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※後半、ちょいと匂わせオセンㇱあります。
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朝の光がカンターヴィレの窓から差し込んで、部屋を柔らかく照らす。目を開けた俺は、天井を見つめてしばらく動けなかった。
「…ここは、一体どこだ?」
昨夜の出来事が頭の中でぐるぐる回ってる。俺がアルカノーレの力を持つっていう話、いまだに信じられない。
だって、俺はただの普通の人間だった。音楽だって、ただの趣味で、まさかこんな風に歌で魔法みたいな力を持つなんて、考えてもみなかった。
俺はベッドから起き上がって、カーテンを引く。窓の外には、異世界のような街並みが広がっている。空の色も違うし、建物のデザインも全く見たことがないものばかりだ。
「…これ、本当に俺がいる世界なのか?」
頭をかきながら、部屋の片隅にある小さな鏡を見つめる。まだ実感が湧かない。昨日、アルカノーレたちと一緒に過ごすことになったが、その理由すら、よくわかっていない。だって、俺、音楽とかほとんど知らなかったし、魔法なんて信じてなかったんだから。
でも、あの声、あの感覚。あれが「アルカノーレの力」だっていうなら…じゃあ、俺は何者なんだ?
「…いや、今は考えても仕方ないか。」
深呼吸して、もう一度鏡を見つめる。俺の目の前に広がっているのは、まだ見ぬ世界と、未だ解明できていない自分の力だ。だけど、今はやらなきゃいけないことがある。
「朝飯食って、歌の練習でもしてみるか……」
それでも、どうしても心の中で不安が消えない。俺が本当にこの力を使えるのか、ただの人間として過ごしてきた俺に、果たして何ができるのか。
「それに、あいつらがうるさいだろうし……」
その瞬間、バスの声が遠くから聞こえてきた。
「おい、アソビ!遅いぞ、起きたか?」
あー、やっぱり来たか。あいつはいつも急かしてくるからな。俺がちょっと寝坊したくらいで、すぐに文句言ってくる。
俺は軽くため息をつき、急いで着替え始める。バスが俺の部屋の前で待っているのは間違いない。さっさと支度を終わらせないと、またうるさく言われそうだ。
「……よし、行くか。」
急いで衣服を整えて、部屋を出る。廊下を歩いていると、バスがすでに立っていて、ちょっと不機嫌そうな顔で俺を見つめていた。
「お前、遅いな。もう昼飯の時間だぞ。」
「うるさいな、急かさないでくれよ。」
軽口を叩きながらも、バスが言った。
「まあ、今日は少しだけでも、お前の歌を聴きたいんだよ。特にテノールの歌、あれ聞かせてくれ。」
「え、俺が?」
「お前がやるんだろ?さっさと歌えよ。」
ちょっと心の中で引っかかるものを感じるけど、俺は無視して答えた。
「…わかったよ、やってみる。」
俺はそう言って、少し心の中で覚悟を決める。これからどうなるのか、わからない。でも、アルカノーレたちと共に過ごすためには、やらなきゃいけないことがある。それに、こいつらを納得させるためには、やっぱり自分の力を試すしかない。
「さあ、行こうか。今日も新しい一歩だ。」
少しだけ、腹をくくった気がした。
稀有な体質?
カンターヴィレの廊下を歩くたびに、俺は少しずつその広さと圧倒的な空気に慣れてきた。長い廊下を抜けて、音楽室や訓練用の部屋が並んでいる。
使用人たちが気配を消して動き回る中、俺は今日も一日、何度も繰り返すべきことがある。
最初の頃は、周りの環境やルールにただ圧倒されていただけだったけど、今では少しずつその一部になっている実感がある。
「今日もあのレッスンか…」
館内では、音楽の勉強が欠かせない。俺がここにいる理由、アルカノーレとしての力を使いこなすために歌を学び、技術を高める必要があるってのはわかっている。
でも、それがまさに「義務」だってのが、なんだか息苦しく感じるんだ。
歌の練習が始まると、ひたすら歌い続けることになる。その内容が、俺がすでに音大で履修済みの科目だとしても、ここでは何度も何度も繰り返さなきゃいけない。
それに、歌唱法や音楽の文化が全然違うんだ。日本で学んできた音楽の技術とは、全く別物だ。
「またあの厳しい声の指導か……」
音楽室に入ると、バリトンやバスのあの真剣な顔が待っている。今日も、次々と要求される歌のテクニックに答えなきゃいけない。
「アソビ、お前の声はやっぱり音域が広いな。でも、音楽のアプローチが全然違う。」
