体が、軽い。この数カ月抱えていた、最期のときへと向かう重さから、ようやく解放されたようだ。
瞼の向こうに、人影を感じる。
懐かしい、温かい面影だ。
あぁ、あの日、私を送り出してくれた……父さん、母さん……みんな……!
みんな、やっと、やっと還って来たよ。
ようやく、還れるんだな……。
「クラピカ、旅は楽しかった?」
鈴のような声が耳の奥に染み渡り、忘れかけていた温もりが浮上してくる。声が懐かしい彼と一致した瞬間、胸がぎゅうと締め付けられ、靄の掛かった視界の先、手を伸ばそうとする。
どこだ、どこだ……。
パイロ――!
「辛いことも、悲しいこともあった。だが、掛け替えのない友を……」
心の中でそう返しながら、なぜか、続きの言葉が喉奥で詰まった。
最期のときを、一緒に過ごしてくれた大切な人の声が、体の奥に沁みついている。
悲しませてしまった。
人を救うために生きているようなあの男を、また悲しませてしまった……。
「ねえ、もう1回聞くよ。旅は、楽しかった?」
「……………」
「僕は、クラピカとは一緒に行けなかったから、クラピカの話、たくさん聞きたいな」
「パイロ、私は……」
「クラピカ。クラピカが僕たちのために頑張ってくれたこと、知ってるよ。でも、クラピカはクラピカを生きていいんだよ」
パイロの優しい声が、クラピカの胸にさざ波のような染みをにじませる。
だって、もうすべて終わってしまったのだ。
そういう生き方を選び続けた。それは変えられない。
「今さら、どうにもならない……」
温かい風が、クラピカの頬を撫でるように通り過ぎた。また鈴のような声が耳の深いところ……脳の奥にまでスッと入り込み、遠ざかっていく。
「大丈夫だよ。ねえ、クラピカ、僕はいつまでも待ってるからね」
「おい、起きろ。いつまでボーっとしてんだ!」
ゲシっと背中を蹴られ、上下の感覚がなくなり浮遊感に見舞われた。湿った土の上に打ち付けられ、わずかな痛みを覚えた。
焦点を定めるように、クラピカは声の主を仰ぎ見た。
「……ここは? なぜお前が……?」
見覚えのあるひげ面。
「ったくなに呆けてんだよ。驚いたな。緋の目になると特質系になるのか」
急に飛び込んできた聞き覚えのある声に、クラピカはハッと息を吞んだ。
目の前にはテーブル代わりに使った丸太と水見式のカップ。木々に囲まれたここは湿った土と樹木の香りが満ちている。
そして正面には、丸太に座ったひげ面の……
「し、しょう?」
「だから、どうした。ぼーっとして」
突然変わったクラピカの空気感に、イズナビは怪訝そうに目を細めた。
クラピカは辺りを見回し、
自分の身体を一瞥すると、手をゆるゆると開いて閉じて、を繰り返した。
生きている……わけはない。確かにレオリオの胸で息を引き取った。
自ら幕切れを定めたような人生だったが、最期はそんな自分には過ぎたものだった。
では、これは……?
この光景には見覚えがある。念能力の修行中、緋の目になるとオーラの絶対量が上がると指摘され、再度水見式を行ったときのものだ。
「おい、どうしたんだよ、クラピカ」
「……そうか。走馬灯というやつだな。なぜ会うのが師匠だったんだろうな」
「…………」
イズナビは眉間のしわを深めたが、クラピカの様子に押し黙った。じっと相手を見据えて真偽を確かめようとしている。
「分からないという顔をしているな。私も今の状況が分かっていない。
だが、今から約7年後に私は死んだ。おそらく、これは生前に縁のあった人や出来事をめぐる走馬灯というやつなんだろう」
「死んだ、ねぇ」
ゾリゾリ、と無精ひげに手を這わせながらイズナビは呟いた。
「あぁ。師匠には世話になった。それを伝えるための旅だろう」
「ほう。お前がそんな殊勝なことを言ってくれるなんてな。
で、どんな最期だったんだ? 幻影旅団に返り討ちにあったか?」
「いや、穏やかな終わり方だった。大切な人の胸に抱かれて逝くことができたんだからな」
「そりゃ良かったじゃねぇか。
だが7年後と言ったな。ハンターなんていつ死ぬか分かったもんじゃねぇが、そんな悠長な死に方、随分と早い幕切れじゃねぇか。戦闘じゃなきゃどういう状況だったんだ?」
「…………これも旅立ちに伴う懺悔かもしれないな」
「……?」
「私は念能力に命をかけた」
「あぁ。さっきも鎖を具現化して命をかけると言ってたな」
「違う」
「違う?」
問われて、クラピカは後ろめたさを覚えた。念を教えてくれたのは紛れもないイズナビだ。彼にその危険性も言い含められた。街へ下りるその瞬間まで、復讐なんてやめろと。それを裏切ったのは自分自身だ。
「緋の目が発現した時に使う念に、自分の寿命をかけた。
1秒で1時間。無論、非常時にのみ使う予定だった。だが――」
「念能力はそのときのコンディションにも左右される。
強い念のほうが使い勝手はいいだろうからな、使い過ぎたか」
続きの言葉をイズナビが引き取る。
「――ッ」
「図星か」
「…………」
2人のあいだに沈黙が下りるなか、スッと1つの影が動いた。
――ドゴッ
その瞬間、クラピカの身体は後ろへ吹っ飛び大木へ打ち付けられていた。
「カハッ――」
急に呼吸を失い、そして思わずえずいてしまう。
「お前は死んだと思ってんのかもしれねえが、悪いが俺はお前の言う7年前で、今こうやって生きてる。もちろん、お前もな」
「生きて……いる?」
鼻から伝う不快感に、クラピカは左手の甲で顔をぬぐった。どろりとした生ぬるい鮮血が、手を赤く染めた。
これは、どういうことだ?
