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かめちょん
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長野の強い日差しは、日を追うごとにその輝きを増していくようだった。けれど、僕の胸の中にある心細さは、もうどこにもなかった。
毎朝、家を飛び出す僕の足取りは、羽が生えたように軽い。
「りょうちゃん、おはよう!」
生垣の向こう、お気に入りの白い帽子をかぶって佇むりょうちゃんに、僕は大きく手を振った。りょうちゃんはぱちぱちと大きな目を瞬かせ、いつものように小首をかしげる。
「あ…おはよう。えっと、きみは…」
「うん、元貴だよ。ほら、これを見て?」
僕は胸に抱えていた一冊のノートを、誇らしげに差し出した。
最初の頃は、ただ色鉛筆で丸を描いただけのような下手くそな絵日記だった。けれど、元々一つのことに没頭すると周りが見えなくなる僕は、毎晩、部屋の明かりの下で必死にペンを動かした。
りょうちゃんの髪の柔らかさ、あのひまわりのような笑顔の口元の角度、楽しかった瞬間のきらめき。
それをどうにかしてこの紙の上に閉じ込めたくて、ただ線を重ね続けた。
今やそのノートは、鮮やかな、僕たちの思い出のアルバムへと進化していた。
「うわぁ…!」
ノートを開いた瞬間、りょうちゃんの瞳に、木漏れ日のような光が宿る。
「これ、川遊びだ! お水がすっごくきらきらしてる。あ、こっちはスイカ! ぼく、こんなに遠くまで種飛ばせたんだぁ!」
「そうだよ。りょうちゃん、すっごく得意そうな顔して笑うんだから」
「えへへ、すごいや。もときくんって、お絵描き天才なんだね!」
昨日と同じ、弾けるような笑顔。それが見られただけで、昨晩の寝不足なんて一瞬で吹き飛んでしまう。
「ねえ、もときくん。今日は何をして遊ぶ?」
「今日はね、虫捕りに行こう。兄ちゃんたちが、奥の森にもの凄く大きいクワガタがいるって言ってたんだ」
「わあ、クワガタ! いこういこう!」
りょうちゃんは僕の手をぎゅっと握ると、パタパタと小走りで歩き出した。その手の温もりは、日記を読ませる前だって、僕のことを忘れていた時だって、いつも変わらずにそこにある。
背の高いクヌギの木が立ち並ぶ森の中は、ひんやりとした緑の匂いに満ちていた。ジジジジ、と頭上で響く蝉の合唱が、降るような雨のように僕たちを包み込む。
りょうちゃんは、網を片手に「あっちかな? こっちかな?」と、ふわふわした髪を揺らしながら楽しそうに茂みを覗き込んでいた。
そんなりょうちゃんを見ながら、木の幹の表面や、樹液が滲み出ている場所を一箇所ずつ、じっと目を凝らして観察していく。
「あ、もときくん、見て! あそこに何かいる!」
りょうちゃんが声を潜めて、一本の大きなクヌギの幹を指さした。西日の差し込む幹の裏側、どろりと流れる樹液のなかに、黒くて立派なハサミを持ったミヤマクワガタが鎮静するように留まっていた。
「わあ、大きい…!」
「しーっ、逃げちゃうよ。もときくん、網、はい!」
りょうちゃんから網を手渡され、僕はごくりと唾を飲み込んだ。絶対に捕まえて、涼ちゃんをあっと言わせたい。
網を持ち替え、足音を忍ばせて、ゆっくりとクワガタの背後へ回り込んでいく。
「あ、そっちからだと木の影になって網が届かないよ、右側から回り込まないと!」
りょうちゃんの口から、焦ったような、こそこそと小さな声が飛び出してきた。
じりじりと距離を詰めていく。きっと僕もりょうちゃんも息が止まっていた。少しの音にも、飛んで行ってしまわないかとひやひやする。
あと二歩、一歩、
今だ、と心の中で叫ぶと同時にしなやかな動作で網を振り抜いた。バササ、と網の網目が揺れる。
「やったぁ! 捕まえたよ、りょうちゃん!」
「わあーっ! すっげえ!」
網の中で誇らしげに足を動かすクワガタを見つめながら、りょうちゃんは飛び跳ねて喜んだ。
ふと見るとりょうちゃんは虫かごを持っていない。僕も持ってない。手元の網に羽の振動が伝わるだけだった。
「りょうちゃん、捕まえたけどさどうすんの?」
「ん?逃がすよ。僕飼おうとしてもすぐに忘れちゃうし。命は大事にしないとね。だから逃がす前にさ、もっと近くで見とこ?」
そういってりょうちゃんが網に顔を近づける。同じように僕も網の隙間からのぞき込むと、黒てかりする大きな体がはっきりと見えた。
時々羽ばたきとともに伝わる、命の鼓動がうれしいような、怖いような。どきどきと心臓が脈打っていた。
