翌朝起きると、体調は少しはマシになっていた。
好き勝手に抱かれて体が怠いはずなのにも関わらず自分より早く起きてた新谷が、作ってくれたおかゆも、全く味はしなかったが、身体は温まった。
「篠崎さんのスケジュールは、どんな感じですか?」
言いながらネクタイを締めている。
「朝イチで寄りながら行きますか?」
―――そうだ。自分の熱と新谷への熱で、すっかり忘れていた。
夏希の家の室外機はどうなっただろうか。
篠崎は途端に憂鬱になり、パソコンデスクに置いてある卓上カレンダーを見下ろした。
メーカーに連絡がついたところで、すぐに駆けつけてくれるかはわからない。
昨日は急に気温が低くなり、床暖房に限らず、たくさんの家庭が暖房機器を今年初めて使っただろう。不調はそういうときに起こりやすい。
今日中に来てくれればいいが、下手したら土日を挟んで月曜日ということも十分にあり得る。もしかしたらもっと先になることも。
新谷が直せればいいのだが―――。
「頼りにしてるぜ。ダイクウのエキスパート!」
肩を叩くと新谷は柔らかい表情で微笑んだ。
「元、ですよ。元」
その笑顔を見て、まだ本調子じゃないためか、目頭が熱くなる。
この男を失いたくない。
なぜか嫌な予感がよぎり、それを誤魔化すためにもう一度その肩を今度は少し強めに叩いた。
「痛いすよ」
新谷が笑う。
潤んだ瞳のせいか、彼の笑顔は二重に見えた。
夏希の家を訪れると、まだ葵と共に眠っていたらしい彼女は目を擦りながら出てきた。
「床暖房は動いてますか?」
玄関に漂う暖気に一安心しながらも、一応聞いてみる。
「今のところ、問題ないみたいですけど」
欠伸をしながら化粧をしていない夏希が答える。
いつも派手な化粧をしているが、化粧をしていない顔の方がキツく見える。
「メーカーはいつ来るんですか?」
昨日と同じく、篠崎を敵意のある目で睨みながら、夏希が聞く。
「まだ営業時間ではなくて、連絡がついていなくて。まずは、空調機械に詳しいうちの社員を連れてきました」
新谷が進み出る。
「セゾンエスペースの新谷です。見せていただいても大丈夫ですか?」
「はあ、構いませんけど」
夏希は目を細めて新谷を見た。
東田のものと思われる、だぼっとした大き目のトレーナー。
ブラジャーをつけていないのが一目でわかる胸とその中心で主張してくる突起に、新谷がぴくりと反応する。
「それでは、拝見してきます」
言いながら篠崎に視線を送ると、新谷は先に外階段を下り出した。
すでに30cmほど積もった雪に足をとられながら、裏口に回る。
「新谷」
軽く呼びかけるが、彼は振り返らない。
雪の中をザクザクと進んでいく。
「おい。おいってば!」
そこでやっと振り返った新谷は篠崎を大きな目で見上げた。
「篠崎さんは風邪が治っていないと思うので、玄関で待っていてもいいんですよ。それか中で床暖房パネルに異常がないかを確認していてください」
その硬く早い口調に思わず額を叩く。
「……?」
頭を抑えながら新谷が見上げる。
「わかりやすい嫉妬してんな。ノーブラ女なんて今更なんとも思わねえよ」
「…………」
どうやら図星だったらしく、この寒いのに頬が赤く染まる。
「……風邪、ひどくなっても知りませんからね」
言いながらまた雪道を歩いていく新谷に、篠崎は目を細めて続いた。
「うーん」
室外機は、昨日あんなに苦労して溶かしたにも関わらず、また白い霜がびっしりとついていた。
「これ、いつ止まっても不思議じゃないですね」
新谷が持ってきた工具で、カバーを取り外した。
昨日強制的に溶かしたフィンだけがかろうじて露出しているものの、それ以外のところは全て白い氷で覆われている。
「やはり、熱線のヒューズが飛んだんだと思います。基盤交換でいいとは思いますが、メーカーがいつ対応できるか。他の現場から持ってこれるのがあれば使った方がいいとは思いますが…」
新谷が曇った表情でこちらを見上げる。
「取付前の室外機なんて、長い時間保管はしていないでしょうし」
「そうなんだよな……」
篠崎が唸ったところで、工事課の小田から連絡が入った。
『やっぱりこの雪と寒さで、メーカーのメンテナンス部がもう対応いっぱいいっぱいで』
予想通りの内容が聴こえてくる。
『鈴原さんの家に行けるのは、来週半ばになりそうです』
その電話を新谷が変わる。
「基板交換だと思いますが、一応症状を話しておきたいので、メーカーさんの時間があるときに、俺の携帯に電話貰えるように伝えてくれますか?」
新谷が小田と話している横で、篠崎はため息をついた。
