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第3章:救いと、新たな苦悩の始まり
人工的な電子音が、規則正しく鼓膜を叩いていた。
ピッ、ピッ、ピッ
視界は真っ白だった。天井の蛍光灯が、網膜を刺すように無機質な光を放っている。鼻を突くのは、ツンとした消毒液の臭い。
(ここは、どこ……?)
井上結衣は、ゆっくりと自分の意識をかき集めようとした。しかし、全身を凄まじい重量感が支配しており、指先一つ動かすことができない。頭の芯がズキズキと激しく痛み、呼吸をするたびに胸の奥が引き裂かれるように苦しかった。
「結衣……! 結衣なのね! お医者様、結衣が、結衣の目が開きました!」
視界の端から、涙でぐしゃぐしゃになった女の顔が飛び込んできた。母親だった。その声を聴いた瞬間、結衣の全身の細胞が恐怖で総毛立った。あの忌まわし い「音」が、また戻ってきたのだ。医師や看護師が慌ただしく部屋に流れ込んできて、結衣の体を 触り、脈を測り、様々な言葉を投げかけてくる。
「聞こえますか」
「ここがどこか分かりますか」
「奇跡的ですよ」
――それらの声は、今の結衣にとっては救いでも何でもなかった。ただ、せっかく手に入れたはずの「完璧な静寂」の海を汚す、泥水のような雑音に過ぎなかった。結衣は5階建てのビルからコンクリートの地面へと落下した。
普通であれば即死していてもおかしくない高さだった。しかし、途中でビルの3階から突き出ていた古いプラスチック製の雨樋と、2階の頑丈な日よけ用テントがクッションとなり、奇跡的に致命傷を免れたのだという。
それでも、全身の骨折、内臓の損傷、そして頭部への強い打撃。一ヶ月近くも集中治療室で生死の境を彷徨った末の、奇跡の生還だった。しかし、結衣の心は、あのビルの屋上から飛び降りた瞬間のまま、完全に時を止めていた。
「よかった、本当に本当によかった……。お母さん、あんたが死んじゃったらどうしようかって、毎日毎日生きた心地がしなかったのよ……」
一般病棟に移ってから、母親は毎日、朝から晩まで結衣のベッドの脇に付き添った。以前のようなヒステリックな小言は、もう言わなくなった。むしろ、結衣の機嫌を窺うように、ひたすら優しく、哀れみのこもった声で話しかけてくる。スプーンで粥を口元に運び、汚れた汗をタオルで拭き、結衣がいかに大切な存在かを涙ながらに語り続ける。
だが、その「歪んだ献身」こそが、結衣の精神を確実に、そして深く病ませていった。
「結衣、寒くない?」
「何か食べたいものはある?」
「リハビリ頑張ろうね、また元通り歩けるようになるって先生も言ってたから」
母親が発するすべての言葉が、結衣の耳を通過するとき、すべて「呪詛」に変換された。
(どうして死なせてくれなかったの?)
(どうしてまた、私をこのうるさい世界に引きずり戻したの?)
優しさに満ちた母親の声は、結衣には
「私はこんなに良い母親なのに、あんたはどうしてそんなことをしたの?」
という無言の責め苦にしか聞こえなかった。母親の言葉の節々に宿る「心配」の響きが、結衣の脳髄を一本の針でじわじわと突き刺すような、持続的な精神的暴力となって彼女を苛んだ。
「 う、あ……」
結衣は声を出そうとしたが、喉が潰れたようにうまく掠れた音しか出ない。それ以上に、言葉を発すること自体が恐ろしかった。自分が声を出すということは、この世界に新しい「音」を付け足すということだ。それは耐えがたかった。
結衣は自分の声さえも、不快なノイズとして拒絶し始めていた。やがて結衣は、母親が部屋にいる間、完全に目を閉じ、死んだように微動だにしない時間を選ぶようになった。
それでも、耳を塞ぐことはできない。骨折した両腕はギプスで固定され、ベッドに縛り付けられているも同然だったからだ。
#病み
ゆう²

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yuki
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8
母親の声。
廊下を行き交うナースカートの車輪の音。
隣の病室から漏れ聞こえるテレビの笑い声。
窓の外を走る車のエンジン音。
世界は相変わらず、結衣を圧殺しようとする音の暴力で満ちていた。一命を取り留めたことで、結衣の五感は以前よりも異常なほど過敏になっていた。小さな足音一つで心臓が跳ね上がり、冷や汗が全身から噴き出す。
パニック発作が日常茶飯事となり、医師は
「外傷後ストレス障害(PTSD)」の診断を下し、強い精神安定剤を処方した。薬を飲むと、体は泥のように重くなり、思考は霧の中に包まれる。
しかし、それによって救われるわけではなかった。ただ、薬の副作用でぼんやりとした頭の中に、かつて見たあの「青い海」の残像が、今度はドス黒く、深く、底の見えない「深海」となって現れるようになったのだ。
(あそこは、誰もいない)
(あそこは、お母さんの声も届かない。光さえも届かない、完璧な無の世界)
結衣の精神は、現実の病室を拒絶し、その脳内の深海へと自らの魂をゆっくりと沈めていくことに没頭し始めた。彼女はリハビリを拒んだ。医師や看護師が話しかけても、視線を合わせず、ただ一点、何もない空間を見つめ続けた。
目は開いているのに、誰のことも見ていない。心だけが、現実から何千メートルも下の、冷たくて静かな水底へと落ちていく。
「結衣、どうして何も言ってくれないの? お母さん、あんたのためにこんなに頑張ってるのに……。お願いだから、昔みたいに笑ってよ……」
母親の泣き声が響く。それはかつての怒声よりもさらに重く、結衣の心に「罪悪感」という名の鉛を巻き付け、深海への沈没をさらに加速させた。結衣の心は、確実に壊れていっていた。もはや彼女が求めているのは、お母さんとの和解でも、病気の回復でも、明るい未来でもなかった。
彼女がただ一つ、狂おしいほどに渇望しているのは――自分の存在そのものが消滅し、完全なる「無」と「静寂」の中に溶けていくことだけだった。カーテンの隙間から差し込む月光を浴びながら、結衣は心の中で、誰にも聞こえない声で呟き続けた。
(もっと深くへ、落ちていく。誰も私を見つけられない、暗い海の底へ――)
♡よろしくお願いします。
コメント
1件
読み終えて、正直胸が苦しくなったよ……。 「救い」と思われた生還が、結衣にとってはさらなる地獄の始まりでさ。母親の優しさが「呪詛」に変換される描写、すごくリアルで刺さった。静寂を求めて深海へ沈んでいく心の様子が、映像として浮かんでくるみたいだった。 これは続きが気になるし、読むたびに心がぎゅっとなるな……🔥