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太陽が大きく傾いて紅玉のように色づく夕暮れ時になっても、ユカリとベルニージュは少しでもましな宿を探してエベット・シルマニータを散策していた。ただし二人の歩くこの場所は、時に寂しげだったり、時に恐ろしげだったりする秋の夕日の届かない、地面の下を掘って造られた地下の街だった。
石畳は地上と何も変わらないが、壁が隙間なく並んでいてユカリは少し窮屈に感じた。常に天井があるのも息苦しい。真っ暗闇ではないが、明かりは十分といえない。エベット・シルマニータの地下街では夕日の代わりに、枯れ野を水に溶かしたような不思議な黄緑色の炎の揺らめく蝋燭が無数の燭台に据えられていた。
一見すると普通の蝋燭だが樹皮のような細かい模様が描かれており、また燭台の方には遍く炎を称える四行詩が三種類の文字で記されている。それらが道の端に置かれ、あるいは吊るされている。その炎の明かりが地下街を鮮やかに浮き上がらせているのだった。炎は風も吹かないのに時々揺れて、地上に墜ちてきた星が天の仲間に助けを乞うように時々瞬くのだった。
そうして薄暗い街は光と影が常に生き生きと動き、まるで巨大な生き物の体内であるかのようにユカリに見せた。
とはいえ、地上と変わらない人通りがあり、ここにもまた等しく祝福されるべき平和な営みがあった。
「あんまり怪物が潜んでたり、呪いが噴き出したりしそうな雰囲気じゃないね。それに偶像の一つもない」ユカリは土の香りのする湿った空気を嗅ぎながら言った。
ユカリの鼻先を歩くベルニージュは振り向かずに答える。「いや、ここは地下神殿じゃないよ。一般開放された層でもない。今いるのは近年作られた地下街」
「ああ、地下街。そういえばそんな話を聞いたっけ。道理で罠が仕掛けられたりしてそうじゃないなと思ったよ」
「この地下街だってすごいけどね。相当優秀な鉱夫や建築家、大工や石工を沢山動員したんだろうなあ。蝋燭は、もっと工夫できそうだけど。換気はどうなってるんだろう。ほら、見て。普通は坑木に使われないような柔らかい木を魔法との兼ね合いで利用してる」
ユカリも天井を見上げるが、ベルニージュの指が何をさしているのか分からなかった。しかしまるで星々のような無数の燭台の眺めは素晴らしいと思った。
「すごいね。とても綺麗」
「そこじゃない。綺麗だけど」
二人の声も足音も、地下の通りを行く人々のざわめきも全てが壁と天井と床を反響し、海の向こうの文化の違う人々の音楽のように聞こえた。
「でも、そう言えばキーチェカさんは地下神殿と地下街は繋がってるって言ってたよ」
「うん。ここから北に行けば地下神殿に繋がってるらしい。それはともかく、まずは今夜の宿屋を見つけないとね」
ユカリは飽きの来ないめくるめく景色を眺めつづける。地上とはまるで違うが、意匠にはどこか共通するものも見て取れる。通りは三十歩ほどの幅があるが、天井は普通の住居の天井と変わらない高さだ。坑木だけの場所もあれば、拱門を作ってしっかりと補強している場所もある。
家屋が立ち並ぶ代わりに、掘り抜かれた空間を店舗や住宅としているらしい。看板を見る限り、ほとんど地上と大差のない商いをしているようだ。肉牛商人がいれば石工もいる。代筆屋があれば羊皮紙工房もある。他の多くの街と同じく、街角には吟遊詩人が歌っており、占い師が怪しげな微笑みを浮かべている。
しかしどうやらこの地下街でもっとも幅を利かせている職業は発掘屋のようだ。というよりは彼らを支える仕事の需要が大きいらしい。キーチェカが着ていたような装束や発掘に使う道具、それに地下神殿は様々な古代の魔法が残っているらしく、その対策の呪文やお守り、現場で対応できる同行者を募ってもいる。
ユカリは遅れを取り戻し、ベルニージュの隣に並ぶ。
「結局、二人とも地下神殿という情報に繋がったわけだよね。二手に分かれる意味なかったかも」
