テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
・:.。.・:.。.
【一方、同じ時刻】
「山田桜」の朝はまったくジンとは異なるリズムで始まっていた
「ピピピッ」とスマホのアラームがけたたましく鳴り響く、もうこれで三度目だ、繰り返しなるアラームのスヌーズ設定はMaxの計10回、ベッドのシーツにくるまった桜の手が、のそのそと這うようにスマホを掴んだ
寝ぼけ眼で画面を見た瞬間、彼女の目がハッと見開いた
「キャー―! 遅刻する! どうしてこんな時間!アラームの意味!!」
叫び声が1LDKのマンションに響いて桜はベッドから飛び出した、洗面所に駆け込み、冷たい水で顔をバシャバシャと洗う
鏡に映る自分は、髪はボサボサ、目はまだ半分眠っている、それでも時間はない
「ちこくちこくちこくーーー!」
呪文のようにつぶやきながら、さっと洗顔を済ませた桜は、ヘアアイロンで髪を急いで整え、メイクは申し訳程度に下地とスパチュラでファンデーションを塗りたくる
誰とも出会わない地下鉄のホームまではこれで十分、後の仕上げは電車の中でやればいい、バンッとクローゼットを開き、バタバタと淡いピンクのブラウスとビジネススーツに身を包み、片手にエナジードリンクを飲みながら、ノートパソコンと会議資料をルイ・ヴィトンのトートバッグに無造作にぶち込む
玄関一杯に転がされた数々のパンプスから今日の即戦力に足をつっかけて、慌ててバタンッと玄関を閉めて飛び出して行った
――が、2分後
再び玄関が空き、靴を脱ぐのも惜しいとばかりに土足のままリビングに入って来た桜はクーラーのリモコンを手に取り、電源を切ってベッドに放り投げ、再び玄関を飛び出して行った
彼女の朝はいつもこんな調子だ、玄関から最寄りの地下鉄の改札口までは猛ダッシュ、改札で翳すピッと言うスマートフォンの「SUIKA」の作動音が辺りに鳴り響くと、バタンと改札が開く
彼女のバッグからは書類の角が飛び出し、朝の慌ただしさを物語る
淡路島の旅館「山田荘」で育った桜は、天然でおっとりした性格だが、ITの世界に飛び込んでからの2年間、持ち前の明るさと努力でジンのアシスタントとして奮闘してきた
二段飛ばしで階段を一気に駆け上がり、ホームに辿り着くと同時に出発しようとしている電車の「女性専用車両」になんとかいつもの定時刻電車に滑り込めた、桜はここでやっとホッと胸を撫で下ろした
ラッキーなことに、今日は座席に座れた。彼女はバッグからメイクポーチを取り出し、電車の揺れに合わせて器用にメイクを仕上げる
ラストの電熱ビューラーで睫をカチ上げてメイクを終えると、鞄に忍ばせたミンティアを一つ口に放り込み、ミントの清涼感に小さな安堵を覚えた
駅の改札を出る時、スマホを落として慌てて拾う桜の後ろの乗客の列をせき止める
その姿に、朝のラッシュアワーに急いでいる周囲のサラリーマンがさも迷惑だとばかりに桜を睨んだ
プルルっ・・・
その時桜のスマホがポケットの中で震えた、地下鉄の改札を急ぎ足で抜けて地上への階段を駆け上がる。朝の都会はすでに息づいていて、ビルの隙間を縫うように人々が流れていく
桜はバッグを肩にかけ直し、画面に映る「パパ」の文字に小さくため息をついた
「ああっ・・・もう・・・パパだわ!朝は忙しいからかけて来ないでって言ってるのに~」
そう言いながらも、桜は父親からの電話を取る
ブルートゥースイヤホンを耳に押し込み、宙に向かって一人話し込む桜の姿は、まるで独り言を大声で呟く危ない人の様だ
御堂筋の交差点では信号待ちの人々がざわめき、クラクションが遠くで響く、桜は歩みを緩めずに父親の声に耳を傾けた
「ええ・・ええ・・だから茂夫おじさんに言っておいて、釣ったばかりの新鮮なお魚を私に食べさせてあげたいと言う気持ちはありがたいわ、ありがたいのだけと私は都会で独り暮らしだから、以前みたいに冷凍のイカを20匹も送って来られても食べきれないの」
父親の声が電話越しに少し慌てた調子で返ってくる、桜は苦笑いをしながら横断歩道を渡る、コンビニの看板が朝日を反射し、眩しさに一瞬目を細めた
「そうね・・・高級ブランド嗜好の、みや江おばさんのお洋服のお古を送ると言われても、おばさんは私の三倍のサイズがあるでしょ?良い物はわかってるけど着れないの、だから断っておいて、悪いけど送らないでって・・・うん・・・ありがたいのよ、ありがたいんだけどね、うん・・・そうね、一太郎おじさんの所の玉ねぎもいらないわ、大丈夫よ・・・とにかく親戚の誰かが私に何か物を送ると言っても阻止してちょうだい、全て間に合ってますから」
桜の声は少し早口になっていた、会社までの道のりを急ぎながら頭の中では今日のスケジュールがぐるぐる回る、父親の声が少し震えているのに気づき、桜は立ち止まり、ビルの谷間に差し込む朝日を見上げた