バリトンがそう言うけど、その言葉には感謝もあったけど、少しだけ不安も感じる。俺がこれまでやってきた音楽の技術が、どこかで通用しないんじゃないかって気がするからだ。
「これも…力を使うための訓練だよな。」
そして、バスがいつものように声をかけてくる。
「お前、これを歌うって知ってるんだろうな?俺たちと一緒に練習するんだから。」
それに答えるように、俺は深呼吸してから、曲の最初の一音を発する。
だが、最初の一音を出した瞬間、俺の喉から出る音の響きが違った。音が、ただ声帯を震わせているだけじゃない。まるで、胸の奥から何かが湧き上がってくるような感覚。
何度もこの世界で歌を歌ってきたけど、今回のは全然違う。力が、音に乗せてどんどん膨らんでいく。
その感覚が、やけに心地よい。
「なんだ、これ…!」
俺が驚いていると、バスとバリトンが目を見開いている。
「すごい…お前の声、やっぱり特別だな。」
バスが言うと、バリトンも頷きながらその目を輝かせる。
「音楽に対するアプローチが違うから、最初は少し戸惑ったけど、こうやって歌うと、何かが違う。お前、すごいよ。」
その言葉に、俺は少し照れくさくなりながらも、心の中でほっとする自分がいた。だって、俺がここでやっているのはただの音楽じゃない。
アルカノーレの力を使いこなすために、これを「国に住まう民」と「自然のため」に尽くさなきゃいけない。そのために、歌を歌うんだ。必死にやらなきゃいけない。
でも、その義務に対して、正直なところ、俺は少し怖さも感じている。だって、どうしてもまだ「俺がアルカノーレの力を宿している理由」ってのがよくわかっていない。何で俺が選ばれたのか、いまだに納得できていない。
「でも、もしかしたら…」
俺はふと、今まで歌ってきた音楽の違い、技術の違いが新しい刺激になっていることに気づく。何度も何度も繰り返すことで、自分の声の可能性が広がっていくんだ。
それが、俺にとってはちょっとした安心材料になってきた。
「よし、頑張るか。」
そして、もう一度声を出す。今度はもっと強く、確信を持って。
音楽室に響く声の波は、いつもと違っていた。
練習の最中、突然、扉が開く音がした。その音に反応して振り返ると、カウンターテナーが静かに入ってきた。
「お、テナーか。」
バリトンが軽く手を振りながら言う。カウンターテナー、つまり「テナー」は神殿の声楽堂から帰ってきたばかりのようだ。
目を合わせると、彼の顔にはいつも以上に疲れた表情が浮かんでいる。
「今日も歌ってきたのか?」とバスが訊ねると、テナーは少し疲れたように頷きながらも、いつもの柔らかな笑顔を見せた。
「うん、少しだけね。でも、こちらの練習も大切だから……。」
テナーがそう言うと、周りにいた他のアルカノーレたちも、音楽の流れに乗ってその場を整えていく。
そして、あの透き通った、女声にも似た高い音が、音楽室に流れ始める。
最初はただの背景音として耳に入ってきた。しかし、その音が広がるにつれて、俺の体が自然と引き寄せられるのを感じた。テナーの歌声は、どこか神聖で、癒しの力を感じさせる。あんなに高くて……繊細な音なのに、耳を刺すことなく心地よく体に響いてきた。
その音は、音楽室の壁を越えて、俺の中に染み込んでいく。最初はただ「いい声だな」と思っただけだったが、だんだんとその音が持つ深い意味がわかってきた。
「この声……」
気づけば、俺の意識がテナーの歌声に完全に引き寄せられている。歌詞が何を言っているのか、メロディーがどう流れているのか、そんなことを考える余裕もない。
目を閉じると、体の中でその音が反響して、どこまでも優しく包み込んでくる。
俺は、少しずつ意識が遠のいていくのを感じた。まるで、深い眠りに誘われるように、心地よい空間の中に溶け込んでいく。
あの声は、ただの音楽じゃない。病める心を癒し、体を癒す力があるとされているその歌声には、確かにそうした力が宿っているのだと感じた。
その間、周りの音が遠くなり、俺は完全にテナーの歌声に包まれてしまっていた。気づけば、頭の中は空っぽになり、ただその声だけを受け入れていた。
「アソビ?」
遠くでバリトンの声が聞こえたが、耳に入ってきたのはほんの一瞬で、その後はまた歌声に引き込まれていく。次第に、意識がふわりと抜け出すような感覚が広がっていく。
テナーの歌声は、ただ美しいだけじゃない。何か深い力が込められている。その声が、俺の体の中に染み込み、全てを包み込み、気づけば俺はその力に酔いしれていた。