「そんなことないよ。ワタシはサクリフがここに来たっていう話を聞けたし、地下神殿が魔女の爪痕の一つとされていることも分かった」
それがベルニージュの母からもたらされた情報だということをユカリはもう聞いていたが、触れないことにした。
「私は、えっと、発掘屋のことを知ることができた、とか? キーチェカさんと炉辺さんに出会えたことも収穫かな。わあ、広いね」
長い通路を抜けると二人の目の前には巨大な空間が広がっていた。さらに多くの燭台に据えられた蝋燭が黄緑色の怪しげな光を天井のすぐ近くで銀河のように煌めかせている。空間はすり鉢状になっていて中心へと幾つもの道が伸びている。どうやらこの驚異の空間は、地上の街でいうところの広場にあたるらしい。人々の営みは地下でも変わらず、お喋りし、笑い合い、犬や猫、荷運びの驢馬も行き来している。それにここは先ほどまでの通路と違って、地上と変わらない家屋がいくつも建っていた。
ユカリは嘆息を漏らしつつ言う。「蝋燭を除けば、ここの景色は地上とあまり変わらないね」
「でも屋根の勾配や樋に何の意味があるのか分からない」ベルニージュは間違いを正すような口調で言った。
「それは、そうかもしれないけど。慣れ親しんだものの方がいいんじゃない?」
中心には噴水があり、なぜかどの蝋燭よりも強く、夢にも見れない輝きを放っている。また天井の円蓋は地上に出ているらしく、採光窓から夕暮れが地下街に降り注いでいた。黄緑の光と赤い光が混じり合って広場を驚嘆すべき美しい色合いに染め上げている。
「そういえばシイマって?」とベルニージュが尋ねる。
「キーチェカさんのおばあさんだよ。酒場兼食堂の女将さん」
二人は広場の中心まで降りて行って噴水に手を突っ込んでみる。普通の水とは違う柔らかいような軽いような、半分空気で出来ていそうな感触だ。噴水の底面には燭台に記されていたのと同じような呪文が彫り刻まれていた。
「それで、地下神殿に挑むんだよね?」とベルニージュは尋ねる。
「挑むっていうと大げさだけど。何かサクリフさんを助けるための糸口があるかもしれないから。調べてみたい」
ベルニージュは光のような水のようなそれを両手ですくって覗き見ながら言う。「いいと思うよ。正直、あの蛾の怪物を倒すのは難しそうだし、助けられるならそれに越したことはない。地下神殿は魔女シーベラが改築したって話だから、もしかしたら魔女の牢獄のような魔法があるかもしれない。それは危険を伴う可能性も高いってことだけど」
ベルニージュが光る水を放り投げると、まるで蒸発するように光の粒に変じて空中に溶けて消えた。手は全く濡れていない。
ユカリも同じように遊びながら尋ねる。「キーチェカさんの助けを借りられないかなって思ってるんだけど、どう思う?」
「ユカリがキーチェカさんとやらを助けたいんだろうなって思う」
ベルニージュが眉根を寄せつつ、口の端を上げて、ユカリを見上げている。
ユカリは自分も知らない心の奥底を覗き見られたような気がして変な顔をする。
「私も言われて初めて気づいた。そうかもしれない」
「ただ発掘屋に協力を頼みたいだけなら、もっと敏腕を雇うことも出来るからね。まあ、ワタシもその地下神殿の最奥とやらには興味があるから、キーチェカさんを雇うのに反対はしないけど。でも話を聞くに反対しそうな人がいるんでしょ? 食堂の女将、シイマさん?」
「そうなんだよね。何とか説得できると良いんだけど」
一通り噴水で遊んだあと、二人は広場に面した宿屋を見つけて宿泊することにした。前の宿よりは値が張ったが、それでも部屋を見ると破格の値段だったことが分かって二人は大いに満足した。
窓は硝子で広場に面している。噴水の輝きは部屋の中にまで届いて美しく彩った。部屋はとても清潔で、専用の錠前も用意されている。二つの寝台はとても大きく、柔らかく、虫が潜んでいる心配もなさそうだ。
寝台に潜り込むとユカリはすぐに眠ってしまい、ベルニージュはいつも通り夜遅くまで本を開いていた。