テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
番外編 【それでも、隣にいる理由】
朝、目が覚めたときに思うことは、だいたい同じだ。
今日は、どこまで持つだろう。
体力の話じゃない。
気持ちの話だ。
隣で寝ている夫は、少しだけ寝息が荒い。夢でも見ているのか、眉間に皺が寄っている。
ああいう顔を見ると、責める気持ちが一瞬だけ引っ込む。
その代わりに来るのは、ため息だ。
起き上がる。
カーテンを開ける。
朝の光はいつも平等で、こちらの事情なんて何も知らない顔で差し込んでくる。
キッチンに立つ。
ご飯を炊く。
味噌汁を作る。
卵を焼く。
同じことの繰り返し。
でも、その繰り返しがなければ、この生活はすぐに崩れる。
足元に、猫がいる。
「……朝から元気だね」
答えはない。
しっぽだけがゆっくり揺れる。
この猫が来たとき、正直に言えば、少し助かったと思った。
夫婦の会話が、猫の話題で途切れなくなるから。
喧嘩の途中で、猫が何かやらかして、空気が崩れるから。
どうしようもなくなったとき、猫に視線を逃がせるから。
卑怯だと思う。
でも、人間はそういう逃げ道がないと、壊れる。
夫が小説家になりたいと言ったとき、反対はしなかった。
むしろ、応援した。
あの人の書く文章が好きだったからだ。
うまく説明はできないけど、どこかで「この人にしか書けない」と思った。
だから、大丈夫だと思っていた。
最初の一冊が出たときも、そう思った。
二冊目が出たときも、まだそう思っていた。
三冊目が出なかったときから、少しずつ現実が見えてきた。
通帳の数字。
減っていく貯金。
増えていく沈黙。
それでも、「頑張ってるよ」と言えたのは、あの人がちゃんと机に向かっていたからだ。
でもある日、気づいた。
机に向かっている時間と、書いている時間が一致していないことに。
それから、少しずつ怖くなった。
あの人は、書けないんじゃない。
書かないことを選び始めている。
それが一番怖かった。
喧嘩をした日のことは、はっきり覚えている。
言いすぎたと思った。
でも、あのまま黙っていたら、もっとひどいことになっていた気もする。
「苦しんでるだけじゃ、ご飯は食べられない」
あの言葉は、今でも自分で少し痛い。
優しくない言葉だと思う。
でも、優しさだけでは支えきれないところまで来ていた。
あの人は、ちゃんと傷つく人だ。
だからこそ、言えば伝わると思ってしまう。
伝わってほしいと思ってしまう。
それが、支える側のわがままなのかもしれない。
それでも、離れなかった理由を聞かれたら。
たぶん、はっきりとは答えられない。
情とか、責任とか、そういう言葉でも説明できる。
でも、それだけじゃない。
夜中にふと起きたとき、
机に向かっている背中を見るときがある。
すごく情けない姿勢で、
頭を抱えて、
同じ一行を何度も打ち直してる。
ああいうときの背中は、嘘じゃない。
うまくいってない。
逃げてるところもある。
でも、それでもまだ、諦めきれていない。
その中途半端さが、たぶん嫌いじゃなかった。
きれいに割り切れる人だったら、
たぶん、ここまで一緒にいなかった。
猫は、何も変わらない。
喧嘩をしても、
空気が重くても、
お金の話をしていても、
関係なく、ご飯をねだる。
勝手に寝る。
勝手に起きる。
勝手に人の生活の真ん中にいる。
正直、腹が立つことも多い。
でも、ときどき思う。
あの猫がいなかったら、
私たちはもっと早く、壊れていたかもしれない。
あの「どうでもよさ」が、
ちょうどいい隙間を作っている。
ある日、本が出た。
大きく売れたわけじゃない。
話題作にもならない。
でも、確かに誰かが買っていった。
SNSで感想が流れてきた。
「わかる」
「しんどいけど好き」
「なんか、刺さる」
それを見たとき、少しだけ思った。
ああ、やっぱり間違ってなかったのかもしれない。
この人の書くものを、
信じてよかったのかもしれない。
隣で、夫が寝ている。
猫が、その上に乗っている。
「重いでしょ」
猫に言うと、迷惑そうにこっちを見る。
たぶん、これからも変わらない。
うまくいかない日もあるし、
また喧嘩もするし、
不安が消えることもない。
でも、それでも。
完全に壊れなかった理由は、
きっとこういう小さなことの積み重ねだ。
ご飯を作ること。
同じ部屋で眠ること。
何もしてくれない猫が、そこにいること。
それで、十分なのかもしれない。
そう思える日が、たまにある。
#オリジナル
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!