ヴェルディアに来て、もう二週間が過ぎていた。 最初は酒場での情報収集だったはずが―― 今では、町の路地に小さな看板が立っていた。
「アイリスの風パイ屋」
「果実パイ、焼きたてです! 渋み少なめ、芯は甘め、味は抜群!」
私は、笑顔でパイを並べながら声を張った。
「アイリスさん、今日のパイ、昨日より甘いですね」
「名前を呼びながら食べると、もっと美味しいって本当だった!」
町の人々は、笑いながらパイを買いに来てくれた。 風は、パイの香りに乗って、路地の隅々まで届いていた。
そのとき――酒場の扉が勢いよく開いた。
「アイリスーーーーー!!」
その声に、私はパイ皿をひっくり返しそうになった。
「ミラさん!? どうしてここに…?」
冒険者ギルドの受付でおなじみのミラさんが、腰に手を当てて立っていた。
「どうして、じゃないわよ! 別の目的で向かったはずのあなたが、パイ屋を開いてるって聞いて、心配になって来たの!」
名が食いすぎてみんなを心配させちゃったみたい。
私は、少しだけ照れながら言った。
「でも、風が通ってきたんです。 名前を呼び合うようになって、空気が柔らかくなって… それで、パイを焼いたら、もっと風が広がって」
ミラさんは、深いため息をついた。
「あなたって、本当に“空気係”なのね。 でも、任務はどうなってるの?」
「ちゃんと進んでますよ。 町の人たちから、王族への不信の声も聞いてます。 でも、その声も、パイを食べながらなら、少しだけ柔らかくなるんです」
ミラさんは、パイを一つ手に取って、かじった。
「…くっ、悔しいけど美味しいわ。 芯の甘みが、ちょっと泣きそうになるくらい優しい。私、一人で来たから心細かったのよね」
泣きそうと言いながら涙を拭くミラ。なんだか悪いことしたな~。
でも、自慢のパイなので私は、胸を張って笑いながら言う。
「それが、風の味です」
ミラさんは、肩をすくめながら言った。
「じゃあ、もう少しだけ様子を見るわ。 でも、王宮に“パイ屋を開いた”って報告するのは、私じゃなくてあなただからね」
「はい。 “風通しのために、パイを焼きました”って書きます」
その日、酒場の空気はさらに柔らかくなった。 ミラさんの呆れた声も、町の笑い声に混ざって、風になっていた。
ヴェルディアの路地に、今日も人だかりができていた。 「アイリスのパイ屋」は、町の新しい名物になっていた。
「今日のパイ、ほんのりシナモンですね!」
「みんなで食べると、なんか元気出る!」
私は、焼きたてのパイを並べながら、笑顔で応えていた。
そのとき――路地の奥から、黒塗りの馬車がゆっくりと近づいてきた。
馬車の窓から、金の刺繍の服を着た男が顔を出した。
「なんだ、この騒ぎは…路地が騒がしいと、昼寝もできん」
馬車が止まり、男が降りてきた。 ヴェルディアの貴族、ラドラン卿。 町では“金の舌”と呼ばれ、何かと金をせびることで有名だった。
「君が…この騒ぎの主か?」
ラドラン卿は、私を見下ろすように言った。
「はい。アイリスと申します。 風通しのために、パイを焼いております」
「風通し? ふん、くだらん。 だが、これだけ人が集まるなら――税を払ってもらおうか。 この路地は、私の家の裏通りだ。 空気代として、金を払ってもらう」
私は、パイ皿をそっと置いて、にっこりと微笑んだ。
「お金ですか? それなら、風の味を確認してからにしましょう」
「味? 何を言ってる」
「このパイ、芯に甘みがあります。 でも、渋みも少し残してあります。 それが、風の味です」
私は、パイを一つ差し出した。
「ラドラン卿、どうぞ。 風通しの確認です」
彼は、しぶしぶパイを受け取り、一口かじった。
「…む、甘い。だが、後味に…妙な優しさが」
「それが、このパイの味です。 この路地では、誰もが名前を呼び合い、笑い合っています」
ラドラン卿は、しばらく黙っていた。
でも、周囲の人々が笑いながら名前を呼び合う様子を見て、顔をしかめた。
「くだらん…だが、妙に腹が落ち着く。 …税は、今回は見逃してやる。 だが、次は“貴族向けのパイ”を用意しておけ」
私は、深く一礼した。
「はい。渋み多め、見栄え重視、でも芯は甘く―― そんなパイを焼いておきます」
ラドラン卿は、馬車に乗り込みながら言った。
「君の風、妙に腹に残るな。 …気に入らんが、忘れられん」
その言葉に、私はふっと笑った。
「それが、風の焼き直しです」
その日、パイ屋の空気は少しだけ揺れた。 渋みのある貴族も、風に触れれば、少しだけ柔らかくなる。
ラドラン卿が来て少し経ったある日。
再び彼がパイ屋に現れたのは、数日後の午後だった。 今回は、馬車ではなく、少しだけ控えめな身なりで。
「アイリス。貴族の集まりがある。 君のパイが、妙に話題になっていてな。 “風の味”とやらを、他の者にも食わせてみたい」
私は、少し驚きながらも微笑んだ。
「貴族の集まり…ですか? 私、王宮では紅茶係でしたけど、貴族の場は初めてです」
「ふん、紅茶係でもパイ係でも構わん。 君の風が、あの重たい空気を揺らすかもしれん」
その夜、私はギルドの仲間たちと相談した。
「貴族の集まりに行くことになりました。 でも、パイを焼いて持っていくって…変ですか?」
エマは、地図を畳みながら言った。
「風は、道を選ばない。 君のパイが、その道になるなら、焼けばいいさね」
ルカは、果実を選びながら言った。
「じゃあ、芯が甘くて、見た目が華やかな果実を使いましょう。 “貴族向け”ってやつです」
カイは、剣を磨きながら笑った。
「君がパイで空気を変えるなら、俺は皿を洗うよ。剣士である意味はないけどね」
そして、私はパイを焼いた。 渋みを少し残し、芯に優しさを込め、見た目は金色に輝く果実パイ。 名付けて――「風の輪パイ」
貴族の集まりは、ラドラン卿の屋敷で開かれた。 絹のカーテン、銀の食器、重たい香水の空気―― でも、その中に、私のパイが並べられた。なんだか不思議な気分。
「これが、噂の“風の味”か」
「このパイを食べる時にはルールがあるらしい。名前を呼び合うんだ。そうすると甘くなるらしいぞ」
私は、少し緊張しながら言った。
「皆さま、どうぞ。 渋みと甘みを感じてください。ルールと言って縛ると緊張してしまいますので友達と食べるように気さくな気分でお楽しみください」
貴族たちは、半信半疑でパイを口にした。 そして――
「…む。芯が、妙に優しい」
「見た目よりも、後味が深いな」
「これ、誰が焼いたんだ?」
ラドラン卿が、少し得意げに言った。
「アイリスだ。 毒を食べたこともある、風の案内人だそうだ」
私は、少しだけ頭を下げた。毒の事は誰に聞いたんだろう。後でみんなに聞かないと。
「毒の渋みを知っているからこそ、甘みを大切にしています。 それが、風の焼き方です」
その言葉に、貴族たちは静かになった。 そして、誰かがぽつりと言った。
「…名前で呼び合うのも、悪くないかもしれんな」
その夜、絹のカーテンがふわりと揺れた。 重たい空気の中に、風が通った瞬間だった。
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