
軽く手をひらひら振る。
「行った行った」
ルイは小さく笑って、外に出る。
カノンはその背中を見送る。
ルイが背を向けたのを確認してから、静かに扉を閉めた。
カチャ。
鍵の音。
玄関の静けさ。
カノンはそのまま、扉に背中を預けた。
「……はぁ」
深く息を吐く。
胸の奥が、少しだけ重い。
自分で踏み込んで。
自分で引いて。
自分で答えを見た。
傷ついていないわけがない。
でも、不思議と嫌な重さじゃなかった。
ちゃんと区切れたわけじゃない。
諦められたわけでもない。
それでも、今夜言うべきことは言えた気がした。
カノンはゆっくりと玄関から離れ、ソファへ戻る。
部屋にはまだ、さっきまで流していた音楽が小さく残っている。
ローテーブルの上はもう片づいていて、ルイがいた痕跡だけが、空気の中に薄く残っていた。
その時。
テーブルの上のスマホが光った。
LINEの通知。
「?」
手に取って、画面を開く。
ゴイチ
“カノン、大丈夫か”
カノンは少し目を瞬かせた。
時計を見る。
23時を少し過ぎた頃。
「……アイツ」
小さく呟く。
「まだ起きてたのかよ」
思わず、ふっと笑う。
さっきまで、胸の奥には少し寂しさが残っていたはずだった。
でも。
その一行。
たったそれだけの言葉。
説明もない。
詮索もない。
ただ、大丈夫か、だけ。
不思議と胸の奥が少し温かくなる。
カノンはソファに深く座り直す。
スマホを見たまま、小さく息を吐いた。
ゴイチはたぶん、全部は聞かない。
でも、気づいている。
自分が今夜ルイを誘ったことも。
その意味が、ただの飲みじゃないことも。
そのうえで、余計なことは言わずにこの一文だけ送ってくる。
それが、いかにもゴイチだった。
カノンは親指で返信欄を開く。
少しだけ考えてから、短く打つ。
“大丈夫。ありがとな”
送信する前に、ほんの少しだけ笑う。
「……ほんと、相棒すぎ」
小さくそう呟いて、送る。
メッセージが飛ぶ。
既読がつくかはまだ分からない。
でも、たぶんゴイチは起きている。
返事が来ても来なくても、それだけで十分な気もした。
カノンはスマホを胸の上に置いて、ソファの背にもたれる。
さっきまでの夜を思い返す。
ルイの動揺した顔。
「ごめん」と言った時の声。
タイキの名前が、言葉にしなくてもそこにあった瞬間。
少し痛い。
でも、ちゃんと見届けられてよかったとも思う。
そしてその痛みの奥で、別の温度が静かに灯っている。
“大丈夫か”
その一言だけで、少しだけ救われる自分がいることに。
カノンは目を閉じた。
部屋の中に流れる音楽は、もうほとんど終わりかけていた。
その静かな余韻の中で、カノンはもう一度だけスマホを見た。
画面の中の短い一文が、まだ少しだけあたたかかった。
コメント
1件
うわ、もうめっちゃ引き込まれて読んじゃいました……。カノンがルイにストレートに「なんで優しくしたの?」って問いかけるところ、本当に心臓に響きましたね。そしてその後のルイの「逃げられてるだけ」って告白、あれがもう全てを物語ってる感じがして切なかったです。タイキが逃げた理由をルイ自身も認めきれずにいるもどかしさが、すごくリアルで苦しくて。でも最後にカノンがルイに「俺、本気で取りに行くけど」って言った瞬間、私までドキドキしてしまいました……!