建ててから2年も経たない家と、まだ雪の降りやまない空を交互に見上げる。
「さて。どうしたもんかな……」
◇◇◇◇◇
篠崎は旅館とホテルのパンフレットを持って、再度夏希の家を訪れていた。
「こちらの宿は子供用の遊び場もありますし、お菓子や離乳食も充実しています。一方こちらのホテルは親子で遊べる遊具の他に、赤ちゃん用の温水プールなんかもあります。どちらも畳に布団を敷くので、ベッドから落ちることはありませんし、防音仕様になっており、音や声も気にすることがありません」
言いながら相変わらず食器が置きっぱなしのローテーブルの隙間に並べる。
「タクシー代、宿泊費は全て当社で負担するので、申し訳ありませんが来週の半ばまで、どちらかに宿泊していただくことを了承いただけないでしょうか」
夏希はそのパンフレットを嫌そうに見下ろした。
「できれば、あまり遠くには行きたくないんですけど。タクシーでも車でも、大人しくできる子供じゃないので」
「お気持ちはわかりますが、こういった街中ですと、ビジネスホテルしかなく、配慮の行き届いた宿泊施設がありません」
言うと夏希は大きな目で篠崎を見つめた。
「昨日の話の続きなんですけど…」
「はい…?」
「篠崎さんの家はダメなんですか?」
驚きのあまり目を丸くする。
「私の家―――ですか?」
「はい。駅裏ならここから近いし、マンションなら声も気にならないし。少しの間置いていただくことはできないんですか?」
「…………」
「独身だって言ってましたよね」
そんなことはもちろんあり得ない。
仮に新谷の存在がなかったとしても。
夏希が独身じゃなかったとしても。
たとえ異性でなかったとしても。
客を自分の家に泊めるなど、営業マンとしてあり得ない。
しかし若くして家を出て、社会にほとんど出ないまま家に入ったこの女性は、その異常さが分からないらしい。
何と断ったらいいものか。
「申し訳ありませんが、それは出来ません。それはハウスメーカーの営業として、明らかに行き過ぎた行為であり、もし会社に知られたら、私は解雇になりかねません」
「言わなきゃいいんじゃないの」
「いえ、今回のことは初期不良という重大な事態であるため、支部長への報告が必須であり、当然、《《夏希》》さんと葵ちゃんのことも報告せねばなりません」
鈴原ではなく、夏希という呼称を選んだのは、先日のように感情的ならないようにという目的のためだったが、夏希の怒った顔は明らかにその言葉で綻んだ。
「そう…ですか」
「どちらの施設も、オムツもお尻ふきも粉ミルクも売店で販売しております。赤ちゃん用のお菓子も常備されています。もし他に必要なものがあったら、私が買って届けますので、どうかお願いします」
頭を下げると、夏希は大きく息を吸ってから、
「じゃ、そのホテルで」
と、やっと首を縦に振った。
「でもその代わり、タクシーは嫌なので」
夏希はふらふらとローテーブルにつかまり立ちをしている葵を抱き上げて言った。
「篠崎さんの車で送ってくださいね」
夏希が準備をしている間に、会社に置いてあるチャイルドシートを取りに戻った。
事務所に入ると、新谷がこちらを見上げた。
「どうでしたか?」
「サンキュー。お前が探してくれたホテルに宿泊してくれることになった」
言いながら展示場に抜ける。
階段下の倉庫からチャイルドシートを持ち出すと、事務所に戻った。
「じゃあ、送ってくる」
出来るだけ自然なニュアンスで言ったつもりだったが、新谷の他に金子と細越まで驚いてこちらを見上げた。
「送っていくんですか?」
「ホテルまで?」
2人が同時に口を開き、新谷の顔は無表情のまま引きつっている。
「葵ちゃんがタクシーで泣き叫ぶのが嫌なんだと」
大袈裟すぎるほど困った顔をして見せると、新人の2人は、
「あー、なるほど」
「大変すね」
とそれぞれ納得して視線を外し、業務に戻った。
新谷の視線だけが残り、篠崎を見上げている。
「…………」
離婚したばかりの若い女———。
しかもあんなに無防備な格好で篠崎の前に出てくるような―――。
(そりゃ、嫌だよな……)
この愛おしい恋人に、どんなに小さな疑惑の影も落としたくない。
篠崎は小さく息を吐くと言った。
「新谷、お前も時間があれば同行してくれるか?オムツとか着替えとか大量にあるだろうから。荷物持ちだ」
どうやらこの判断は正しかったらしい。
わかりやすく微笑んで立ち上がった新谷にチャイルドシートを渡しながら、篠崎はふっと笑った。
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