その瞬間、俺はこの声が、神殿の声楽堂で歌われる意味を理解した。人々の病気や怪我を癒し、心を癒やすその力は、まさに魔法のようだ。そして、俺もその力に引き寄せられる。
「う、うわっ…!」
ふと我に返ると、体がふわっと浮いたような感覚が残る。まるで、空気が全て音になっているような錯覚に陥りながら、俺は深く息を吐いた。
テナーの歌声は、今も俺の体の奥で反響していた。
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テナーの歌声が、ますます耳に心地よく響いてきた。高く、透き通った音色が、まるで俺の内側から引き寄せられるように体に染み込んでいく。
最初はただ、心地よい音楽だと思っていた。けれど、その歌声が続くにつれ、俺の体は自然と軽くなっていくような感覚に襲われた。
声の中に潜んでいる何か、言葉にできない力が、次第に俺を圧倒していった。
まるで音の波に揺られているみたいだ。テナーの歌声は、優しく、けれど確かな力を感じさせて、その音が徐々に俺の意識を引き寄せていく。
「う……あ、やば……」
ぼんやりと目の前が歪み始める。俺の身体は動かなくなり、ふわりと浮いているような感覚を覚えた。まるで眠るように、いや、今すぐにでも意識を失いそうだ。
その瞬間、意識がどんどん遠くなっていくのを感じた。
「アソビ、大丈夫……?」
遠くでバリトンの声が聞こえたが、それがまるで夢の中から聞こえてくるようで、俺の体には届かない。
息が浅くなり、立っているのが辛くなる。目を開けても、ぼやけた視界しか見えない。身体が軽くなっていく一方で、足元はふわふわと不安定になり、立っていられなくなった。
その時、テナーの歌声が一層強く、深く心に響いた。音が体を包み込むように、ふわりと意識が手放され、体がぐらりと揺れる。
「……っ。」
そのまま、俺は力なくその場で膝を折り、意識を失った。
立ったまま、気絶してしまったのだ。
周りの気配が遠くなり、俺は完全に歌の力に包まれて、深い眠りに落ちた。
(テナー視点)
――バタンッ!
その音に、僕は思わず振り返る。すると、アソビが倒れているのを見て驚愕した。あんな風に、立ったまま、気絶するなんて。
「アソビ! しっかりしろ!」
バスがアソビの肩を揺すり、声をかけるが、彼は微動だにしない。その表情はまるで眠っているかのようだが、その瞳は完全に閉じていて、まるで意識が遠くに行ってしまっているようだった。
「何なんだ、これ……」
僕も駆け寄って、アソビの顔を見つめる。いくら声をかけても、アソビは反応しない。ただ、深く、深く目を閉じたままで、まるでこの世界から離れていってしまったかのようだ。
「ビンタしてもダメか?」
バスが、僕の隣でアソビの顔に平手を叩きつける。けれど、アソビは目を覚まさない。
「……これ、本当にただの気絶か?」
バスが言うように、こんな状態でアソビが意識を失うなんて、普通のことじゃない。あの歌声が、まるで彼の心を引き寄せるかのように、僕にも感じ取れた。
「……僕が歌った時、何かがあったんだ。アソビ、あんなに歌に敏感だったとは思わなかった。」
僕は小さく呟き、アソビの体をじっと見つめる。
確かに、僕が歌ったあの歌は力強いものだった。僕の声に、魔法のような力がこもっているのは自覚しているけれど、あんなに反応してくるなんて、アソビの音に対する感受性は驚くべきものだ。
まるで、僕の声が彼の中に直接触れたかのように、彼の意識を引き寄せてしまった。
「何で、こんなことに……」
僕は手をアソビの額に当て、少し温かさを感じ取る。
バスがすぐに僕の肩を叩いて、「大丈夫か?」と心配そうに尋ねる。
「うーん……でも、僕にも分からないな。まさか、歌でこんなことになるなんて。」
「テナー、こいつ……ただの音楽の授業でこんなに反応しちまうのかよ?」
バスが困惑しているのが伝わってくる。確かに、アソビは普通の音楽の授業であんなに意識を失うようなタイプじゃなかった。
今感じているのは、彼の音楽への反応がとても強いということだ。それに、あの歌声が持っていた力が、まるで彼を飲み込んだかのようだった。
「僕は……あんなに強くはないと思ったけど。アソビがこんなにも音に敏感だとは。」
その時、バリトンが静かに言った。
「もしかしたら、アソビ自身の力に関係があるのかもしれないよ?あの歌声と、彼が持っている力が引き寄せ合ってしまったのかも。」
