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貴族の集まりから数日後、私は再びラドラン卿の屋敷に招かれた。 今回は、少し格式の高い茶会。 果実パイはすっかり定番になり、私の焼いた「風の輪パイ」は銀皿に乗せられていた。
「アイリス殿。今日のパイも見事だ」
「芯の甘みが、まるで民の希望のようだな」
私は、笑顔で応えながら、空気の揺れを感じていた。 言葉の奥に、何かが潜んでいる。
そのとき、貴族の一人――細身で鋭い目をしたヴァルス卿が言った。
「希望か…だが、希望は時に“力”を求める。 隣国との関係が冷え切っている今、我が国が動くべき時かもしれん」
空気が、すっと冷えた。
「動く…とは?」
私は、果実を切りながら尋ねた。
「戦だよ。 王族が動かぬなら、我々が風を起こすしかあるまい」
私は、手を止めた。 でも、表情は崩さなかった。
「風は、誰かを傷つけるために吹くものではありません。 空気を整えるために、通すものです」
ヴァルス卿は、私をじっと見つめた。
「君は…何者だ? ただのパイ屋にしては、言葉が深い」
ラドラン卿が、すかさず言った。
「アイリスはただの平民に過ぎないよ。あまり詮索してくださらぬよう。だが、彼女には空気を整える力がある」
私は、深く一礼した。
「私は、ただの平民です。 パイを焼くのが得意な平民。ですので皆さんよりも心は平民。みんなのことは私の方がわかると思います」
その言葉に、空気が少しだけ揺れた。
「戦を望む者もいる。 だが、君がそれを止められるなら―― 我々は、もう少しだけ待ってみよう」
ラドラン卿が、静かに言った。
その夜、私は酒場でギルドの仲間たちに話した。
「貴族の間で“動き”の話が出ました。貴族たちは戦を考えてるみたい」
ミラは、パイをかじりながら言った。
「あなたの立ち位置、危ういわね。 でも貴族の中に入れたのはとてもいいことね。対話が出来るから」
その言葉に、私は頷いた。
「戦いになったら私は役に立てませんから。私が出来るのはパイを焼くことと食べること。まあ、空気を入れ替えることもできますけど」
ヴェルディアにきてから時間が経った。少しずつ争いを遠ざけることが出来ていると思ったけど、現実はそんなに甘くない。もっともっと頑張らないと。
◇
王宮の空は、今日も静かだった。 けれど、風が通らないわけじゃない。
むしろ、遠くから吹いてくる風が、胸の奥をそっと揺らしていた。
「…アイリスは、今頃ヴェルディアか」
私は、果実の木の下で手紙を見つめていた。 ミラが届けてくれた、アイリスからの手紙。 その文字は、彼女らしく、まっすぐで、少しだけ果実の香りがした。
ーーーー
レオ、ヴェルディアの空気は、少しずつ揺れています。
名前を呼び合う人が増えて、パイの香りが風に乗っています。
あなたが心配してくれていたこと、ミラさんから聞きました。
でも、私は大丈夫です。 あなたの空が、私の風を支えてくれていますから。
ーーーー
私は、手紙をそっと胸に当てた。
「…君は、いつもそうだ。 僕が何も言わなくても、全部わかってる」
アイリスがヴェルディアへ行くと聞いたとき、私は反対した。 「危険すぎる」「君が行くべきじゃない」 何度も言った。 でも、彼女は笑って言った。
「心配はいらないよレオ。ただの視察なんだから。でも、少し空気を換えてこようと思ってるけどね」
その言葉に、僕は何も言えなくなった。 彼女の風は、誰かを守るために吹くもの。 それを止めることは、僕にはできなかった。
「でも…心配なんだよ、アイリス」
私は、果実の木に背を預けて、空を見上げた。
雲がゆっくり流れていた。 その向こうに、ヴェルディアの空がある。
「君が“空気係”として、無理をしていないか。 誰かの渋みを全部受け止めて、疲れていないか」
でも、手紙の最後の一文が、僕の空をそっと晴らしてくれた。
『あなたの空が、私の風を支えてくれていますから』
「…なら、僕も風を起こさなきゃな」
私は、立ち上がった。 王宮の空気を整えるために、僕にできることを探す。 アイリスが遠くで風を通しているなら、僕もここで風を吹かせる。
「君の風が届いた。 だから、僕の空も動き出すよ」
その日、王宮の空には、静かだけど確かな風が吹いた。 遠く離れていても、同じ空を見ている。 そしてその空が、ふたりの風をつなげていた。
夕焼けの王子、レオ。 彼は今、遠くの風に想いを乗せて、 王宮の空を整えるために、そっと歩き出していた。
◇