テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
その日の仕事を終え、いつも通り夕食の準備を済ませてから雅の帰りを待った。早ければ深夜二時前には帰ってくるが、遅ければ朝方になることもある。
«今日何時くらいに帰って来れそうなの?»と一応連絡は入れたものの、画面上の文字は数時間が経過しても未読のままだった。
いつもなら気づいた時に返してくれるのに、本当に忙しくて余裕がないのか、それとも私の連絡だと分かっていて開かないのか。判断がつかないまま、私はソファに深く腰掛け、ただひたすら彼を待った。
☁︎⊹⁺
ふいに、玄関の鍵が回る乾いた音で目が覚めた。
時刻は朝の四時過ぎ。寝落ちしてしまった体を起こし、急いで玄関へ向かう。
そこにいた雅は、私の姿を見て一瞬だけ驚いた表情を見せた。その後、すぐにいつもの無表情に戻り、黙々と靴を脱いで洗面所へと向かっていく。
お互いに挨拶すら交わせない。
重苦しい気まずさだけが漂っていた。
洗面台までついていき、背中に向かって「遅かったね」と声をかける。雅は手元に視線を落としたまま、「うん」とだけ短く返した。
ハンドソープの泡を丁寧に洗い流すと、水を止め、タオルで手を拭く。目を合わせず、言葉も交わさず、流れるような作業を淡々とこなす。そんな行動でも拒絶されているような気持ちになった。
「寝てると思ってた。起きてたんだ」
「話したくて待ってた」
「それ今日じゃないと無理? 疲れたし早く寝たいし、今日も仕事だし」
返事に詰まっている私の横を、彼は視線も合わせずに通り過ぎていく。
そのままリビングへ向かう背中を見て、悟った。今日じゃないと無理かと問いはしたけれど、彼に話す気なんて微塵もない、と。
これ以上強引に追い縋っても、状況を悪化させるだけ。雅の頑なな心が少しでも緩むのを待つしかない、と考え直し「…分かった、後でいい」とだけ返し、逃げるように寝室へ向かった。
今まで私が彼を雑に扱ってきたのに、いざ自分が同じようにされると傷つくなんて、勝手が過ぎる。
せめて涙だけは見せないよう、すぐにベッドへ潜り込み、ブランケットを鼻先まで引き上げた。
昼間の電話の時に比べれば、雅も冷静さを取り戻しているようだったけれど、その分、眼差しも態度もただただ冷たく、もしかしてもう愛想を尽かされたのではないかと怖くなった。
仕事が大事だからと言って、彼を蔑ろにしていい理由にはならなかった。もし自分が彼の立場だったら、きっと同じように怒っていたと思う。
優先順位を間違え続けてきた代償は、思った以上に重かった。
少し時間が経ち、気は少し落ち着いてきたけれど、私の隣はまだ空いたままだった。
雅もとっくにシャワーを終えているはずなのに、なかなか寝室に来ない。時折、リビングから微かな生活音が聞こえてくる。様子を見に行く勇気もなく、私はただ大人しくベッドの中で彼が来るのを待っていた。
それから十五分ほどして、雅が静かにドアを開けて入ってきた。時刻はもう六時前。普段なら、彼はとっくに深い眠りについている時間だった。
背を向けたまま、背後で彼が何をしているのかを必死に感じとろうと神経を張り詰める。雅はゆっくりとベッドに入ってくると、後ろから私を抱きしめ、その大きな手で私の頭を優しく撫で始めた。
さっきまで近づきたくもないという態度を見せていたくせに、突然こんな風に優しくするなんて…。彼の考えていることが、分からない。
「……寝た?」
耳元で囁かれたけれど、返事はできなかった。
というより、声が出なかった。
涙を堪えるのに必死で、両手で口元を押さえ、嗚咽さえも漏らさないように耐える。
