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馬車が止まると、扉が開けられた。
俺たちを迎えたのは、きらびやかな服装を身に纏った人々と、無数の目だった。みんなが俺たちを見ている。いや、正確には俺を見ている。
「なんだよ、この注目……」
思わず声を漏らすと、隣に立ったバスが低く呟いた。
「気にするな。ただの好奇心だ。」
「好奇心って……そりゃ俺、異世界人だからか?」
「半分はそうだろうな。」
バスの言葉には、少しの軽蔑が混じっているように聞こえたが、気にする余裕はなかった。
テナーがそっと俺の背中を押した。
「アソビくん、深呼吸して。大丈夫、僕たちがいるから。」
その声に少しだけ気持ちが落ち着いた。
俺たちは王宮の廊下を進んでいく。壁には金色の装飾が施され、見たこともないような美術品が並んでいる。歩いているだけで息が詰まりそうだった。
「緊張してる?」
後ろから声をかけてきたのはカウンターテナーだ。彼はいつも通り柔らかい表情を浮かべている。
「そりゃあするだろ! 俺、なんでこんなとこにいるのかわかんねーし!」
「大丈夫だよ。王族の人たちは意外と親切だからさ。」
バリトンのその言葉を信じていいのか疑問だったが、彼の落ち着きには少し救われた気がする。
そして、やがて俺たちは巨大な扉の前に立った。
「ここが謁見の間だ。」
バスが短く説明する。
扉がゆっくりと開かれると、目の前に広がったのは圧倒的な空間だった。
高い天井に、輝くシャンデリア。そして、中央の玉座に座っている人物――その人の存在感は、まるで空気そのものを変えてしまうようだった。
「お入りなさい。」
冷静だが力強い声が響いた。玉座に座るのは王族のひとり、メゾと呼ばれる女性だった。
俺たちはその声に促され、前へ進む。俺は言われるままにひざまずき、頭を下げた。
「彼が……例の者です。」
テナーが一歩前に出て、俺のことを紹介する。
「顔を上げなさい。」
メゾの声に従い、恐る恐る顔を上げる。彼女の瞳は、俺のすべてを見透かしているようだった。
「……なるほど。確かに特別な声を持っているようね。」
そう言って微笑む彼女に、俺はどう返せばいいのかわからなかった。ただ、その瞳には、どこか計算された興味の色が見えた。
俺の胸の中で、不安がまた一つ膨らんでいった。
「ねえ、アソビくん……だったかしら?」
柔らかな声が耳に届いた。振り向くと、メゾ先生が微笑みながら俺を見ていた。その笑顔はどこか母親のような包容力を感じさせる。
「私ね、あなたの声を聞きたいの。あなたの本当の声を。」
その言葉に、一瞬だけ場の空気が揺れたような気がした。
「いや、でも俺……」
戸惑う俺を見て、先生は静かに近づいてきた。少しだけ背をかがめて目線を合わせる。
「大丈夫よ。」
まるで子どもに言い聞かせるような穏やかな口調だった。
「あなたがどんな声を持っているのか、ただ知りたいだけ。無理はしなくてもいいの。」
「でも……俺、本当に歌えるかわかんないし。」
視線を落としながら言うと、先生は優しく微笑んだまま言った。
「最初から完璧にできる人なんていないわ。みんな最初はそう。でもね、声にはその人の心が表れるのよ。だから、私に少しだけ貸してくれない?」
その言葉に、俺は少し息を飲んだ。なんだか反論できなくなった。
「先生……それでも急に言われても……」
俺がそう言いかけたとき、バリトンが口を開いた。
「先生、彼はまだ自分の声を扱えないんです。」
低く穏やかな声だったが、どこか俺をかばおうとしているように聞こえた。
「そうね、きっとまだ戸惑うことも多いでしょう。」
先生はバリトンに微笑みかけた後、俺を再び見つめる。
「でも、あなたがどんな声を持っているのか、私にはわかるの。少しだけ、ほんの少しだけでいいから、聞かせてくれないかしら?」
俺はその優しさに押されるような気持ちになりながら、視線をテナーに向けた。テナーは小さくうなずいてくれた。
「……わかりました……。」
小さく息を吐きながら返事をした。
「ありがとう。」
先生は心底嬉しそうに微笑んだ。
「さて、何を歌ってくれるのかしら?」
その言葉に、俺は少し考えたあと、息を整えるように深く吸い込んだ。
「まあ……なんとかなるか。」
自分に言い聞かせるように呟いて、口を開いた。
俺は意を決して歌い始めた。「魔笛」から有名なアリアだ。ただ、なぜかその言葉は深く重く沈むようで違和感に満ちていた。
“Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen……”
(訳:地の底から湧き上がってくる復讐心が私の魂に響いてくる)
自分が歌っている歌が……歌詞が言葉として聞こえてきたことに気づいた瞬間、部屋の空気が震える。
俺の声に反応して、まるで空間そのものが重圧を増したかのようだった。
“Wenn nicht durch dich Sarastro wird erblassen!”