バスと僕は黙って、バリトンの言葉に耳を傾けた。そして、やっと僕は理解し始める。アソビは、僕たちアルカノーレと同じように音楽に関する何かしらの力を持っているんだ。
気づかないうちに、僕の歌声が彼の中に溶け込んでしまった。
「……まさか、こんなことになるなんて。」
僕は再びアソビを見つめ、その顔に手を当てた。彼の顔は穏やかで、まるで夢の中で迷っているような表情をしている。
「アソビ、お願い、目を覚まして……」
もう一度、声をかけてみるけれど、彼は何も返してこない。ただ、静かに眠っているだけだった。
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「これ、どうしたらいいんだ……」
バスが腕を組んでため息をついた。その表情には困惑がにじんでいる。
バスも僕も、これまでどんなに音楽に感受性が高い相手と接しても、ここまでの反応を見たことはなかった。
「……アソビくんの中に眠る力が、僕たちの歌に触れて目を覚まそうとしているのかもしれないね。」
静かに言葉を紡いだのはバリトンだった。彼はアソビの顔をじっと見つめている。その目には、冷静さの奥にどこか神秘的な何かを見通そうとする光が宿っているようだった。
「目を覚まそうとしてる……?」
僕は首をかしげながら彼の言葉を反芻する。
「ええ。アソビくんがただ眠っているわけではないと思う。この反応は、僕たちアルカノーレと深く関係している可能性が高い。」
「……関係してるって……どういうこと?」
「詳しくは分からない。ただ、テナーの歌声に引き寄せられるようにして、アソビくんの中にある“何か”が反応しているように感じるんだ。」
バリトンの声は穏やかだったが、その言葉には重みがあった。僕は彼の説明を聞きながら、目の前で静かに眠り続けるアソビの顔に視線を落とす。
「……僕の歌が、彼に何かを引き出しちゃったのかな。」
その考えはどうしても拭えない。もしそうなら、僕の力がアソビに悪影響を与えているのかもしれない。だとしたら、僕が歌ったことを後悔すべきなのだろうか。
「テナー、あんまり気にすんなよ。お前のせいとかじゃねえって。」
バスが横から僕の肩を軽く叩いてくれた。その無骨な手のひらの温かさに、少しだけ救われた気持ちになる。
「……ありがとう。でも、僕が歌ったせいで彼がこうなっちゃったんだと思うと……」
「テナー。」
バリトンが僕の言葉を遮るように静かに口を開いた。その声には優しさと同時に、どこか力強さが含まれていた。
「アソビさんがこうなったのは、きっと偶然じゃない。むしろ、今まで目覚めなかったものが、テナーの歌によって引き出された。それは、彼にとっても僕たちにとっても必要なことだったのかもしれないよ。」
彼の言葉に、僕は少しだけ心が軽くなった気がした。確かに、アソビがこの館にやってきたのは偶然じゃない。
彼がアルカノーレとしての力を宿しているのだとしたら、僕たちが彼を支えるべきなのかもしれない。
「……分かった。僕たちで何とかしよう。」
僕は決意を込めてそう言った。バスとバリトンも頷き、三人で眠り続けるアソビを囲む。
「でも、その前に……どうやって起こす?」
バスが腕を組みながら言ったその一言に、僕たちはしばし無言になった。どうやら、これが一番の難問のようだ。
(アソビ視点)
深い闇の中で、俺は漂っていた。
身体は不思議と軽く、まるで深い海の中にいるような感覚だった。冷たさや息苦しさはない。ただ、柔らかい水の膜に包まれて、全ての音や光が遠くぼやけている。
そして、その中で、たったひとつの音が俺を包み込む。
――テナーの歌声だ。
それはただ「音」という言葉では片づけられない何かだった。俺の耳を通り越し、頭の奥へ、さらに心の中へと染み渡っていく。
その響きは心地よく、心地よすぎて、体中の緊張が溶けていくのを感じた。
どんな感情も、どんな思考も、すべてがその歌声に吸い込まれていく。俺の意識は、まるで果てのない闇に溶けていくみたいだ。
「……このままずっと、この中にいてもいいかもな。」
ふと、そんな考えが頭をよぎった。この深い静寂と温もりの中で、何も考えず、ただこの心地よさに身を任せていればいい。
現実の世界なんて、もうどうでもいいと思えるくらいだ。
だが、心の奥で微かに灯る何かが俺を引き止めようとしていた。それが何なのか、俺には分からない。
ただ、その声もまた、テナーの歌声にかき消されていくように感じた。
(こんなの……気持ちよすぎるだろ……。)