「すっげえ…かっこいい」
「うん…」
りょうちゃんと宝物を囲むように頭を突き合せた。ゲームの画面や図鑑の写真とは全く違う、圧倒的な生命の迫力。頭部から堂々と伸びる大きなハサミと輝く体。
まるで夢をいっぱいに詰め込んだようなその姿に、胸の高鳴りが止まらなかった。
時間を忘れて夢中で森を駆け回った僕たちのシャツは、すっかり汗で色が変わっていた。ヒグラシのカナカナカナという涼しげな鳴き声が、夕暮れの訪れを告げるように響き始める。
「あー、今日もいっぱい動いたから、お腹ペコペコ」
りょうちゃんは小さなお腹をさすりながら、歯を見せて笑った。その姿があまりにもいつも通りで愛おしくて、胸の奥が温かくなる。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。」
「うん! あ、そうだ。もときくん、お家に帰る前にぼくの家に来てよ。おばあちゃんがね、裏の畑で採れたお野菜をたくさんカゴに入れてたんだ。もときくんのお家にも持って帰りなよ。」
りょう ちゃんは名案を思いついたように、くりくりとした目を輝かせた。
「ナスとか、キュウリとか、いーっぱいあるよ。あ、でもね…」
そこでりょうちゃんは、ふと足を止めた。夕暮れのオレンジ色の光のなかで、ふわふわとした髪を輝かせながら、少しだけ困ったように自分の頭を傾げる。
「…トマトはね、虫とか鳥とかがきてて、今お家にちっちゃいのしかないから入ってないよ。だから大丈夫!」
「え…?」
僕は目を見開いたまま、その場に立ち尽くしてしまった。心臓が、トクンと大きく跳ねる。
「なんでトマト?」
「え? だって、もときくんトマト苦手でしょ?」
りょうちゃんは僕の驚いた顔を見て、不思議そうに瞬きを繰り返した。
僕はトマトが苦手だ。上手く言えないけどどうしてもダメで、東京の家でもいつも残してお母さんに怒られてる。
けれど、その話をりょうちゃんにしたのは、今朝ではない。昨日でもない。長野に来た最初の日、一緒にスイカを食べているとき。
「僕、スイカは大好きだけど、トマトは苦手。」
と、ぽつりと溢しただけだったはずだ。
毎朝「はじめまして」を繰り返すりょうちゃんの頭からは、一昨日の出来事なんて、とうに消え去っているはずなのに。
「りょうちゃん、なんで僕がトマト苦手だって知ってるの? 僕、今日その話、してないよ?」
僕が震える声で問いかけると、りょうちゃんはハッとしたように自分の口を手で押さえた。そして、夕日に照らされた自分の小さな手のひらを、じっと見つめる。
「そう、だったっけ…あれ? なんでだろ。ぼく、なんでトマトって言ったんだろ…。もときくんがトマト嫌いなこと、ぼく、なんで知ってるんだろ…」
りょうちゃんは眉をへの字に曲げて、うーんと記憶の糸を手繰り寄せようとした。けれどやっぱり何も思い出せないらしく、「おかしいなぁ、忘れん坊なのに」と照れくさそうに頭をかいている。
出来事そのものは、時間とともに溶けて消えてしまったかもしれない。けれど、りょうちゃんの心の、もっと奥にある温かい場所には、僕が言った言葉や、僕と過ごした時間の欠片が、確かに『消えない足跡』として、静かに、優しく積み重なっていたのだ。
胸の奥から、熱いものが一気に込み上げてきて、視界が涙でぐにゃりと歪んだ。
「あれ、泣いてる! また、何か変なこと言っちゃった…? ごめんね、どうしよう」
慌てておろおろと、自分まで泣いてしまいそうなりょうちゃんを見て、僕は泣きながら、だけど歯を見せてにっとした笑顔を浮かべて、首を振った。
「ううん、違うよ! 嬉しかったの。…りょうちゃん、お野菜、貰っていくね。ありがと。」
「うん! えへへ、よかった。」
りょうちゃんは安心したように、またあの満面のひまわりの笑顔を咲かせた。
僕の書く絵日記だけじゃない。りょうちゃんの心の中にも、僕たちの時間はちゃんと流れている。その確信が、僕に小さなノートを抱きしめる強さをくれた。
僕たちは長く伸びた二つの影を並べながら、夕焼けに染まる坂道を、ゆっくりと歩いて帰った。
コメント
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りょうちゃんが元貴のトマト嫌いを覚えてたシーン、じんわり来ました…「忘れん坊」なのに心の奥にはちゃんと積もってるんだなって。絵日記だけじゃなくて、時間の欠片がちゃんと残ってるっていう優しさに泣きそうになりました。夏の情景もすごく鮮やかで、ふたりの世界に入り込める感じがしました。いいお話をありがとうございます🌙