テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◇◇◇◇
湖は静まり返っていた。
水面を撫でるたび、光が砕け、波紋がゆるやかに広がっていく。
岸辺の岩に腰を下ろした白の魔女は、指先だけを水に沈めた。
「冷たい」
その感触は、胸の奥に沈んだものとよく似ていた。
体温を奪うだけの、澄みすぎた冷たさ。
白の魔女は、レオニスの決意など露ほども知らない。
ただ、自分がなぜここにいるのか、それだけが曖昧だった。
断れたはずだ。
王の誘いを退ける理由なら、いくらでもあった。
なのに、その場では言葉が見つからなかった。
国境を越えるほどの木々を焼いた男。
あの夜、空を裂いた炎を、彼女は遠くから見ていた。
魔力が空気を震わせ、魔物の断末魔が悲鳴のように爆ぜる。
白く、黄色を含んで燃え上がる炎が闇を侵食していく。
迷いのない炎だった。
だからこそ、恐ろしかった。
ためらいのない力は、いつだって人を踏み潰す。
白の魔女が、そうされたように。
ヴァルディウス王国を追われた日。
門の向こうから飛んできた石。
それは、救ったはずの人々の手のひらから投げられたものだった。
「禁忌の魔女が!」
「神の名を語っていたんだ! 偽りの神だ!」
「人を化け物にする気だったんだろ!」
助けた命が、彼女を拒絶した。
あの日から、彼女は迷うようになった。
人を救うべきかどうか。
白の魔女は祈りを受け取らない。
礼金も、感謝も、跪く膝もいらなかった。
ただ「生きたい」と言われたときだけ、手を伸ばした。
それだけだった。
守りたいものは作らない。
持てば、また裏切られる。
そう決めたはずなのに、ノクスグラートで、また繰り返した。
ノクスグラートからの追放は、バリスハリスの王が止めてくれた。
市場では香辛料を真顔で吟味し、干し肉をかじって露骨に顔をしかめ、当たり付きの菓子で子供のように笑う男がいる。
戦場の王と、隣に立つ男。
どちらが本当なのか。
どちらも、本当なのだろうか。
「……意味がわからない」
呟きは湖に落ち、波紋にもならず消えた。水面に反射した白の魔女の顔は、眉を八の字にして、困ったように視線を落とした。
足音が近づく。
隠す気のない、堂々とした歩み。
「待たせたか」
「待ってません」
振り返らない。
それでも、彼が隣に立ったことはわかる。近すぎず、遠すぎない距離。
「今日は静かだな」
「湖ですから」
「つまらん返しだ」
「陛下に上品に返すなと言われていますので」
くくく、と笑い声が白の魔女の耳に届く。
横顔は戦場のそれではない。王の仮面を外した、一人の男の顔。
どうしてその顔を、自分に向けるのか。なぜ恐れないのかが、白の魔女には全然理解できなかった。
「白の魔女」
「なんです」
「お前は何が好きだ」
唐突な問いだった。
「質問の意図がわかりません」
「そのままだ。好きなものはなんだと聞いている」
水面が揺れる。
「……ありません」
欲しいものは、ヴァルディウス王国の人々の笑顔だった。守りたいものも、とうに置いてきた。
レオニスはしばらく黙り、やがて言う。
「では、これから作ればいい」
あまりにも軽い声音。
思わず顔を上げる。
「簡単に言いますね」
「簡単だ」
「簡単ではありません」
「ならば俺にしろ」
理屈になっていない。
だが、その強引さが胸の奥をわずかに軋ませる。
「……陛下をですか?」
「ああ。俺はお前が好きだ」
言い切る声に迷いはない。
なぜ自分なのか。
なぜ排除しないのか。
問えば、何かが崩れそうだった。白の魔女が心に建てた堅牢な城が決壊しそうだった。
「なんだ」
「いえ」
視線を逸らす。
日が強い。木々がざわめく。白の魔女は顔を伏せる。今、この距離で顔を見られるのは、好ましくないと。
隣で王は静かに湖を見ている。
彼がどれほどの決意を胸に秘めているのか、白の魔女は知らない。
知らないまま、ただ隣に立つ。
白の魔女がどれだけの痛みの中から、好きなものを切り捨てる選択を選んだのか、王は知らない。
知らないまま、ただ隣に座る。
この静かな時間が、二人には新鮮だった。