意識の中でそう呟いた瞬間、身体が一層深く沈んでいくのが分かった。そこには抵抗もなければ恐怖もなかった。
ただ、目の前に広がる暗い海の底へ、ゆっくりと吸い寄せられるように降りていく――
そのときだった。
「アソビ!」
遠くで声が響いた気がした。かすかに耳に届くそれは、どこか懐かしい響きだった。
「おい、目を覚ませ!」
今度は少し強く響いた気がする。けれど、その声はこの深い眠りの中に届くほど強いものではない。俺の意識は再び深い眠りへと戻りかける。
(もう少しだけ……。)
そう思った瞬間、何かが頬に衝撃を与えた。
「――痛ぇ!」
反射的に目を開けた俺は、目の前で腕を振り上げているバスの姿を捉えた。どうやら、ビンタで強制的に目覚めさせられたらしい。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
「痛っ……!」
頬にじんわりとした痛みが広がり、俺は目を開けた。視界に入ったのは、腕を振り下ろした姿勢のまま俺を見下ろしているバスの顔。
「やっと起きたか。」
低く安堵した声が耳に届くが、その表情はどこか不機嫌そうだ。
「……なんだよ、これ。起きたらビンタされてるとか……意味わかんねえ。」
頬を押さえながら文句を言うと、バスは腕を組んでため息をつく。
「意味わかんねえのはこっちだっつの。お前がいきなり倒れるからだろ。何があったんだよ。」
「いや、俺だってわかんねえよ。歌聴いてただけなのに……気づいたらこんなことに。」
「だから倒れるなっての!どんだけヤワなんだ。」
そんな風にまくし立てられても、俺だって困惑してるんだ。何か言い返そうとした瞬間、横から柔らかな声が割って入った。
「バス、もうやめてあげてよ。アソビ、まだ起きたばっかりなんだから。」
バリトンがそっとバスの肩に手を置き、穏やかになだめる。バスは少し眉をひそめたものの、ため息をついて腕を下ろした。
「……わかったよ。でも、次は倒れるなよ。」
「そんなの、俺だって好きで倒れたわけじゃないっての。」
バスがぼやきながら引き下がると、今度はテナーが俺の隣にしゃがみ込んだ。その仕草はどこまでも優しく、まるで倒れた子供を気遣う母親みたいだった。
「アソビ、大丈夫?痛いところとかない?」
「うん、頬以外は……まあ、何とか。」
俺が頬を撫でながら返すと、テナーは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「本当にごめんね。僕の歌が何か君に負担をかけちゃったのかも……。」
「いや、テナーが悪いわけじゃないよ。俺がただ……慣れてないだけだと思う。」
そう言うと、テナーはほっとしたように微笑んだ。その笑顔がどこか柔らかく、俺の緊張を解いていく。
「でも、驚いたな。君、音にすごく敏感なんだね。僕の歌声をあんな風に受け取る人、初めて見たよ。」
「敏感っていうか……なんだろう、テナーの声、すごすぎて……。」
そう言葉を濁すと、テナーはふっと笑った。
「すごすぎるか……ありがとう。でも、次は気をつけてね。無理はしちゃだめだよ。」
その柔らかな言葉に、俺は小さくうなずくしかなかった。
そんな中、まだどこか納得いかない表情のバスがぽつりと呟く。
「……まったく。人騒がせなやつだな。」
その声には少しの苛立ちと、それ以上の心配が滲んでいるように聞こえた。
◇◆◇
「ねえ、アソビ……倒れる前、何があったの?」
バリトンが不意に問いかけてきた。その声は穏やかだけど、どこか真剣で、俺は自然と姿勢を正す。
「えっと……テナーの歌声を聴いてたら、なんか……不思議な感じになって。」
記憶をたどりながら話し始める。
「不思議な感じ?」
テナーが少し首をかしげる。その仕草が妙に優しくて、俺の口は自然と次の言葉を紡ぎ始めた。
「なんていうか、声が俺の中に直接入ってきたみたいだったんだ。音が肌を通り抜けて、心の奥に響いて……」
そう言いながら思い出すと、あの心地よい感覚がまた蘇る気がした。
「最初はただ気持ちよかったんだよ。波みたいに穏やかで、すごく落ち着いて……でも、だんだん深い海に沈むみたいになって。」
自分の言葉に少し戸惑いながらも続ける。
「沈む?」
バリトンが目を細める。
「うん、沈む。だけど苦しいとかじゃなくて、むしろ安心感があって、このままでもいいかなって……。」
俺の言葉に、バスが腕を組んでうなった。
「……あれだな、テナーの歌声がよっぽど効いたってことか。」
「効くって……薬みたいに言うなよ。」
