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『だいきらい!』
そう言い終わった瞬間、ハッと正気に戻り、全身から血の気が引くのを感じた。
恐る恐る目の前にいるいざなの顔を覗いたその瞬間、紫の瞳の中に映る、絶望と驚きの色に体中の血が凍るような心地になる。
「…は」
震えを帯びたいざなの声が耳を貫く。その瞬間、罪悪感が胃の底から頭まで広がり、心に薄荷のような後味が残る。
動揺でいざなの力が少し緩んだその隙に彼の腕から飛び降り、少し痺れる足を無理やり動かして部屋から跳び出す。
「○○!!!」
背後であたしを引き留めようとする叫び声が鋭く耳を破るのを無視しながら必死に足を動かし、いざなから距離を開く。口内に溜まった嗚咽が唇の端をするりと器用にくぐりぬけ、呼吸を浅く絡ませる。それと同時に脳が上手く体に情報を送れず、足が縺れる。
いざなに嫌いだなんて言ったのは今日が初めて。
拒絶したのも、なにか隠し事をされるのも、全部今日が初めて。
重い足を無理やり動かし、急いで別の部屋の扉を開けて中に入るとすぐにガチャリと鍵を閉める。
ここは……脱衣所だろうか。すぐ横に見える風呂場と目の前に設置されている鏡や手洗い場にそう理解する。その瞬間、室内に立て籠もっていた、行き場のない冷気たちが真冬を思い起こさせるような鋭い冷たさであたしの体を締め付ける。
パシ、ミシなどの不規則に響く家鳴りの微かな音さえ騒がしく聞こえるような静けさに、言いようのない悔しさがこみ上げる。
『……ふ、ぅ…ぃ』
吐き気を催すほどの後悔の念に、首を絞められたような嗚咽が口から零れ落ちる。
違う、いざなのこと大好き。嫌いなわけがない。
大切な人。あたしのことを1番分かってくれる人。
世界で一番好きな人。初めてずっと傍に居たいって思った人。
…─だからこそ、痛かった。
拳を固く握り締めて指の肉に爪を立てながら、息を潜む。
隠し事をされるのが辛かった。裏切られたような気持ちになってしまった。
そんなゾクゾクとした悔しさに心の内を搔きむしられているあたしの耳にギシリと床が軋む音が響いた。いつから居たのか分からない扉越しに感じる人の気配に、額から汗が帯のように広がっていく。
「なあ、おい」
力を押し殺したようないざなの声から不均等な間を置いてドアが強くノックされた。室内に鳴り響くノックの音は段々と早く大きくなっていき、とうとう鍵の閉まったドアノブがガチャガチャと激しく暴れ回る。
恐怖で胸がドキドキと喉元まで張り詰めてくるのを感じる。
『ヒュ…っ』
ガチャガチャと鳴り響く金属音に合わせて心臓が激しく動悸していき、産まれて初めて感じる肌をチリチリと焼きつけるような感覚に顔色が蒼くなるのを感じた。
「嫌い…って、なんだよ。」
息を吐くような口調で告げられた弱弱しいその言葉を合図に、ドアノブの動きがピタリと止まり、代わりに何かが乗りかかったような鈍い音が扉に響く。
いざなが扉にもたれかかったのだろうか。微かに聞こえてくる、焦ったような息遣いが先ほどよりも近く、くぐもって聞こえる様子にそう思考を巡らす。
『……』
その様子をこっそりと伺いながら十分ばかり逡巡した後、出来るだけ足音がならないよう恐る恐る扉に近づき、震える舌を無理やり動かす。
『い、いざな……』
『ごめん…なさい』
触れる程度に固い扉に手を付き、息を吹き込んだような頼りない声でぼそりと囁くように謝罪の言葉を落とす。そんな、酷く小さな声でもいざなの耳には伝わったのか、その言葉に反応するようにピクリと扉の向かう感じる気配が揺らいだ。
「…ここ、開けろよ。」
ドンッと今までよりも強く震える扉に驚いて、電気に触れたように飛び退く。
硬く、ほんの少しの怒りを含んでいるいざなの声に堪えていた感情が堰を切って涙として洩れ出す。一度涙が零れ始めてしまうと上手く歯止めが聞かなくなり、眼球が壊れたみたいにぐらりと視界が揺らぐ。
「オレの言う事だけ聞けっつったよな。」
「○○はオレのこと好きだもンな?」
ドン、ドン、と急かすようにテンポよく鳴り渡る扉のノック音があたしの恐怖心と焦燥感を高めていく。
「じゃあオレの言うこと聞けるよな」
声に含まれた、見えない圧迫感にじわりじわりと押し付けられて息苦しい。
喉奥まで出かかった言葉を錠剤のように飲み込む。薬の後味に似た不思議な苦みが舌に染みる。
『や、やだ…いまのいざな、こわい』
意を決して、先ほど飲みこんだ言葉を舌の上で弾ませ、吐く。
その瞬間、潮が引くように室内が静まり静寂に包まれると、早鐘みたいな胸の鼓動が鼓膜のすぐそこで鳴っているような感覚を抱く。
「……ごめん」
「…怖がらせるつもりも傷つけるつもりもなかった。」
数秒の間をおいて告げられたそれには力がなく、声というよりも息に近い音吐を零すいざなにはもう怒りも圧迫感も感じられなかった。
『…いざなは、あたしのことほんとにすき?』
そんないざなに、あたしも同じように一拍間を置いて途絶えた空気を繋ぐように言葉を綴る。
『…なんであたしをおそとにだしてくれたの?』
いざなの返答を聞くよりも先に、舌が勝手に言葉を作ってしまう。
気持ちとは逆に体が動いてしまう。
『なんでぎゃくにいままでおそとにだしてくれなかったの、』
『………なんで、あたしをたすけてくれたの…?』
ぽつり、ぽつりと頭に浮かび上がった疑問の声が口から零れ落ちた。
『あたし、かくしごときらい!』
その先の言葉を綴ろうとしても、唇が震えるせいで言葉が上手く紡げない。
「○○」
思い通りにならない自分の体に浅い呼吸を繰り返していたその瞬間、あたしの名前を呼ぶいざなの声が一筋の風のように耳の奥に響いてくる。
その先の言葉が続けられるのを、息を潜めながら待っていると、息を吐くように小さくて細い声が自身の鼓膜にそっと触れた。
「……オレ、人を殺すんだ。」
ぼそりと告げられた“殺す”という言葉がやけに特別な余韻をもって自分の耳に響いた。なにかの反響のようなその余韻が鼓膜の底に二、三秒ほど木霊し続け、黒く重い疑問を残す。
「だから、それを隠すために動かなきゃいけない。」
だけどその疑問を問うよりも先にいざなが言葉を発し、その疑問は答えを知るより先に塗りつぶされた。
「…なぁ。オレのこと本当に嫌い…?」
扉を跨いで聞こえてくるいざなの言葉は微かに震えており、水を張ったように小さかった。
その声にほんの一瞬だけ、一秒時ほど時間が止まったかのようにピタリと硬直したまま躊躇すると、恐る恐る震える指で鍵を解き、扉を開いた。
続きます→♡1000