突き放したかと思えば、急にこんなに優しくしてくるなんて、彼がこういうずるい男であることを忘れていた。
今は抱きしめてなんて欲しくない。
それなのに、どうしても突き放すことができなかった。
「ごめんな」
不意に落とされた謝罪の言葉に、心臓が跳ねた。さっきの問いかけを無視してしまったせいで、今さら反応することもできず、彼が次に何を口にするのかをただ待つことしかできない。
どうして、雅が謝るのか理解が出来なかった。今回に限っては間違いなく私の方に非があるのに、その言葉をどう受け止めていいのか分からない。
聞きたいことは山ほどある。それなのに、寝たふりをしたせいで動けない。
馬鹿なことをした私を全力で恨む。
「夏帆が仕事大事にしてるって分かってたのに、イライラしてちゃんとわかってやれなかった」
低く穏やかな声。どうしてそんなことを、このタイミングで、と言い返したいのに、言葉が出てこない。いっそ起きてしまおうかと迷った、その時だった。
いきなり体を仰向けにされ、覆いかぶさるように彼が乗ってくる。
驚いて目を見開くと、そこには薄く笑みを浮かべた雅の顔があった。
「やっぱ狸寝入りしてた」
「……気付いてたの?」
「気付くだろ。悪趣味だな」
私は彼をぐっと押し返し、なんとか座らせた。このままの体勢で冷静に話なんてできるはずがない。
私はベッドサイドに体を起こして座る。
「……雅が謝ってるのよ。何も悪くないでしょ」
「悪くない、って思ってたけど、夏帆が俺と付き合う時から仕事が好きで今は仕事が大事だって言ってたから」
「……言ったけど」
「最近は欲張りになってた。もっと俺の事優先してくれてもよくね? って気持ちが出てきて、本気で腹立ってあの態度になってた。だけどさ、そもそも俺達が縒り戻す時に散々仕事優先なのは変えたくないって言われてたなと思ってさ」
雅は、あの時の約束を今も守ろうとしてくれていた。本心から納得しているわけではないだろうけれど、彼は彼なりに私を尊重しようとしてくれていた。私自身がその約束に甘え、彼を傷つけてしまった。
結婚だって、ただ時期を見直したかっただけで、数ヶ月以内には、きちんと決着をつけるつもりでいた。
だけど、待たせるだけ待たせて放置していれば、雅が結婚に乗り気じゃないと判断してしまうのは当然のことだった。
「違う……、本当に今少し慣れるまで待ってほしかっただけで、雅に謝らせたかったとか、今も仕事の方が大事とか思ってないの」
戻ってきてからというもの、まともに向き合う時間も作れず、ただ忙しさに流されていただけだった。
何も伝えていなかった自分も、今さら並べる言い訳も、すべてが情けなくて雅の顔が見られない。
「……面倒な事聞きたくねぇけど、今はどっちか選べって言われたらどっち選ぶ?」
今まで、両方とも欲張って手に入れてきたけれど、もし今どちらかを選ばなければならないとしたら……、私は雅の頬にそっと手を添え「間違いなく、雅を選ぶ」と言葉にした。
仕事は確かに大切だけれど、この人以上に大切なものなんて、これから先どれだけ時間をかけて考えても見つかるはずがなかった。
雅は少しだけ微笑んで、私の手を掴み、包み込んだ。
「仕事、やめろなんて言わないから、籍だけでも入れね?会社には迷惑掛かんないようにするし、報告時期とかそう言うの全部夏帆に任せるから、早く俺のだって実感が欲しい」
雅らしい独占欲の混じった提案に、私は胸がいっぱいになって頷いた。
向き合って答えが出た今、断る理由なんて、どこにもない。
たまらず抱きつくと、雅は壊れ物を扱うような手つきで、私をその腕の中へ閉じ込めた。果たせないままだった七年前の約束が、長い歳月を経て、ようやく形になろうとしている。
彼の顔を見ようと少しだけ身を引くと、雅は珍しく耳まで赤くして視線を逸らしていた。いつも自信満々な彼が見せる、余裕のない表情。