俺が苦笑すると、テナーが静かに口を開いた。
「でも、それはきっと本当だと思うよ。」
テナーの瞳が俺を真っ直ぐに見据える。
「僕の歌には、癒やす力があるって言われてるけど……アソビ君の場合、それだけじゃなかったみたいだね。」
「それだけじゃない?」
思わず聞き返すと、テナーは少し言葉を選ぶようにしてから話し始めた。
「普通の人が僕の歌を聴くと、気持ちが楽になったり、傷が少し癒えたりするんだ。でも君の場合、それ以上に深く影響している気がする。まるで、君自身が音楽そのものと響き合っているみたいに。」
「響き合う……?」
テナーの言葉に、俺はますます混乱してきた。でも、テナーの表情はどこか確信を持ったものに変わっていく。
「もしかして、アソビ君……君はアルカノーレの主人格の中でも、稀に見る体質を持ってるのかもしれない。」
「えっ……。」
その言葉に、場の空気が変わった気がした。バリトンもバスも、驚いたようにテナーを見つめる。
「ちょ、ちょっと待てよ。それってどういうことだ?」
俺は慌てて聞き返すが、テナーは静かに微笑んだだけだった。その微笑みには、これから何か大きなことが始まるような予感が滲んでいた。
[newpage]
「……君の体質についてだけど、現世代の女声類アルカノーレの主人格、『コントラルト』も同じ体質を持っているんだ。」
テナーの言葉に、一瞬その場が静まり返る。
「コントラルト?」
バスが怪訝そうに眉を寄せると、テナーはゆっくりとうなずいた。
「彼女も、君と同じように歌声に敏感すぎる体質を持っている。どうやら普通の人が『音声』としてしか認識できない歌声を、彼女は精神世界にまで直接浸透するように感じ取ってしまうらしいんだ。」
「……直接、精神世界に?」
俺はその言葉の意味を噛み締めながら聞き返す。
「そう。コントラルト自身も言葉で説明するのは難しいって言ってたけど……歌声の魔法が、耳を通してじゃなく、精神そのものに染み込むように届くって感じるんだそうだよ。」
その説明を聞いているうちに、俺の背筋に冷たいものが走った。あの歌声がまるで俺の中に入り込み、どこまでも沈んでいった感覚。それと全く同じ話じゃないか。
「それ、どうしてテナーが知ってるんだ?」
バリトンがふと問いかける。その視線はテナーをじっと捉えていた。
テナーは一瞬、少し困ったように笑ってから答えた。
「……音楽祭の時にね、声楽堂でコントラルトに会ったことがあるんだ。そのとき、ちょっとした事件が起きたんだよ。」
「事件?」
バスが眉をひそめる。
「僕が歌の練習をしていたら、突然コントラルトが気絶してしまったんだ。理由が分からなくて焦ったけど、彼女の体質だって後から知ったんだよ。」
テナーの声に、俺たちは驚きを隠せなかった。
「最初のうちは、彼女も僕の歌声に慣れていなくて、完全に参ってしまったみたいなんだ。でも、少しずつ聞き慣れるようになってからは、影響を受けるのが少しだけで済むようになったらしい。」
「じゃあ……俺も?」
思わず問いかけると、テナーは優しく微笑んだ。
「きっと同じだと思うよ。最初はきついかもしれないけど、慣れれば平気になる。でも、君みたいに音楽に敏感な人がこの体質を持つのは、やっぱり珍しいんだ。」
「珍しいって、どれくらいだ?」
バリトンがさらに聞くと、テナーは肩をすくめた。
「僕が知る限り、この世界で確認されたのはコントラルトと君だけだよ。稀に見る才能だし、同時に難しい体質でもある。」
「……稀か。全然嬉しくないけどな。」
俺は苦笑しながら肩を落とした。
「でも、だからこそ僕たちがサポートするよ。」
テナーの言葉に、俺は少しだけ気が楽になった気がした。
入浴タイム
歌の練習が終わったあと、汗を流そうと皆で浴場に向かうことになった。大きな湯船がある浴場は、館の贅沢さを象徴するかのような造りだ。
「俺は先に入ってるぞ。」
そう言って、バスが先陣を切って浴場に向かう。続いてバリトンと俺が後に続いた。
ところが、浴場に近づくと、突然中から高い叫び声が響いてきた。
「きゃあああああっ!」
「何だ!?」
俺とバリトンは顔を見合わせると、急いで扉を開け放った。
「お、おい、大丈夫か!?」
中に飛び込むと、湯船の縁でテナーがのぼせたように倒れ込んでいるのが見えた。彼の顔は赤く、目は半分閉じかけている。
「またかよ……。」
その横で、肩をすくめているのはバスだった。
「毎回のように大げさに叫ぶんじゃねぇっての。」
「ま、毎回って……?」
バリトンがバスを睨む。