(お前によって、ザラストロが苦しまないのなら!)
高らかに響いた声とともに、部屋の壁にまで音の波が伝わり、振動を感じるほどだ。
「っ、やべぇ!」
バスが突然顔をしかめて耳を塞ぐ。だが、耳を塞いでも俺の声は容赦なく彼を襲ったらしい。
顔を歪めたまま後ずさり、壁に寄りかかる姿が見える。
“Hört, Rachegötter, hört der Mutter Schwur!”
(聞けっ!復習の神よ!私の願いを叶えたまへ!)
その声が完全に力を帯びた瞬間、バリトンが苦悶の声を上げた。耳を塞ぐだけでは防げない。
骨伝導で直接響いているのか、膝をついてしまい、耐えきれずそのまま床に倒れ込んだ。
テナーも目を見開きながら後ずさりしていたが、なぜかギリギリ耐えている。彼の震える声が聞こえた。
「すごい……これが本物の……!」
だが、俺は自分の歌声に驚きつつも止められなかった。何かに突き動かされるように、さらに声を張り上げる。
その瞬間、空間が一瞬で静寂に包まれた。俺が歌い終えたからだ。
バスは壁に手をつきながら立ち上がり、険しい顔で俺を睨む。
「おい……何してくれてんだよ。耳が死ぬかと思ったぞ!」
倒れたままのバリトンが、弱々しく顔を上げる。
「なんで……歌ってるだけで……こんな目に……」
テナーは呆然と立ち尽くしていたが、やがてポツリと言った。
「この力……やっぱり、君はテノールなんだね」
俺は困惑しながら、口を開いた。
「テノールって……何だよそれ。俺はただ歌っただけで――」
その時、メゾが静かに口を挟む。
「歌っただけ、ではないわ。君の声には、アルカノーレとしての魔法が宿っている。さっきの歌は力を解放するきっかけだっただけよ」
驚きと困惑が入り混じった気持ちを抱えながら、俺はメゾを見つめた。そして、俺を見上げるバスとバリトンの怯えたような表情を見て、内心、冷や汗が止まらなかった。
「俺が……『アルカノーレ』……?」
俺の歌声が収束し、周囲はしばし静まり返った。その間、バスとバリトンはまだ耳を塞ぎながらも、俺を恐る恐る見つめている。
そして、メゾがゆっくりと口を開いた。
「あなた、やっぱり……」
俺は驚いて振り返った。
「あなたの歌声には、アルカノーレとしての力が宿っている。まさにテノール、男声種のアルカノーレの主人格が目覚めたのね。」
その言葉に、俺は息を呑んだ。だって、俺は自分がアルカノーレだとは思ってなかった。
バスとバリトンが目を見開き、驚愕の表情を浮かべる。
「おい、待て、テノール? それじゃ、あの歌声は……」
「遅すぎる主人格の登場だ……」
バリトンが呆然とつぶやくと、バスが怒りを込めて言った。
「だから言っただろう。こいつがここに来たのは意味があるってな。」
だが、メゾは彼らの言葉を無視するように続ける。
「あなたの歌声は、すでに完成されている。王室も、この事を黙って見過ごすことはないでしょう。」
俺の頭が混乱し始める。なんだって? 王室が? 完成された歌声って何だよ。
「異世界に来たのは、必然ではなかったことに気づいているのでしょう?」
メゾの言葉に、俺は背筋が冷たくなるのを感じた。必然じゃない? それじゃ、俺がここに来たのは、運命に操られているんじゃないのか?
その瞬間、俺の中で何かが引っかかるような感覚が走った。これはどういうことだ?
「おい、何か言えよ!」
バスが俺に向かって叫ぶが、俺は声が出なかった。頭が真っ白になり、心臓が激しく鼓動を打つ。俺は異世界に来た理由を知りたかった。でも、今はそれが怖い。
「何だ、俺がここにいる理由が分かるってのか?」
その言葉を発した瞬間、俺の中に一気に恐怖と焦りが広がった。もし、これが運命だとしたら――どうして俺なんだ?
そして、俺はただ一言叫んだ。
「う、うそだろ〜〜〜っ!!!」