その顔を覗き込もうとした瞬間、視線に気づいた雅の手が伸び、私の顎を強引にぐいっと思いきり上へ向かせた。
「いたっ、何してんのよ!」
「にやけてんの見えてんだよ! にやけんなあほ!」
「珍しく可愛い顔してるから!」
子供のような言い合いをしながらじゃれ合っているうちに、雅にベッドへ押し倒される形になり、そこでようやく喧嘩の余韻が止まった。
付き合い始めてからは、いつも自分の方が雅を好きなのだと思っていたけれど最近は、雅の愛の方がずっと重いのではないかと、ようやく自覚し始めている。
嫉妬も束縛も、そして不安も……、私のことを考えて行動してくれる回数は、きっと私よりも彼の方が多い。
「……後、反省したのは、常連客に俺の接客を文句言わずに居てくれる彼女に向かって、お前は一回の飲み会程度で文句言うのかって怒られた」
「……誰そのイケメンは」
「女だよ」
「女性でも関係無い。あんたにもそうやって言ってくれる人居るのね。ていうか、相談したの?」
「愚痴こぼしただけ」
雅の性格をよく分かった上で、言葉をかけてくれた人がいた。
もし下心のある客なら「そんな女とは別れなよ」と唆して仲を引き裂こうとしたと思う。そうしなかったのは、その人がが雅を大切に思っている友人だから。
雅にも、玲くん以外に間違っていることは間違っていると言ってくれる友人がいるのだと知り、嬉しくなった。
「だから、それも含めてごめん」
「……私もごめんね」
謝罪を交わし合いようやく仲直り、と綺麗にまとまりかけたのだけれど、後から冷静になって思い出してみると、どうしても腑に落ちない点が浮かんできた。
「じゃあ、あんた何で帰ってきた時、あんな態度だったわけ? もうお前と何か話したくねぇよばりの態度で帰ってきたじゃない」
「……不貞腐れてました。帰ってきた時までは、でも俺の事優先しろよ! ってそんな気持ちもあったし。でもシャワー入って頭冷やしてたら、不安そうな顔で待たせてた事とか考えてたら罪悪感も湧いたし」
「子供か!」
「仕方ねぇだろ! こっちも色々複雑なんだよ!」
止まったかと思った言い合いが再燃する。この子供じみた態度のせいで、私は泣くほど不安な思いをさせられたのだから、文句を言う権利くらいあるはずだ。
情けないやら腹立たしいやら、こんなふうに謝るつもりがあるなら、最初からあんな態度を取らなきゃよかったのに! と苛立ちがふつふつと湧いてくる。
「……許して?」
「可愛く言っても許さないんだから」
「何したら許してくれる?」
「……黒崎の姓くれたら?」
私の言葉に、雅は一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたけれど、すぐに笑っていた。
「いらないって言われても押し付ける気だったけど」
「それは迷惑よ」
「雰囲気クラッシャーってよく言われない?お前」
「ないです」
まるでコントのようなやり取りしかできない私達だけれど、結局のところ、私はこの空気感がたまらなく好きだ。
たとえ、どんなにロマンチックで素敵な言葉を囁いてくれる男性が目の前に現れたとしても、私は何度だって、この男と過ごす騒がしくて愛おしい時間を選ぶのだと思う。
コメント
1件
うわっ、もうこの二人のすれ違いと再接近のバランスが絶妙すぎる…! 雅の「ごめんな」からの狸寝入りバレ、そして「籍だけでも入れね?」って急にストレートに来るところ、心臓がギュッてなりました。コントみたいな言い合いも可愛くて、でもその裏にあるお互いを想う気持ちがちゃんと伝わってきて、読んでて胸がじんわり温かくなりました。毎回ドキドキさせられてます、ありがとうございます🤍