「あ~・・・もうパパ!泣かないで!迷惑なんかじゃないのよ、本当に家にいないから受け取れないの!みんなに桜はちゃんと自活して頑張ってますとだけ伝えて、うん・・うん・・そうね今月末のおじいちゃんの89歳のお誕生日に帰れるかどうか考えておくわ・・・うん・・もう会社につくから、またね!」
電話を切ると、桜は深呼吸してスマホをポケットにしまった、御堂筋の大通りに面したおしゃれな外資系カフェ『ハマーバックス』が、朝の光の中でひときわ目を引く
大きな看板には緑色のロゴが光り、そのデザインはメドゥーサか人魚か、あるいは逆さにすれば噂の「イルミナティのバフォメット」の姿だと囁かれる、謎めいたシンボルが、朝日を浴びて堂々と輝いている
ガラス張りの店内は、木目調のカウンターとモダンな照明が織りなして、まるで現代美術のギャラリーのような空間だ
一歩店内に入ると、コーヒーの香りが店内一杯に漂い、窓から差し込む光が床に柔らかな影を落とす、このカフェは、都会の喧騒の中で一瞬の安らぎを約束するオアシスのようだった
「サクちゃん!」
カウンターの向こうでは、ハマーバックスの看板ボーイ『学』が、トレードマークの緑のエプロンを身に着け、ニコニコと笑顔を浮かべている
「学君!おはよう!」
桜が息を切らしながら「モバイル・オーダー専用受け取り場所」に駆け寄って来る
「サクちゃん! ハイ! いつもの! 今日も時間ピッタリだね!」
「そうなの、遅刻しそうだったけど、電車の中でモバイルオーダーしたから助かっちゃった!」
桜の声は、慌ただしさの中にも明るさが弾ける、茶色いパーマの爽やか青年学がニッコリ笑って言う
「アイスラテ、シロップ多めにしといたよ」
ハマーバックスのロゴが印刷された紙袋にアイスラテを二つ滑り込ませる
「今度からモバイルオーダーしなくても僕に電話してくれたらいいよ、電車に乗った時点でね!僕がいなくても必ず誰かに作らせるから、いつでも言ってね! ハイ!お仕事頑張って!」
学が紙袋の持ち手を両手で掴んで桜に差し出してくれる、桜は紙袋を受け取って学に向かって満面の笑みを向けた
「ありがとう!学君!」
学に手を振りながらガラス扉を押し開けると桜のバッグがドアに軽くぶつかり、書類がさらに飛び出しそうになる、店内のお高くとまった客がチラリと振り返り、慌ただしいわねとばかりにクスッと笑う
桜はそんな視線も気にせず、バタバタと御堂筋の大きな歩道をパンプスの踵を鳴らして走って行く、彼女の背中はまるでコメディ映画のヒロインが時間と戦うように必死で愛らしかった
その直後・・・
信号待ちの交差点にジンが現れた、マウンテンバイクに跨った彼の姿は、朝の光に照らされ、まるで都会の戦士のように映える、信号が青に変わると、ジンは軽やかにペダルを踏み込み、ハマーバックスの前を颯爽と通り過ぎた
この都会の喧騒の中で彼らは同じ目的地を目指す、ハマーバックスの看板のロゴの女性は、まるでそんな二人の物語を見守る、静かな観客のように輝き続けた
・:.。.・:.。.
御堂筋の中心部にそびえるガラス張りの高層ビル、その30階にITアプリ開発会社「WaveVibe」のオフィスはあった
朝8時50分、自動ドアが滑るように両側に開くと、桜は息を切らしながらロビーに飛び込んだ
彼女のバッグが肩からずり落ちそうになりながら受付カウンターに駆け寄る
「10分前!遅っ!」
受付嬢の奈々が桜を見て鼻に皺を寄せ、咎めるように言った、桜は腕時計をチラリと見てほっと胸を撫で下ろした
「間に合った! 今日こそ遅刻するかもって焦っちゃった!」
受付嬢らしく紺色の制服にピンクと紺のストライプネクタイをきりっと締め、一昔前の女優の様なカーリーヘアに斜めに被った小さな帽子の姿の奈々が、カウンターの向こうで微笑んだ
「話はあと! 早く行って! あと7分で『ターザン』が来るわよ! いつもぴったりなんだから」
「ありがと、奈々!」
桜はバッグを肩にかけ直し、ハマバの紙袋を持って、朝の混雑でごった返すエレベーターに滑り込んだ
スーツ姿のサラリーマンや、カジュアルな服装のエンジニア達に囲まれながら、彼女は30階のボタンを押した、エレベーターが静かに上昇する中、今日のスケジュールを頭の中で反芻した
―7分後―
ロビーの自動ドアが勢いよく両側に開き、ジンが颯爽と現れた、社長専用更衣室でサイクルファッションからダークグレーのビジネススーツに身を包み、鋭い眼光で前を見据える、彼の後ろには部下達がぞろぞろと続いて、まるで小さな軍隊のようだ
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!