「おいおい、悪気があったわけじゃねぇよ。ただちょっと触ってみただけだ。」
バスは面倒くさそうに頭を掻く。
「触ったって、どこをだよ!」
バリトンが怒鳴りながら詰め寄ると、バスは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「腰と尻のあたりだよ。ほら、あいつ、そこをくすぐられると妙な声出すじゃねぇか?」
「……はあ!?」
バリトンの顔が真っ赤に染まる。
「お前、本当に最低だな!」
「何とでも言えよ。楽しいんだから仕方ねぇだろ。」
「楽しいって……!お前、いい加減にしろよ!」
バリトンが拳を振り上げてバスに詰め寄る。
「おいおい、落ち着けって。冗談だってば!」
バスが慌てて手を振るが、バリトンは聞く耳を持たない。
その間、倒れたままのテナーがようやくふらつきながら起き上がると、泣きそうな顔でつぶやいた。
「……バス、お願いだからもうやめてよ……。」
「ほら、テナーが言ってんぞ!」
バリトンがバスを指差す。
「分かった分かった。もうやらねぇよ。」
バスは渋々と手を挙げて降参の意思を示した。
「……まったく……!」
バリトンはため息をつきながらテナーにタオルを手渡し、肩を貸して立たせた。
「ありがとう、バリ。」
テナーが申し訳なさそうに微笑むと、バリトンは赤い顔をそらしながら小さくうなずいた。
その様子を見ながら、俺は思わず苦笑する。
「ったく、お前ら、風呂場でも騒がしいな……。」
こうして、俺たちのにぎやかな入浴タイムが幕を開けた。
湯船に浸かると、最初はなんとなくのぼせたような感じがして、しばらくぼーっとしていた。温かい湯に包まれ、気持ちが落ち着いてくると、ようやく周りに目を向けることができた。
目の前に広がっているのは、まるで鏡のようにそっくりな顔を持つ三人組。テナー、バス、バリトン。
「うーん……誰が誰だか分からなくなってきたな……。」
思わず呟いてしまった。
三人とも顔が同じだから、最初はほんとうに誰が誰だか分からない。背格好も、髪型も、服も、そして――何より声も。
けれど、しばらくして気づいた。
「……あれ、よく見ればちょっとずつ違うんだな。」
テナーは、湯船の中で背もたれに寄りかかりながら、顔をうっとりとした表情で上げている。だいぶ女性っぽい仕草をしているように見える。腕を軽く組み、指先を口元に当てると、どこか優雅に微笑んだ。
バスは少し眉を吊り上げて、湯気に煙る空間の中でいたずらっぽく目を光らせている。どこか挑戦的な雰囲気が漂っていて、何か面白いことを思いついた様子だ。
そして――バリトンは、少し照れくさそうに浴槽の縁に腕を回し、背筋を伸ばしてはにかんでいる。その表情がどこか他の二人と違って、ほんのりと若干不安そうにも見える。メガネなしの姿は、どうにも頼りない感じがして、余計に目立ってしまう。
「ああ、こうして見ると、微妙に違いがあるんだな。」
しばらくぼんやりと三人のやり取りを眺めていると、ふとそう思った。
でも、彼らが全く気にしていないのが不思議だ。
「みんな、普通にしてるな。」
俺が湯船にゆったりと体を沈め、三人のやり取りに目を向けていると、バスとバリトンが小さな口論を始めている。どうやらバスがまたいたずらをしようとしたらしい。
「おい、またやるつもりかよ、バス。」
「やるわけねぇだろ。お前が過剰反応してるだけだろ。」
二人は軽く言い合いをしながら、ふざけ合っている。それを見たテナーは、軽く笑いながらも、どこかおっとりした雰囲気で口を開く。
「ほんとに、男の子ってば、どうしてこうもいつもすぐに騒ぐんだろうね。」
その言葉に、バスが反応して、「うるせぇ!テメェも男だろうが!」と笑いながら言う。
その様子を見て、俺はどこか安心感を感じた。
同じ顔立ちで、同じ姿の三人。でも、それぞれの雰囲気がちゃんと違う。
「ああ、やっぱりお前らには少し違う空気があるんだな。」
これで、少しは見分けがつきそうだと思いながら、俺はまた目を閉じた。
湯船に浸かりながら、ゆっくりと時間が流れていく。みんなが気楽に過ごしているのを感じて、また少しだけ、リラックスできた気がした。
✎﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏﹏
「おい、テナー……ケツを貸せ。」
バスの声が湯船の中に響いた。
俺は思わず湯船の縁から顔を出す。なんだよ、バス……その言い方。