「……分かったか?」
そう問いかけられても、クラピカは何も答えられない。
だが、今しがた左手で鼻血をぬぐったのは、この7年間の癖だ。右手にはいつも鎖を出していた。思わず左手が動いたのは、その癖が残っているからだ。
呆然とするクラピカに、イズナビはゆっくりと近づく。
値踏みするように、訝しげに。地面を踏みしめる音もなく、いっそ近くを這う虫の羽音のほうが響きそうな静謐さで。
混乱するクラピカの視界にも意識にも、そんなイズナビは入ってこない。
ゆっくりと右手を顔の前に持ち上げ……そこには、長いこと手に馴染んだはずの鎖が、ふわりと具現化された。
クラピカの視界が暗くなる。見下ろすイズナビの堂々たる体躯が、木漏れ日を遮っていた
「……その鎖、嘘はついてないみたいだな」
パチパチと焚火が揺れる。
互いの顔が、なびく炎と木々の合間から差し込む星明りによって映し出される。月がほのかに赤い。
数メートル先は闇。土も草も木立の境界も吸い込まれている。
獣と梟の声が遠くから聞こえる。ときどき、風に乗って鈴のような高い音も響く。
記憶の底に浸透する、
憶聴をざわつかせるような、どこかで聞いた覚えのある懐かしい音色だ。
「で、お前はこの7年間、どう生きてきたんだ?」
「……さっき話したとおりだ」
「あぁ。最期の話は聞いたな。だが、俺を訪ねてきたのはそれだけじゃないんだろ」
「……分からない」
「そうか。じゃあ、とりあえず今は変わらず念の修業を続けるんだな。ヨークシンでの仕事に就くんだろ」
「――ッ!?」
「なんだ?何か気づいたか?」
「……いや」
そうだ。こうしてイズナビと山に篭っていたのは、念の修業中。
今は、あのヨークシンの前だったのか。
初めて幻影旅団の団員と戦ったあの荒野。あの夜もこんなふうに赤い月が出ていた。
生々しい血潮をこの手に受け、鼻につく匂いを嗅ぎ、命を奪ったあの夜……。
右手に念を集めるが、鎖は具現化された途端、そこに留まらずに消えてしまう。
「どうして、このタイミングなんだ……」
その右手で、ぐしゃり、とクラピカは前髪をかきむしった。
「その様子じゃ、俺に話がある訳じゃないみてぇだな」
「1回黙ってくれ――」
短く吐き捨てたクラピカに、イズナビは長いため息をついて、薪をくべた。
パチリと、また炎が揺れる。
「よっし。腹ごしらえでもするか」
言ってイズナビは小屋のある……と思しきほうへ姿を消し、バケツを持って戻って来た。川魚を丁寧に細い木に刺し、焚火であぶる。
煙が1本、ゆらりと暗い天へと立ち昇った。
――空腹感……?
クラピカは、赤い火種に照らされた煙を目で追い、空へと視線を流した。
「もし、これが過去への懺悔なら……」
「ん?」
「なんで、今なんだ……」
「……」
「どうして、一族の元へと戻らせてくれないんだ……家族に、友に会いたい……!」
細くて強い風に炎が大きく、二度、三度と揺れ、また形を取り戻す。
「無理だな」
「なに」
「今のお前は、念を発動できても、使いこなせる訳じゃねえ。肉体はその時代に同一化されるらしい。
つまりだ。お前がクルタ襲撃前に戻ったところで、ガキの躯が増えるだけだ」
「なんだと!」
「お前はどう感じてるのか分からないが、今は今だ。
できないことは、できない」
「…………」
クラピカは、ギリっと奥歯を噛みしめる。
イズナビは、頭から魚にかぶりつき、何でもないように続ける。
「だが、お前が7年間を感じてたのは嘘じゃねえ。だから、まだ修業を始めていない鎖が具現化できるんだ。
だったらそれを活かせ。具現化系の一番の難関は、何を具現化するか決め、それを実際に念の力で出力させるまでのイメージ訓練だ。
お前は制約と誓約で最大値まで引き出した感覚が残っているはずだ。その感覚があれば、命をブースターにしなくても、そこまでいける可能性はある」
「……」
「ま、いずれにしろ、お前次第だがな」
はらわたをペッと掃き出し、串を火にくべた。
「俺は寝る」
膝に手を置き、気だるそうに立ち上がったイズナビは、そのまま小屋のほうへ、暗闇の中へと姿を消した。
クラピカは、爆ぜる炎をじっと見つめていることしか、今は出来なかった――。
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