だが、それを聞いたテナーは一瞬で顔が真っ赤になって、まるでお花みたいに頬を膨らませてる。
「な、なに言ってんのっ!?」
テナーが顔を隠して叫ぶ。その反応が、あまりにも可愛すぎて思わず笑いそうになる。
「いや、ちょっとした冗談だよ、冗談。」
バスは肩をすくめて、またテナーに向かってニヤリと笑う。
「冗談になってない!」
テナーが顔を真っ赤にしながら、湯船の縁に手をついて、必死にバスを睨む。
そんなに反応するってことは、きっと何か気になるんだろうな、バスもどこかしらわかってていじってるんだろうけど。
「おい、そろそろ俺らも着替えに行くか?」
バリトンが俺に声をかける。テナーの恥ずかしがってる姿に見とれてる場合じゃない。
「お、うん。」
俺はバリトンについて脱衣所に向かう。なんだか、この一連の流れを見てると、テナーがちょっと可哀想に思えてきた。
服を着替えながらバリトンと雑談をしていると、浴室の方からテナーの声が聞こえる。
「きゃあっ!も、もうやめてよぉ!」
その高い、女声に近い声が響くと、思わず背中がぞわっとする。これ、絶対やばい展開だろ…。
「うわ、またやっちまったな。」
バリトンは肩をすくめて、軽くため息をつく。
「やっぱ、あいつと一緒にいるとろくなことがないよな。」
俺が苦笑しながらバリトンを見たその時、バスが風呂から出てきた。
「おう、二人とも、上がったのか?」
バスはニヤニヤと俺たちに笑いかける。その表情、完全に悪い顔だ。
「お前も気をつけろよ、二人とも、大人の階段登っとけよ〜。」
俺は眉をひそめて、「え?」と聞き返す。
「どういう意味だよ?」
バリトンが指さした先を見てみると、さっきよりも顔を真っ赤にしたテナーが湯船の縁で倒れてる…。
「あ、あれは…」
まさか、あんなところまでやられるとは思わなかった。俺はその光景を見て固まるしかない。
バリトンは平常運転でテナーに近づき、何事もなかったかのように介抱を始める。
「テナー、しっかりしろ。」
「あ……、あうぅ……♡」
バリトンが優しくテナーの肩を支えながら、淡々と声をかける。
その光景に、俺はただただ呆然とするしかなかった。あー、もうなんだよ、これ。
「やっぱ、風呂の醍醐味ってこれっしょww」
俺は完全に状況を飲み込んだが、それでも動けない自分が情けなかったのは言うまでもない。
夕食の時間になり、テーブルにつくと、早速バスとテナーがいつもの調子で絡み合っている。
「バスに無理やり高い声を出された挙げ句、腰も痛いんだよ。」
テナーが文句を言いながら、目を細めてバスを睨む。だが、その目はどこかお茶目で、まるで子供のようだ。
「ははっ、女声に近い音域たるもの、しっかり腹から声を出さねぇとな。」
バスが草を生やして笑いながら言うと、テナーはもう顔を真っ赤にして、恥ずかしさでどこかへ隠れてしまいたいような表情を浮かべる。
そのやりとりを見て、俺はもう驚くしかない。
「え? あ、あれ、どういうことだよ?」
俺は顔を真っ赤にしながら、無意識に声が出てしまう。だって、普通に考えて、これはただの冗談にしても、いくらなんでも微妙すぎる。
俺がバリトンに視線を向けると、バリトンは普段通りの無表情で、ちょっと呆れたように肩をすくめている。
「お前、意外と理解早いな。」
バリトンが小さく呟く。
「え、待って、でも、テナーとバスって、そういう関係なのか?」
俺は目を大きく見開きながら、思わず声を上げてしまう。
バリトンはちょっとだけ目を閉じて、ため息をつく。
「まぁ、ある意味。」
その言葉が妙に重くて、俺の頭の中でしばらく響く。
「あれ、どういう意味だよ?」ともう一度聞く俺に、バリトンはちょっとだけ肩をすくめた。
「俺たちみたいな陰キャと陽キャみたいなもんだろ。」
その瞬間、俺はぽかんと口を開けたまま、バリトンの言ってることが徐々にわかってきた。
バリトンもどこかクールで冷静だし、バスは明らかに陽気で、ちょっと自分のペースで周りを引っ張っていくタイプだ。
「あー…、なるほどな。」
俺はその理解に至って、なんだか妙に納得してしまった。
「でもさ、俺たちって…似た者同士だよな?」
俺はバリトンに目を向け、微笑んだ。少し意地悪な感じで。
バリトンは不意に笑った。
「そうだな。」
その後、俺たちの間にちょっとした無言の理解が芽生えた気がした。それにしても、バスの奴…ちょっと調子に乗りすぎだろ。
俺はバスに向かって、自然に敵意をむき出しにしていた。あいつ、何か面白いことでもしたら、ちょっとだけ後で後悔させてやろうかな…。
(続く)